仁尾の城山に立つ鐘楼
香川県西部、瀬戸内に面した古い港町・仁尾。その町並みから石段をのぼりきった高台に、覚城院の境内がひらける。本堂と向き合う位置に建つのが、裾を大きく広げた二層の鐘楼である。これが国の重要文化財に指定されている覚城院鐘楼で、建築の様式から桃山時代(おおむね1573年から1614年ごろ)のものと判断されている。指定を受けたのは昭和22年(1947年)2月26日だった。
この高台そのものに、鐘楼より古い来歴がある。寺が移ってくる前、ここは仁尾城という城があった場所で、城主は細川頼弘だった。天正7年(1579年)、四国を席巻した長宗我部元親の侵攻を受けて城は落ちた。いま石段の登り口に立つ「仁尾城跡」の碑が、かつてここに城があったことを示すほぼ唯一の手がかりになっている。
覚城院の創建は弘仁10年(819年)、弘法大師(空海)の手によると伝えられる。当初は菩提心院と呼ばれ、近くの七宝山の麓にあった。開基を行基とする説もあり、はじまりの詳細は定かでない。応永年間(1394〜1427年)には大師の再来とうたわれた増吽僧正が再建し、天正の兵火ののちにも建て直された。現在の城山へ寺が移ったのは江戸時代に入ってから、宝永年間(1704〜1710年)に三等上人が城跡に移し、覚城院と改めたときのことである。
建築を読む
鐘楼の姿は、足を止めて眺めるだけの見どころがある。下層は漆喰で仕上げられた裾広がりの壁で覆われ、地面に向かってなだらかに広がっていく。これを袴腰(はかまごし)と呼ぶ。和装の袴の裾が広がる形に似ているところからの呼び名で、下層の木組みを覆って守りながら、海風に対して建物にどっしりとした安定感を与えている。
袴腰の上で建物はひらく。上層には梵鐘が吊られ、音が遠くまで届くよう側面を開け放ち、まわりに高欄をめぐらせている。平面は桁行三間・梁間二間。ここでいう「間」は柱と柱の間隔を数える単位で、一定の長さを指すわけではない。屋根は入母屋造で、軒先は緩やかな勾配で下りつつ、棟近くで切妻状に立ち上がる。葺き方は本瓦葺、平瓦と丸瓦を交互に並べる格式ある手法で、寺院の主要な堂宇に用いられるものと同じである。
こうした要素を合わせて見ると、抑制のきいた桃山建築の一例として読み取れる。桃山時代といえば大城郭や唐門の華やかな彫刻や金箔が思い浮かぶが、地方の鐘楼であるこの建物には同じ時代の静かな側面があらわれている。整った比率と確かな仕口、そして控えめに収められた装飾である。
なぜ守られているのか
鐘楼が指定を受けたのは昭和22年(1947年)2月26日。この日付は、現行の文化財保護法(昭和25年・1950年)よりも前にあたる。つまり鐘楼は、戦前の国宝保存法(昭和4年・1929年)のもとで先に指定された建物で、新しい法律が施行された際に重要文化財へ引き継がれ、いまの区分に至っている。
建物がこの格付けを受ける理由は、ふつう古さと残り具合、そして希少性の組み合わせにある。袴腰の鐘楼は各地に残るが、桃山時代まで年代をさかのぼれる保存のよい例は数少なく、16世紀から17世紀初頭の鐘楼で完存するものは全体に乏しい。覚城院鐘楼はその時代の建て方を読み取れるだけの当初の姿をよくとどめている。
ひとつ正直に断っておきたい点がある。国の記録に記された建造年は1573〜1614年という幅であって、特定の一年ではない。これは建物の様式と細部にもとづく判断であり、棟木などに記された年号ではない。寺がこの城山へ移ったのは1700年代に入ってからで、鐘楼は現在の寺がこの地に構えるよりも古い。両者がどう結びつくのかは公の記録のうえでは十分に整理されていない。最も確かな言い方は記録そのものに沿うもの、すなわち、様式のうえで桃山の建物である、というものになる。
覚城院を訪ねる
鐘楼は高台の境内にひらけた場所に立ち、本堂と向き合う。訪れた人はそのまま近くまで歩いて寄ることができる。前に立つ石柱には重要文化財指定を記す碑文が刻まれている。鐘は今も生きていて、大晦日には除夜の鐘として撞かれ、旧年を送る百八つの音が町に響く。その夜にかぎらず、石段をのぼれば誰でも鐘のそばまで行くことができ、参拝のあとに撞かせてもらえる。音は眼下に広がる仁尾の家並みの上を、長く渡っていく。
同じ高台からは、町でもよい部類の眺めがひらける。北から西にかけて港を見下ろし、その先に瀬戸内海がのぞむ。春には境内のツツジと、ささやかな「山寺市」が地元で知られている。覚城院はさぬき三十三観音霊場の第十九番札所でもあり、本尊の千手観音立像は香川県指定文化財として本堂に安置されている。
仁尾の町は、ゆっくり歩くほど面白い。寺の下に続く路地には古い家や商店が多く残り、かつてここがにぎやかな港であったことをしのばせる。海沿いを少し行けば父母ヶ浜がある。干潮時、夕暮れどきに浅く張った水面が鏡のようになることで知られ、県内でも指折りの撮影地になった。鐘楼と父母ヶ浜は、半日のうちに無理なく組み合わせられる。
車であれば、三豊鳥坂インターチェンジから約20分、市の仁尾支所からは2分ほど。最寄り駅はJR予讃線の詫間駅で、バスで約15分、徒歩なら2キロあまりの距離になる。石段の登り口近く、県道沿いに数台分の駐車場がある。
Q&A
- 鐘を撞くことはできますか。
- はい。鐘楼は境内のひらけた場所にあり、参拝のあとに撞かせてもらえます。大晦日には同じ鐘が除夜の鐘として、百八つ撞かれます。
- 下層の裾広がりの壁は何ですか。
- 袴腰(はかまごし)と呼ばれる部分です。和装の袴の裾のように地面へ向かって広がる形で、下層の木組みを覆って守ります。梵鐘はその上の、開け放たれた上層に吊られています。
- 鐘楼は正確にはいつのものですか。
- 国の記録では桃山時代、1573〜1614年とされています。これは建てられた一年が判明しているわけではなく、様式にもとづく推定です。16世紀後半から17世紀初頭の建物と理解するのがよいでしょう。
- 拝観料や開門時間はありますか。
- 鐘楼は屋外にあり、日中であれば境内に自由に入って近くまで行くことができ、料金もかかりません。祈祷や御朱印、本堂内の拝観などは、あらかじめ寺へ問い合わせるとよいでしょう。
- 周辺で見ておきたい場所は。
- 寺の下に続く仁尾の古い町並みと、海沿いの父母ヶ浜です。父母ヶ浜は夕暮れの鏡のような水面で知られています。覚城院自体もさぬき三十三観音霊場の第十九番札所です。
基本情報
| 名称 | 覚城院鐘楼(かくじょういんしょうろう) |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(昭和22年〔1947年〕2月26日指定) |
| 種別 | 近世以前/寺院 |
| 時代 | 桃山時代(1573〜1614年) |
| 構造及び形式 | 桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺 |
| 員数 | 1棟 |
| 所有者 | 不動護国寺(覚城院・真言宗御室派) |
| 所在地 | 香川県三豊市仁尾町仁尾 |
| アクセス | JR予讃線・詫間駅からバス約15分、徒歩約2.1km/三豊鳥坂ICから車で約20分 |
| 公開状況 | 境内は日中開放、鐘楼は屋外で自由に近くまで参観可 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/3306
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/191143
- さぬき三十三観音霊場第19番 覚城院(三豊市)
- https://www.city.mitoyo.lg.jp/kakuka/seisaku/sangyo/14_1/2/2490.html
- 覚城院 公式サイト
- https://kakujouin.jp/
最終更新日: 2026.06.03