形をそのまま残した武家町

昭和56年(1981年)11月、現在の鹿児島県南九州市にある18.6ヘクタールの区域が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。知覧麓と呼ばれるこの一帯には、江戸時代中期、いまから約250年前に整えられた武家集落の地割と屋敷が残されている。

歩いてまず気づくのは、表通りがまっすぐ伸びていないことだ。本馬場通りは地区を横切るあいだに折れ、ずれる。両側には石垣が積まれ、その上に茶やイヌマキの生垣が低く平らに刈り込まれて続く。石垣の奥には屋根の低い家々が並び、それぞれが庭をもつ。南には母ヶ岳の優美な山容があり、知覧の庭師たちは代々この山を借景として、生垣や石組みの高さをその稜線に合わせてきた。家並みというより、植栽の行き届いた一つの町、と言ったほうが近い。

知覧は「薩摩の小京都」と呼ばれることがある。やや過分な呼び名にも思えるが、地方の城下集落でありながら美しさを手放さなかった、という事実は確かにそこにある。

薩摩がこうした町をつくった理由

知覧の町の形は、薩摩藩の統治のしくみから直接生まれている。77万石の島津家は、家臣を一つの城下に集めなかった。領内を外城(とじょう)と呼ぶ113の区画に分け、それぞれに麓(ふもと)という武家集落を設けたのである。麓は地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に構成され、武士は鹿児島に集結することなく各地に分散して住んだ。領内全体を武士が守り、藩の軍事力を国土に薄く広く配置する仕組みだった。

知覧は藩の直轄ではなく、私領であった。大隅国に発祥し、南北朝期から知覧城に拠った佐多氏の領地である。江戸時代に薩摩藩主の子が佐多家に入ったのち、当主は島津姓を名乗ることを許され、この家系は知覧島津家と呼ばれるようになった。

いま残る町並みが整えられたのは江戸時代中期にあたる。どの代の事業かについては地元でも説が分かれており、寛文期に生まれ初代知覧領主となった16代(1651〜1719年)の時代とする見方と、18代島津久峰(1732〜1772年)の時代とする見方がある。いずれにせよ、これは意図された都市計画だった。区画は城塁型に配され、各屋敷の石垣はそのまま防御の障壁として働くよう築かれ、折れ曲がる表通りは攻め手が遠くまで見通せないように引かれている。戦のために設計された町が、結果として庭のような姿になった。

選定が評価したもの

知覧が選定された基準は、伝統的建造物群および地割がよく旧態を保持しているもの、というものである。評価の根拠は二つの要素が一体となって働いている点にある。すなわち、残された屋敷地と道路割り、そして本馬場通りに沿って連続する石垣と生垣の景観である。江戸時代の姿をこれほど完全に保った武家集落は、全国を見渡しても多くない。

地区内の庭園には、それ自体に別の指定がある。保存地区の選定に数か月先立つ昭和56年2月、区域内の七つの庭園が「知覧麓庭園」として国の名勝に指定された。指定にあたっては、その意匠が優れていることに加え、手法に琉球の庭園と相通じるものがあり、庭園文化の伝播を知るうえで貴重であることが評価された。庭は当時、京都から同道した庭師の手によるとも伝えられ、もしそうであれば知覧は京・薩摩・琉球の影響が交わる地点に立つことになる。

町を歩く

七つの庭園

名勝指定の七庭園のうち六つが枯山水で、池泉式は森重堅氏庭園ただ一つ。知覧で水を構成要素とする庭はこれだけである。多様でありながら、七庭には共通の文法がある。多くは奥に鋭く立つ石を「峯」として据え、その下や脇に枯滝の石組みを置き、斜面を丸く刈り込んだ植栽で覆って遠い連山に見立てる。手前は白砂が敷かれ、ときにそこへ一石だけが、大海に浮かぶ船のように残される。

個々の庭はゆっくり見るほど応えてくれる。西郷恵一郎氏庭園は枯滝を隅に組み、高く刈り込んだイヌマキで遠景の山並みを表す。佐多直忠氏庭園は七庭でもっとも静かで、中心の石組みの左右に梅が立ち、2月中旬に花を開く。竹の結界で人を入れないためか、七庭で唯一、苔が広がりはじめている。森重堅氏庭園は池をもつことで枯山水にはできない表現に踏み込み、水際に洞窟を思わせる石組みを構えている。

門・石垣・屏風岩

屋敷の入口は格式を語る。本家筋は切妻屋根の下に小屋根をつけた腕木門を構え、石垣には切り石を用いた。分家筋の門には小屋根がなく、石垣は丸石となる。この違いを知れば、門柱を見るだけで通りの序列が読める。

多くの門の内側には、ヒンプン(屏風岩)と呼ばれる短い独立壁が立つ。屋敷内への視線を遮り、入る者に身をかわさせるこの仕掛けは、目隠しと防御を兼ねる。形は家ごとに異なる。この屏風状の壁もまた、沖縄の民家建築に同じ発想の例があり、名勝指定が指摘した南方とのつながりを示す一つの糸である。

生垣と植栽

知覧の生垣は背景ではなく、建築そのものである。石垣の上には茶とイヌマキの波状生垣が連なり、ツツジやサツキは庭を縁取る大きな刈り込みに仕立てられる。庭石には地元産の凝灰岩が用いられている。晩春、刈り込まれたツツジ・サツキが一斉に花を開くと、整然とした緑の町並みが束の間、明るくほどける。

武家屋敷の通りの先へ

知覧には、まったく性格の異なるもう一つの歴史がある。第二次世界大戦末期、ここには陸軍の飛行場が置かれ、若い飛行兵が出撃していった。近接する知覧特攻平和会館は、彼らの遺書や写真を伝えている。江戸時代の通りから会館へと足を運び、一日のうちに二つの時代を歩く旅行者も多い。

町を見下ろす丘陵には、佐多氏の中世山城・知覧城跡が広がる。国の史跡に指定され、丘を刻む空堀や曲輪が、麓を築いた一族の古い拠点であったことを伝える。周囲の丘はまた茶どころでもあり、知覧は鹿児島を代表する緑茶の産地の一つだ。地元の茶を一服するのは、無理のない、ふさわしい休息になる。南へ車を走らせれば、天然の砂むし温泉で知られる指宿の温泉郷も射程に入る。

Q&A

Q屋敷の中には入れますか。
A保存地区は現に人が暮らす町で、屋敷の多くは個人の住宅です。名勝指定の七庭園は公開されており、屋敷の内部からではなく庭の敷地内から鑑賞します。無料公開の知覧型二ツ家民家では、建物に上がって見学できます。
Q見学にはどのくらい時間がかかりますか。
A一回の入園料で七庭園すべてを巡れます。通りを歩き、各庭をゆっくり見て回るとおおむね90分から2時間程度。知覧特攻平和会館まで足を延ばす場合は、その分の時間を加えてください。
Q訪れるのに良い季節は。
A刈り込みと石組みはどの季節も整って見えます。晩春にはツツジ・サツキが桃色の花をつけ、2月中旬には佐多直忠氏庭園に梅が咲きます。地区は年中無休で公開されています。
Q外国語の案内はありますか。
A七つの庭園それぞれで、多言語対応の無料Wi-Fi音声ガイドを利用できます。さらに、侍姿のガイドキャラクターが通りや庭をアニメーションで解説するAR(拡張現実)サービスも提供されています。
Q車がなくても行けますか。
A知覧へは鹿児島方面、およびJR指宿枕崎線の各駅からバスが通じています。「武家屋敷入口」または「市役所」バス停で下車すれば、いずれも地区まで徒歩すぐです。

基本データ

名称南九州市知覧(知覧麓)
所在地鹿児島県南九州市知覧町郡
指定区分重要伝統的建造物群保存地区(種別:武家町)/選定年月日 昭和56年(1981年)11月30日
地区面積18.6ヘクタール
選定基準伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
関連指定知覧麓庭園(七庭園)/国名勝・昭和56年2月23日指定
庭園公開時間9:00〜17:00、年中無休
庭園入園料大人530円、小・中学生320円(30名以上は団体料金)/未就学児は無料
住所〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡13731番地1

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「南九州市知覧」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/103/40
南九州市「【国選定重要伝統的建造物群保存地区】南九州市知覧伝統的建造物群保存地区」
https://www.city.minamikyushu.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaika/bunkazai/4/2/401.html
南九州市「【国指定名勝】知覧麓庭園」
https://www.city.minamikyushu.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaika/bunkazai/4/2/399.html
知覧武家屋敷庭園 有限責任事業組合 公式ホームページ
https://chiran-bukeyashiki.com/
鹿児島県観光サイト「知覧武家屋敷庭園群」
https://www.kagoshima-kankou.com/guide/11053

最終更新日: 2026.05.23