月を見るために建てられた別荘

箱根小涌園貴賓館(旧藤田平太郎別荘)は、神奈川県足柄下郡箱根町二ノ平にある大正7年(1918年)竣工の木造平屋建住宅で、平成13年(2001年)11月20日に国の登録有形文化財となった建造物である。

施主の藤田平太郎は、藤田財閥を興した藤田伝三郎の嫡男であり、藤田組の社長を務めた人物。男爵。父ゆずりの骨董趣味を持ち、茶道具や絵画に深い見識を持つ好事家として知られた。大正期の箱根には政財界人や華族の別荘が集まりつつあり、彼ほどの資力があれば山中のどこにでも土地を求められたはずである。

それでもこの一角が選ばれた理由を、現在の運営者は「月」と説明している。

建物はほぼ東を向く。主室「月の間」の正面には、大文字焼で知られる明星ヶ岳が据わり、左手には明神ヶ岳の尾根が伸びる。月はその稜線の向こうから昇ってくる。平太郎は主室を三面ガラス張りとし、縁側に出ることなく、座したまま月の出を追えるようにした。庭を意図して簡素にとどめたのも、稜線と空の側に視線を集めるためだったとされる。

「登録」であること:指定文化財との違い

ここで区別を確認しておきたい。重要文化財は国が「指定」する制度で、現状変更には強い制限がかかる。対して登録有形文化財は平成8年(1996年)に始まった「登録」の制度であり、築後おおむね50年を経て、なお使われ続けている建物を対象とする。外観の維持が主たる要件で、内部の改装にはかなりの自由が残る。男爵の座敷に飲食用の卓が置かれている現状は、この制度設計の帰結である。

貴賓館の登録番号は14-0059。第31回登録で、登録年月日は平成13年11月20日、告示は同年12月4日。国指定文化財等データベースが記す登録基準は一つ、「造形の規範となっているもの」。

この基準が指しているのは装飾の華やかさではなく、平面計画のほうだと読める。玄関は北端に置かれ、そこから南へ座敷が連なる。その西側には中庭を挟んでサービス部門が配される。そして各室は廊下で結ばれている。伝統的な和風住宅では、部屋を直接続けて並べるのが普通で、奥へ行くには手前の部屋を通り抜けなければならない。動線と居室を分離したこの配置は近代的な発想であり、データベースの解説文が「巧みな配置」と評する所以はここにある。

構造は木造平屋建、瓦一部亜鉛引鉄板及び銅板葺、建築面積860平方メートル。員数1棟。

今井平七という名工

設計・監督を担ったのは今井平七。国指定文化財等データベースは「近代の名工の一人」と記す。運営者側の紹介では皇居の明治宮殿造営にも関与した人物とされるが、この点は文化庁の一次資料に記載がない。確定した経歴としてではなく、施設側に伝わる説明として受け取るのが妥当だろう。

確かなのは、注文主の眼が建築に及んでいたことである。平太郎は内装に貴重な材を惜しまず用い、その一方で庭園はごく単純な構成にとどめた。豪奢に振り切るより難しいのは、この抑制のほうだ。

敷地内には蔵を改装した小さな美術館「芸術蔵」があり、山本丘人や東郷青児など日本画の巨匠の作品を常時16点ほど展示している。貴賓館で食事をした客が鑑賞できる。

私邸から旅館へ

転機は戦後に訪れた。藤田観光の創業者で初代社長の小川栄一がこの別荘を譲り受け、昭和23年(1948年)に旅館「箱根小涌園」として開業する。一部の特権階級の持ち物だった建物を一般に開放し、鑑賞してもらうとともに旅の疲れを癒す場をつくる、というのが小川の考えだった。以後、数十年にわたってこの座敷には客が泊まり続けた。

周囲には温泉レジャー施設ユネッサン、旅館「箱根小涌園 天悠」、庭園露天風呂「森の湯」などが順次加わり、リゾートへと拡張していく。かつて右手に望めた浅間山は、現在は建物に遮られて見えない。

貴賓館そのものは現在「蕎麦 貴賓館」として営業する。昼食は11時30分から15時(ラストオーダー14時30分)。17時から22時の夕食は宿泊者限定である。冷蕎麦・温蕎麦が2,600円、鴨鍋蕎麦膳と箱根山膳が各3,500円、特製天丼御膳3,900円、鰻まぶし飯と貴賓館蕎麦膳が5,800円(いずれも税込)。蕎麦粉は北海道北竜産を使う。昼食の席の予約・問い合わせは電話0460-82-8050で受け付けている。利用客はユネッサン敷地内の「森の湯」も使える。

4名から30名の祝い膳は7日前までの予約制で、1日1組限定。個室を希望する場合は別途利用料がかかる。

行き方と、見ておきたいところ

箱根湯本駅から箱根登山バスまたは伊豆箱根バスに乗り、「小涌園」下車で所要約20分。バス停の道路向かいがすぐ入口である。小田原駅からは同じ路線で約40分。車の場合は駐車場がある。

館内で見ておきたいものを三つ挙げるなら、まず玄関から南へ延びる長い廊下。ここを歩かせてから座敷を開くという段取りそのものが設計意図である。次に窓のガラス。一部に大正期の板ガラスが残り、歩くにつれて庭の緑がわずかに歪む。そして「月の間」の床まわりと天井。料理が運ばれてくる前に、いちど視線を上げておきたい。

館内の撮影は個人的な記録の範囲であればおおむね差し支えないが、営業中の飲食店であり、他の客への配慮は必要になる。芸術蔵の展示作品を撮る場合は、事前にスタッフへ確認するとよい。

最良の時間帯は昼食時ではない。秋の満月の夜であり、それは敷地内に宿泊する者にだけ開かれている。

Q&A

Q箱根小涌園貴賓館は見学できますか。拝観料はかかりますか。
A見学専用の公開や拝観料の設定はありません。建物は「蕎麦 貴賓館」として営業しており、食事の利用を通じて内部に入る形になります。昼食は11時30分から15時(ラストオーダー14時30分)、予約・問い合わせは電話0460-82-8050。17時から22時の夕食は箱根小涌園内の宿泊者限定です。
Q箱根小涌園貴賓館はいつ、誰のために建てられたのですか。
A大正7年(1918年)に、藤田組社長で男爵の藤田平太郎の別荘として建てられました。設計・監督は今井平七。戦後に藤田観光初代社長の小川栄一が譲り受け、昭和23年(1948年)に旅館「箱根小涌園」として開業しています。
Q箱根小涌園貴賓館は国宝や重要文化財ですか。
Aいずれでもありません。国の登録有形文化財(建造物)で、登録年月日は平成13年(2001年)11月20日、登録番号は14-0059です。登録は指定より緩やかな保護制度で、使われ続けている建物を対象とし、内部を飲食店などに転用する余地を残しています。
Q箱根小涌園貴賓館へは箱根湯本駅からどう行きますか。
A箱根湯本駅から箱根登山バスまたは伊豆箱根バスの元箱根・箱根町方面行きに乗り、「小涌園」下車で約20分。バス停の道路向かいがすぐ敷地です。小田原駅からは約40分。駐車場もあります。
Q箱根小涌園貴賓館の見どころはどこですか。
A主室「月の間」は三面がガラス張りで、明星ヶ岳の方角に向けて開かれ、座ったまま月の出を眺められます。玄関を北端に置き、各室を廊下で結ぶ平面計画も見どころです。敷地内には蔵を改装した「芸術蔵」があり、山本丘人・東郷青児らの作品を常時16点ほど公開しています。

基本情報

名称箱根小涌園貴賓館(旧藤田平太郎別荘)/はこねこわきえんきひんかん
所在地神奈川県足柄下郡箱根町二ノ平1297
指定区分登録有形文化財(建造物) 登録番号14-0059 登録基準:造形の規範となっているもの
指定年登録年月日 平成13年(2001年)11月20日/登録告示 同年12月4日(第31回登録)
員数1棟
寸法木造平屋建、瓦一部亜鉛引鉄板及び銅板葺、建築面積860平方メートル
所有者藤田観光株式会社
公開状況「蕎麦 貴賓館」として営業。昼食11:30〜15:00(L.O.14:30)、夕食17:00〜22:00は宿泊者限定。予約 0460-82-8050。拝観料の設定なし
建築年大正7年(1918年) 設計・監督:今井平七

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)箱根小涌園貴賓館(旧藤田平太郎別荘)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00002527
文化遺産オンライン 箱根小涌園貴賓館(旧藤田平太郎別荘)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/115607
箱根小涌園 天悠 公式サイト「蕎麦 貴賓館」(貴賓館の歴史・見どころ)
https://www.ten-yu.com/kihinkan.html
箱根小涌園 三河屋旅館 公式サイト「蕎麦 貴賓館」(芸術蔵・お品書き)
https://www.hakonekowakien-mikawaya.jp/kihinkan.html
箱根ナビ「蕎麦 貴賓館」
https://www.hakonenavi.jp/spot/1326

最終更新日: 2026.08.13