与謝野夫妻が泊まったと伝わる座敷
昭和七年(一九三二)八月、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻が天草を訪れ、上田家住宅の離座敷に宿泊したと伝えられる。この客用の一棟は明治期の建築で、敷地に残る五棟の登録建造物のうち最も繊細なつくりをもち、格のある客人を静かにもてなすためにこそ設けられた座敷である。
離座敷は主屋南側の表玄関に接続する。東西棟の入母屋造、桟瓦葺で、四周に下屋を廻すため、座敷は深い庇の内に収まる。中心は十二畳半の座敷で、四周に広縁を廻し、東面および南面には切目縁を廻らす。床・棚・書院には良材を用い、全体に繊細で端正な木組みが行き渡る。
この座敷を明治の建築と見せるのは、ガラス戸の多用である。側廻りにガラス戸を惜しみなく用いた開放的な構えは、江戸のそれというより近代の造形感覚として明瞭に読める。ここで屋敷は江戸を離れ、明治へと歩を進める。
登録の理由
離座敷は平成十八年(二〇〇六)に登録有形文化財(建造物)となった。登録番号は43-0082、登録基準は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」である。主屋が文化十二年(一八一五)にさかのぼる屋敷にあって、離座敷は後の章を担う。接客のための質の高い専用空間に、上田家が改めて投資した明治期の増築である。
その価値は、木工の質と、変わりゆく趣味を書きとめている点にある。違い棚と書院は格式ある座敷の定型に従うが、広く取ったガラス戸の縁は、その定型を光と庭へと開く方向に押し進める。これは以前の座敷には見られなかった扱いである。結果として、地方の一族が思い描く客間の像が、江戸から近代へと移るなかでどう展開したかを示す、小ぶりで入念に構成された内部が生まれた。接続する表玄関とあわせて読むとき、離座敷は、格式ある閾から奥の間へと至る屋敷の接客の流れを完結させる。
歌人夫妻の来訪は地域の記憶に属し、「宿泊したと言われる」という言い回しで記されるため、確たる事実というより言い伝えとして扱うのが穏当である。とはいえ、それは建物の用途によく合う。名の知られた客を迎えるために設けられた座敷は、著名な夫妻が滞在した場としても無理がなく、その結びつきは以後この座敷に付き添い続けている。
見どころ
屋内は安全上非公開のため、離座敷は外から、また周囲の庭から鑑賞する。これは結果としてこの座敷に適している。そもそもこの部屋は庭に向かって建てられているからだ。ガラス戸の縁が走る側に立つと、深い庇と切目縁が、畳の座敷とその先の植栽との間をどう取り持つかが見えてくる。内部が、作庭された斜面へと外へ手を伸ばしていく。
庭そのものも注視に値する。屋敷は約千坪に広がり、いくつかの区画に分かれる。離座敷の下手には、かつて小舟を浮かべられるほど水を湛えた池庭があり、主屋からは正面に眺める鑑賞式の庭が構成される。植栽は背後の山を生かし、立ち上がる地面に石組みが据えられる。庭は文化財の指定を受けていないが、天草地方では規模の大きい歴史的庭園のひとつであり、離座敷はその自然な視点場となる。
住宅は寿芳窯と上田資料館に隣り合い、離座敷、焼物、そして一族の古文書をあわせて見学できる。高浜は天草西海岸に位置し、本渡からバスで高浜のバス停に乗り換えて至る。近くの東シナ海の海辺は夕景で知られる。
Q&A
- 与謝野夫妻は本当にここに泊まったのですか。
- 昭和七年(一九三二)八月に与謝野鉄幹・晶子夫妻がこの離座敷に宿泊したと伝えられます。確たる記録というより言い伝えとして残りますが、この座敷はそうした客を迎えるためにこそ建てられました。
- 中に入れますか。
- 屋内は老朽化のため非公開で、敷地や庭から外観を見学します。近くの上田資料館は入館料を払えば見学できます。
- この座敷の見どころは何ですか。
- 十二畳半の座敷に、良材を用いた床・違い棚・書院を備え、四周を広縁が廻ります。ガラス戸を多用した開放的な側廻りは、古い接客空間には珍しい近代的な明るさをもちます。
- 庭はありますか。
- はい。屋敷には複数の庭の区画があり、離座敷の下手の池庭や、山裾を生かした鑑賞式の庭が残ります。指定はありませんが、天草でも規模の大きな歴史的庭園のひとつです。
- いつ建てられたのですか。
- 明治期(一八六八〜一九一二)の建築で、文化十二年(一八一五)の主屋より新しい建物です。接客のための質の高い専用空間として増築されました。
基本データ
| 名称 | 上田家住宅離座敷(うえだけじゅうたくはなれざしき) |
|---|---|
| 所在地 | 熊本県天草市天草町高浜南七二三 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物)/平成十八年登録/登録番号 43-0082 |
| 年代 | 明治期(一八六八〜一九一二) |
| 構造・規模 | 木造平屋建、瓦葺/建築面積約一〇五平方メートル/入母屋造、四周に下屋 |
| 交通 | 本渡から下田温泉方面バス、高浜バス停乗換、徒歩数分 |
| 備考 | 屋内非公開、外観見学。昭和七年に与謝野夫妻が宿泊したと伝わる |
参考文献
- 国指定文化財等データベース — 上田家住宅離座敷
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00005517
- 天草市 — 上田家住宅
- https://www.city.amakusa.kumamoto.jp/kiji0031397/index.html
- 熊本県観光サイト — 上田家住宅 上田資料館
- https://kumamoto.guide/spots/detail/11315
最終更新日: 2026.07.04