船岡温泉旧船岡楼 — 大正の料理旅館が銭湯の奥に残るということ

京都・紫野の鞍馬口通沿いに立つ船岡温泉を訪れる人の多くは、唐破風の玄関を抜けて脱衣場の格天井を見上げ、電気風呂と檜の露天風呂に向かう。風呂を出てもう一度脱衣場で天井を眺めて帰る。ここまでが「銭湯」としての船岡温泉である。その同じ敷地の西側、銭湯のフロントから見ると奥まったところに、瓦葺きの木造二階建てが静かに残っている。この建物の名前が旧船岡楼、登録有形文化財としての通称は「船岡温泉旧船岡楼」。実は船岡温泉という施設はこの建物から始まった。

旧船岡楼は、大正12年(1923年)頃に大野松之助が開業した料理旅館「船岡楼」そのもので、戦後に廃業して以降は使われ続けてはいないものの取り壊されもせず、現在まで残されている。昭和5年(1930年)に改造を経て、2003年7月、同じ敷地内の浴場・脱衣場・旧理髪店とあわせて、それぞれ独立した登録有形文化財として登録された。登録番号は26-0155である。

料理旅館から銭湯へ — 一つの建物が辿った百年

大野松之助は上賀茂で庭石屋を営んでいた人物で、大正の終わりに料理旅館の業へ転じた。船岡山南麓のこの土地に、西側に木造の主屋、東側に煉瓦造の浴場を建て、両者を渡り廊下で結ぶ構成の旅館をつくった。客は座敷で会席を取り、二階で休み、ひと風呂浴びて寝る。西陣の旦那衆を相手にした、京都に当時よくあった構えの料理旅館である。1930年(昭和5年)、この主屋部分に手が入った。現在文化財として登録されているのは、この改造後の姿である。

建物の運命が変わったのは二代目の代になってからである。二代目大野伍一郎は、温泉の湧かない京都市内でなんとか「温泉」を名乗れないかと模索し、昭和8年(1933年)に日本初とされる電気風呂を導入、当時の通産省から「特殊船岡温泉」としての認可を得た。浴場部分は前年の昭和7年(1932年)に煉瓦造から鉄筋コンクリート造へ建て替えられている。戦中戦後の燃料難と経済の落ち込みのなかで料理旅館業は続けられなくなり、昭和22年(1947年)に船岡温泉は一般公衆浴場として再出発した。

このとき、もはや使われなくなった旅館主屋を解体せずに残したのが大野家の選択だった。商売の合理性からすればおそらく壊した方が早かったはずだが、それをしなかったために、今この場所には大正期の中規模料理旅館の屋内空間が一棟丸ごと残っている。京都の街の中で、ここまで往時の姿で生き延びた料理旅館の建物はほとんどない。

登録の理由 — 「歴史的景観に寄与する」とは

文化庁が2003年に旧船岡楼を登録した際の登録基準は一つだけ、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」である。種別は産業3次・建築物。同様の基準で全国の旅館建築や町家、商店建築が登録されているが、旧船岡楼の場合、特徴的なのは「単独で見ても惜しい建物だが、隣接する浴場・脱衣場とセットで見ると、より大きな価値をもつ」という位置づけにある。

文化庁の解説文は短い。脱衣場・浴場の西方に隣接して建ち、玄関部、主棟、北棟の三つから構成される木造二階建てである。主棟の一階に小間を取り、二階を広間とし、北棟の一階と二階にも座敷を配している。目立った装飾はないが、客室の床まわり・棚まわり、欄間、二階の縁高欄(へりこうらん)などに瀟洒(しょうしゃ)な意匠を凝らし、旅館建築らしい佇まいを造っている、と記される。

記述が抑制的なのは、この建物が大規模な装飾建築ではないからである。大広間に金箔の襖絵が並ぶような、写真に撮りやすい派手な作りではない。代わりに、客が腰を下ろす床まわりの寸法感、欄間の透かしの薄さ、廊下の幅、二階を巡る縁の高欄の細さといった、暮らしの場として誂えられた寸法と意匠の質が高い。料理旅館に求められた「上等だが過剰でない」というラインを、丁寧に守った建物である。

見どころを内側から

旧船岡楼の屋内は通常は非公開で、銭湯の入浴客が立ち入る部分ではない。年に一度の京都モダン建築祭などの催しに合わせて、特別公開の対象となることがある。中に入る機会が得られた場合、いくつかの点に注意を向けたい。

主棟一階の小間は、料理旅館における接客の中心となる空間である。床の間と棚を備えた客間が連なり、客は襖を引き取って広く使うことも、間仕切って小ぢんまり使うこともできた。文化庁の解説が言うところの「瀟洒な意匠」は、ここで床の間と棚まわりの納まり、欄間の透かしの寸法といった、目立たないが手の込んだ部分に現れている。派手な絵襖や金具に頼らず、木目と寸法のバランスで質を出す造り方である。

二階の広間は、大人数の宴席を想定した空間である。襖を引き取って一続きの大広間にもできれば、間仕切って小部屋にもできる構造で、夜に客を迎える際の柔軟性を確保している。二階の縁を巡る高欄(こうらん)は、装飾性よりも線の通り方を見せる種類の意匠で、文化庁の解説でも「瀟洒な意匠を凝らし」と評価された部位の一つである。

北棟の座敷は、主棟と通路でつながり、家族用や使用人の動線にも近い位置にある。客間としての格は主棟一階の小間にやや譲るものの、床まわりや欄間の意匠は一連の感覚で揃えられ、設計者の手が一棟全体に通っていることが確認できる。

隣接する浴場との対比も興味深い。浴場側ではマジョリカタイルが廊下を埋め、脱衣場の格天井には鞍馬天狗と牛若丸の彩色彫刻が嵌め込まれ、欄間には葵祭の行列や上賀茂神社の競べ馬の透かし彫りが入る。旅館側の旧船岡楼はその真逆で、木と紙と陰の世界である。隣り合わせの二棟が、大正末の建築の二つの顔を見せているとも言える。

訪ね方と周辺

旧船岡楼の屋内に常時入る方法はない。一方、隣接する船岡温泉そのものは火曜日を除いて毎日営業しているので、銭湯料金を払って脱衣場と浴室を見ることはできる。脱衣場と浴場もそれぞれ登録有形文化財で、旧船岡楼の外観は中庭越し・廊下越しに望むことができる。旧船岡楼の内部公開を狙うなら、秋に開催される京都モダン建築祭のプログラムを確認するのが現実的である。

船岡温泉の裏手には船岡山公園が広がる。標高100メートル少しの低い山で、頂上からは比叡山と京都市街を見渡せる。中腹の建勲(けんくん)神社は織田信長を祀る神社で、刀剣ファンに人気がある。船岡温泉から南へ歩けば大徳寺、その先に今宮神社と門前のあぶり餅屋、西へ進めば金閣寺(鹿苑寺)まで徒歩圏である。

船岡温泉と同じ鞍馬口通沿いには、初代大野松之助が手掛けたとされる別の銭湯建物をリノベーションしたカフェ「さらさ西陣」がある。マジョリカタイルの壁を残したまま、コーヒーと食事を提供している。旧船岡楼を表から眺め、銭湯としての船岡温泉に入り、街道を東へ歩いてさらさ西陣で休む、という半日の歩き方で、京都の銭湯建築が辿った百年の変化が一通り見えてくる。

Q&A

Q旧船岡楼の中は見学できますか?
A通常は非公開です。京都モダン建築祭(秋開催)などの特別公開イベントに合わせて公開されることがあります。最新の公開状況は同イベントの公式サイトで確認してください。
Q船岡温泉は天然温泉ですか?
A天然温泉ではありません。京阪地方では銭湯の屋号として「○○温泉」を用いる慣習があり、その流れに沿っています。なお昭和8年(1933年)に日本初の電気風呂を導入した実績で、当時の通産省から「特殊温泉」の認可を受けた経緯はあります。
Q登録された年は?
A2003年(平成15年)7月1日付で登録有形文化財(建造物)に登録、同月17日に告示されました。登録番号は26-0155、種別は産業3次・建築物です。
Q市街地からのアクセスは?
A地下鉄烏丸線「北大路駅」から市バス206系統で「建勲神社前」下車、鞍馬口通を南へ徒歩約5分。京都駅からは時間帯にもよりますがバスで30~40分程度です。専用駐車場は11台分あります。
Q周辺で一緒に巡るとよい場所は?
A船岡山公園と建勲神社、大徳寺の塔頭、今宮神社とあぶり餅、金閣寺などが徒歩~市バスで巡れる範囲にあります。同じ鞍馬口通沿いの「さらさ西陣」(銭湯を改装したカフェ)も合わせて訪ねると、地域の銭湯文化の流れが見えます。

基本情報

名称船岡温泉旧船岡楼(ふなおかおんせんきゅうふなおかろう)
指定区分登録有形文化財(建造物) 登録番号 26-0155
登録年月日2003年(平成15年)7月1日(告示7月17日)
年代大正12年(1923年)頃 / 昭和5年(1930年)改造
構造・形式木造2階建、瓦葺、建築面積194㎡
構成玄関部・主棟・北棟からなる1棟
所在地京都府京都市北区紫野南舟岡町82-1
アクセス市バス「建勲神社前」下車徒歩約5分。地下鉄烏丸線北大路駅からバス約15分
営業情報銭湯としての船岡温泉は15:00~23:30(日曜8:00~)・火曜定休。旧船岡楼の屋内は通常非公開
電話075-441-3735(船岡温泉)
登録基準国土の歴史的景観に寄与しているもの

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁) — 船岡温泉旧船岡楼
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00003441
文化遺産オンライン — 船岡温泉旧船岡楼
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140711
文化遺産オンライン — 船岡温泉浴場
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188170
ハコスコ — 京都の近代銭湯建築「船岡温泉」
https://hacosco.com/funaokaonsen/
京都モダン建築祭 — 船岡温泉プログラムページ
https://kyoto.kenchikusai.jp/program/S23013-000/
京都銭湯公式 — 船岡温泉
https://1010.kyoto/spot/funaokaonsen/

最終更新日: 2026.05.16