五郎山古墳 ― 絵画でかたどられた筑紫の装飾古墳

福岡県筑紫野市原田、JR原田駅の東に広がる丘陵の上に、直径およそ32〜35メートルの円墳がある。五郎山古墳である。外から見れば緑に覆われた小ぶりな墳丘にすぎないが、内部の横穴式石室には赤・黒・緑の三色で人物や馬上の人、舟、家、弓矢、同心円文などが描かれている。九州に点在する装飾古墳のなかでも、これほど具象的な絵画で壁面を埋めた例は珍しく、その点で全国に知られた一基となっている。

古墳時代後期、おおむね6世紀後半の築造とみられる。石室の形式と、内部から見つかった須恵器の年代が、その時期を指し示している。被葬者は判明していないが、近くには古い記録に名をとどめる筑紫神社があり、一帯はこの地方を治めた筑紫君(つくしのきみ)の勢力圏にあたる。後述するように、その点が古墳の背景に厚みを与えている。

偶然から始まった発見

五郎山古墳が世に出たのは、計画的な発掘によってではない。昭和22年(1947年)、過去の盗掘坑が陥没して空洞が露出し、それが石室であることがわかった。同年、福岡県教育委員会が調査を実施している。副葬品の大半は古い盗掘で持ち去られていたが、調査では須恵器や玉類が採集された。これらの出土品と石室の構造が、6世紀後半という築造年代の根拠になっている。

発見が大きな意味を持ったのは、壁画が残っていたためである。発見の2年後、昭和24年(1949年)7月13日に、貝塚・集落跡・古墳などを対象とする基準のもとで国の史跡に指定された。その後、昭和59年(1984年)7月25日には史跡指定範囲の一部が解除されている。

石室の構造

埋葬施設は南西に開口する横穴式石室で、割石を積み上げて築かれている。内部は通路にあたる羨道(せんどう)、その奥の前室、そして遺体を安置した後室という三つの空間に分かれる。後室と前室の二室からなるこの複室構造は、この時期の北部九州に特徴的な造りである。石室の全長は約11.2メートル。なかでも最も広い後室は、幅およそ3メートル、奥行き約4.5メートル、高さ約4メートルの規模をもつ。

壁画は、遺体に最も近い場所に集中する。後室の奥壁と左右の側壁、さらに前室の奥壁に、赤・黒・緑の三色で描かれている。石室に身を置くと、壁を飾るというより、亡き人を一枚の絵で取り囲もうとした空間のように感じられる。

何が描かれ、なぜ貴重なのか

九州の装飾古墳の多くは、盾や円文といった図文を壁面に繰り返し配する。五郎山古墳はそれとは違う。壁面の絵は、人物を中心に据えた一連の場面として読める。立ち並ぶ人物のあいだに馬に乗る人がおり、舟があり、家とみられる図がある。弓や靱(ゆぎ)といった武具も描かれ、辟邪(へきじゃ)の意味をもつとされる同心円文が画面に点在する。動物も見える。これらは単なる装飾ではなく、葬送の儀礼や、死者をめぐる場面、呪術的な意図を表したものと考えられている。

ただし、確かなことはわかっていない。発見から半世紀以上を経た今も、図像の正確な意味は解かれないままである。その不確かさこそが、この古墳への関心をつなぎとめてきた。図文を読み解く対象としての装飾古墳が多いなか、五郎山古墳は、読めそうで読み切れない一連の絵を残している。文字記録がこの地に広まる以前の人々が遺した、最も絵画的な表現の一つ ― そこにこの古墳の価値がある。

背景にもう一つの層がある。筑紫君は6世紀前半、新羅へ出兵しようとしたヤマト王権に抗して磐井(いわい)の乱(527年)を起こした、九州最大級の豪族である。磐井の墓は福岡県八女市の岩戸山古墳と伝えられる。五郎山古墳の被葬者は特定されていないものの、その年代と立地は、こうした地方勢力の世界、そして朝鮮半島との交流の結節点にあった当時の筑紫の姿のなかに位置づけられる。

見学の手引き

今日目にする墳丘は、築造当初の姿に近づける形で復元整備されている。丘の上の緑のドームは、新造された頃のたたずまいをある程度想像させてくれる。一方、石室そのものはきわめて傷みやすく、壁画保護のため内部への立ち入りは制限されている。本稿の作成時点では、筑紫野市は実際の石室の見学受け付けを停止していた。内部の見学を希望する場合は、訪問前に古墳館へ最新の状況を確認してほしい。

そのもろさへの答えが、歩いて数分の場所にある。筑紫野市歴史博物館の分館である五郎山古墳館は、この一基を解説するために平成13年(2001年)に開館した。中心となる展示は、懐中電灯を手に入ることのできる実物大の石室模型である。羨道から前室にかけての一方の壁が可動式になっており、開けば立ったまま後室まで進める。高齢の方や歩行に不安のある方にも配慮した造りだ。館内では短い解説映像が上映され、出土遺物が並び、壁画はCGによる補色で、いまでは薄れた細部まで見やすく示されている。入館は無料である。

先に古墳館で予習し、そのあと墳丘を訪ねる順序がよい。模型で図像を細部まで確かめ、丘の上の復元墳丘でその舞台となった景観を見る、という流れである。

筑紫野とその周辺

古墳が立つのは、古代九州の政庁が置かれた大宰府のすぐ南西、筑紫野の平野である。古墳のほど近くにある筑紫神社は、この地を治めた一族とのつながりから、まず立ち寄りたい場所だ。少し足をのばせば、大宰府天満宮や九州国立博物館も鉄道とバスで無理なく回れる。とりわけ九州国立博物館の考古展示は、五郎山古墳の壁画を、アジア大陸と結ばれた九州という大きな文脈のなかに置き直してくれる。一日の締めくくりには、北側に位置する二日市温泉でゆっくり過ごすのもよい。

Q&A

Q実際の石室の中に入れますか。
A現在は入れません。壁画保護のため本物の石室は非公開とされ、市は見学の受け付けを停止しています。近くの五郎山古墳館に実物大の石室模型があり、こちらに入って石室を体感するのがおすすめです。訪問前に古墳館へ最新の状況をご確認ください。
Qいつ頃の古墳ですか。
A石室の形式と出土した須恵器から、6世紀後半、いまから約1,450年前の築造とみられます。昭和22年(1947年)に発見され、昭和24年(1949年)に国の史跡に指定されました。
Q壁画には何が描かれていますか。
A人物、馬に乗る人、舟、家、弓や靱などの武具、動物、同心円文が、赤・黒・緑の三色で描かれています。単なる装飾ではなく、葬送の儀礼や呪術にかかわる場面と考えられていますが、正確な意味は今も議論が続いています。
Q料金と開館時間を教えてください。
A五郎山古墳館は入館無料です。開館時間は9時から17時(入館は16時30分まで)。休館日は月曜日(祝日の場合は開館し翌平日休館)と、年末年始の12月28日から1月4日までです。
Qアクセス方法は。
AJR鹿児島本線の原田(はるだ)駅から東へ徒歩8〜10分ほどです。西鉄をご利用の場合は、筑紫駅でバスに乗り換え「原田三丁目」で下車、徒歩約5分です。

基本情報

名称五郎山古墳(ごろうやまこふん)
所在地福岡県筑紫野市原田
形状円墳・装飾古墳
規模直径約32〜35メートル(資料により差あり)、高さ当初約5メートル
埋葬施設複室式の横穴式石室、全長約11.2メートル。後室は幅約3メートル・奥行約4.5メートル・高さ約4メートル
築造年代6世紀後半
発見昭和22年(1947年)
指定国史跡、昭和24年(1949年)7月13日指定(昭和59年〈1984年〉7月25日に範囲の一部解除)
主な出土品須恵器、玉類(副葬品の大半は過去の盗掘で失われる)
施設五郎山古墳館(筑紫野市歴史博物館分館)、筑紫野市原田3-9-5、平成13年(2001年)開館、入館無料
開館時間9時〜17時(入館16時30分まで)、月曜・12月28日〜1月4日休館
アクセスJR鹿児島本線・原田駅から徒歩約8〜10分
備考保護のため実際の石室の見学は現在停止中。訪問前に要確認

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):五郎山古墳
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/2640
五郎山古墳(国史跡)[原田] ― 筑紫野市ホームページ
https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/soshiki/38/3169.html
五郎山古墳館(筑紫野市歴史博物館分館) ― 筑紫野市ホームページ
https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/soshiki/48/3484.html
福岡県の文化財:五郎山古墳
https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=4&id=11
五郎山古墳 ― ウィキペディア日本語版
https://ja.wikipedia.org/wiki/五郎山古墳

最終更新日: 2026.05.29