玉篇巻第廿七〈前半〉:高山寺が守り継ぐ中国古代字書の国宝

京都市右京区の山深い栂尾(とがのお)に佇む世界遺産・高山寺(こうさんじ)には、中国古代の文字文化を今に伝える極めて貴重な写本が所蔵されています。国宝「玉篇巻第廿七〈前半〉(ぎょくへんまきだいにじゅうなな〈ぜんはん〉)」は、6世紀に中国で編纂された字書『玉篇』の唐代写本であり、本国・中国ではすでに失われた原本の姿を伝える世界唯一の遺産です。言語・歴史・書物文化に関心をお持ちの方にとって、1,400年以上にわたる学問の伝統に触れることができる比類なき文化財です。

玉篇(ぎょくへん)とは

『玉篇』は、中国南北朝時代の南朝・梁(502~557年)の学者である顧野王(こやおう、519~581年)が543年に編纂した部首別漢字字典です。全30巻、収録字数は約16,917字に及び、542の部首によって漢字を分類しています。

『玉篇』が先行する字書『説文解字(せつもんかいじ)』と大きく異なるのは、その詳細な解説にあります。各文字について、反切(はんせつ)による字音の表示に加え、経書やその注釈書からの豊富な引用によって字義を示し、さらに顧野王自身の見解を「野王案」として記すという極めて充実した体裁を備えていました。この網羅的な記述により、『玉篇』は東アジア全域で長きにわたり不可欠の参考書として用いられました。

なぜ国宝に指定されたのか

顧野王が編纂した原本『玉篇』は、中国では王朝の交代や時代の変遷のなかでとうに失われてしまいました。しかし、隋・唐の時代(6~9世紀)に大量の中国書籍が日本に将来されていたため、原本『玉篇』の写本がいくつか日本の寺院に伝わりました。

現在残存するのは巻八・九・十八・十九・二十二・二十四・二十七の一部のみで、親字の合計は約2,100字、全体のわずか約12%にすぎません。このうち一巻が完全に残っているのは巻二十二(伊勢神宮蔵)と巻二十七の2巻のみです。巻二十七は前半と後半に分かれて伝わっており、高山寺本はその前半にあたり、篇目と糸部270字を収めています。後半は滋賀県の石山寺に所蔵されており、それぞれ別個に国宝に指定されています。

高山寺本は7~8世紀に中国で書写されたと考えられる唐写本で、紙本墨書の巻子装、縦27.2cm、全長915.0cmの堂々たる写本です。原本の姿を直接伝えるこの写本の学術的・文化的価値は計り知れず、中国語の文字学の基本文献として世界唯一の証拠となっています。

言語史における意義

『玉篇』の重要性は日本国内にとどまりません。『説文解字』『字林(現存せず)』に次ぐ中国で3番目に古い字書として、中国の辞書編纂史において極めて重要な位置を占めています。部首の配列に意味的な類似性を取り入れ、検索の便宜を図った独自の工夫は、後世の辞書編纂に大きな影響を与えました。

中国では原本の散逸後、北宋の大中祥符6年(1013年)に陳彭年(ちんほうねん)らによって『大広益会玉篇』として改編されましたが、この改訂版では顧野王の原著にあった詳細な語釈や引用が大幅に削られています。日本に伝わる写本群、とりわけ高山寺の玉篇は、世界のどこにも残されていない貴重な本文情報を保存しています。

また、真言宗の開祖・弘法大師空海(774~835年)は『玉篇』を基に独自の字書『篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)』を編纂しました。この書も高山寺に国宝として所蔵されており、親字の配列が『玉篇』残巻と一致することから、失われた原本全体の構成を推測する手がかりとなっています。

高山寺:文化財の守護者

高山寺(正式には栂尾山高山寺)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町にある真言宗系の単立寺院です。建永元年(1206年)に明恵上人(みょうえしょうにん、1173~1232年)が後鳥羽上皇より寺域を賜り、華厳宗の修行道場として再興しました。世界的に最も有名な所蔵品は「鳥獣人物戯画」(日本最古の漫画とも称される墨画絵巻)ですが、国宝8件、重要文化財1万点以上を有する、日本屈指の文化財の宝庫です。

書跡・典籍分野の国宝には、玉篇のほか、前述の篆隷万象名義、そして中国では散逸した唐代仏教説話集『冥報記(めいほうき)』があります。これらの写本群は、日本の寺院がいかに中国文化遺産の保存に重要な役割を果たしてきたかを物語っています。

さらに高山寺は、日本の茶文化の発祥地としても知られています。臨済宗の開祖・栄西禅師が宋から持ち帰った茶の種を明恵上人に贈り、上人がこの地に植えたのが日本最古の茶園であり、今も境内にその茶園が残っています。

見どころ・魅力

玉篇の原本は脆弱な国宝であるため常時公開はされていませんが、高山寺を訪れれば、この貴重な文化財を800年以上にわたって守り続けてきた豊かな文化環境を体験することができます。

国宝・石水院(せきすいいん)

鎌倉時代に後鳥羽上皇の学問所から移築されたと伝わる国宝建築で、高山寺の主要な拝観施設です。堂内では鳥獣人物戯画の複製をはじめ、寺宝の数々を鑑賞できます。縁側から望む山林の風景は四季折々に美しく、特に秋の紅葉は絶景です。

日本最古の茶園

境内のささやかな一画に、明恵上人が栄西禅師から受けた茶の種を植えた日本最古の茶園があります。ここから宇治をはじめ日本各地へ茶の栽培が広まりました。

特別拝観(予約制)

高山寺では、通常非公開の茶室「遺香庵(いこうあん)」などを含む予約制の特別拝観が実施されています。執事による案内のもと、境内の非公開エリアを巡り、拝観後には抹茶と和菓子をいただけます。詳細な日程・予約方法は高山寺公式ウェブサイトをご確認ください。

周辺情報

高山寺のある栂尾は、京都屈指の紅葉の名所として知られる高雄エリアに位置しています。高雄の神護寺(じんごじ)、槙尾の西明寺(さいみょうじ)、栂尾の高山寺は「三尾(さんび)」と総称され、山間の美しい景観のなか寺院巡りを楽しむことができます。

特に神護寺は独自の国宝コレクションを有し、紅葉の名所としても名高い古刹です。中心部の有名寺院に比べて混雑が少なく、静かな山寺の雰囲気のなか、日本の仏教文化をより深く味わいたい方に最適なエリアです。

Q&A

Q玉篇の実物を高山寺で見ることはできますか?
A玉篇の原本は脆弱な国宝のため常時公開はされていません。特別展覧会や国立博物館への出陳時に公開される場合があります。最新の展示情報は高山寺や各博物館のウェブサイトでご確認ください。
Q海外からの訪問者でも楽しめますか?
A寺院の案内や表示は主に日本語ですが、山深い静寂な雰囲気と美しい自然は言語の壁を超えて楽しめます。事前に寺の歴史を調べたり、ガイドブックを持参されることをおすすめします。京都観光の公式サイトには英語での情報も掲載されています。
Q高山寺を訪れるのに最適な季節は?
A紅葉が美しい11月が最も人気の季節です。京都市内より一足早く色づくことでも知られています。一方、初夏の新緑の季節は混雑が少なく、瑞々しい山の緑を楽しめます。通年拝観可能で、四季それぞれの風情があります。
Q高山寺の拝観にはどのくらい時間がかかりますか?
A一般的な拝観所要時間は約1時間~1時間半です。近隣の神護寺や西明寺もあわせて巡る場合は、半日程度の時間を見ておくとよいでしょう。
Qなぜ原本の玉篇は中国では失われ、日本にだけ残ったのですか?
A隋・唐の時代に学問研究のため大量の中国書籍が日本に将来されました。中国では改訂版に置き換わるなどして原本が次第に失われましたが、日本に渡った写本は寺院の経蔵で丁重に保管され続けました。日本の寺院における写本保存の伝統が、大陸では失われた多くの中国古典籍を守る上で決定的な役割を果たしたのです。

基本情報

正式名称 玉篇巻第廿七〈前半〉(ぎょくへんまきだいにじゅうなな〈ぜんはん〉)
指定区分 国宝(書跡・典籍)
時代 唐時代(7~8世紀書写、原著は543年成立)
原著者 顧野王(こやおう、519~581年)、梁の学者
形態 巻子装、紙本墨書
寸法 縦27.2cm、全長915.0cm
内容 7部の部首目録および糸部270字
所有者 宗教法人高山寺
所在地 〒616-8295 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8
拝観時間 8:30~17:00
拝観料 石水院:一般1,000円、小学生500円 ※秋期は別途入山料500円
アクセス JR京都駅よりJRバス高雄・京北線「栂ノ尾」下車(約55分)、または四条烏丸より市バス8系統「栂ノ尾」下車(約50分)
電話番号 075-861-4204
関連国宝 玉篇巻第廿七〈後半〉(滋賀県・石山寺蔵)

参考文献

世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ – 国宝・重要文化財
https://kosanji.com/about/national_treasure/
世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ – 国宝ギャラリー
https://kosanji.com/sm/national_treasure/
高山寺 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%AF%BA
玉篇 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%AF%87
WANDER国宝 – 玉篇巻第廿七後半(石山寺)
https://wanderkokuho.com/201-00617/
顧野王 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E9%87%8E%E7%8E%8B
世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ – 拝観・境内のご案内
https://kosanji.com/guide/
玉篇巻第九零巻 – 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/224821
Kōzan-ji – Wikipedia (English)
https://en.wikipedia.org/wiki/K%C5%8Dzan-ji

最終更新日: 2026.03.19