澤井家住宅 ― 大住に残る門跡代官の家

元文五年(一七四〇)の九月、澤井家の当主は住宅を建て替える願いを文書にして差し出した。翌月には造作についての願書を重ね、工事にかかった費用や受け取った見舞いを記した覚帳を翌年まで付け続けている。この一連の普請文書が現存し、住宅本体とともに重要文化財に指定された。おかげで、京都府京田辺市大住の地に一軒の代官屋敷が建てられていく過程を、ほぼ月単位でたどることができる。

建物は周囲の田畑に囲まれて建つが、普通の農家ではない。住み手は門跡領の代官を務め、家は身分のある客を迎えるためにつくられた。その違いは、間取りから材料の選び方にいたるまで建物の各所にあらわれている。

武家から在地代官へ

澤井家はもと武家の出である。鎌倉から戦国にかけて近江南部に勢力を張った佐々木六角氏の家臣で、十三代当主・佐々木義賢に仕えていた。主家が織田信長に敗れたのち、一族は刀を置き、十六世紀末から十七世紀初めにかけてこの大住の地に帰農した。

家の立場が再び変わるのは享保十七年(一七三二)である。この年、澤井家は京都の尼門跡寺院・曇華院に仕えることになった。曇華院は皇室や公家出身の女性が住持を務めた門跡で、大住地域のおよそ三分の一を所領としていた。澤井家はその在地代官に任じられ、領内の差配を担う立場についた。年貢の帳簿を扱い、訴えを聞き、役人を迎える家には、働く農家にはない格式の部屋が必要になる。元文五年から六年にかけての建て替えは、その求めに応えるものであった。

指定の理由

澤井家住宅が国の重要文化財に指定されたのは昭和五十年(一九七五)六月二十三日である。評価の柱は二つある。一つは建物そのもので、桁行二〇・二メートル、梁間一二・六メートルの一棟。入母屋造に茅葺の屋根を架け、四面の庇には本瓦と桟瓦を葺く。北西には角屋とよばれる座敷部が九・〇メートル×六・〇メートルで突き出し、その茅葺屋根が主屋の屋根と合わさって、上から見るとL字をなす。

もう一つは文書である。冒頭で触れた願書や覚帳、すなわち普請文書一式が、住宅とあわせて指定を受けた。この時代の木造建築は、建立年がはっきりせず、様式や隠れた部材の墨書から推定される場合が多い。澤井家ではその推測がいらない。建てた当人たちの記録から普請の経緯を直接読み取れる住宅は数少なく、建物と文書がそろっている点に、この指定の重みがある。

建物を読む

主屋は東を向く。正面には三つの入口が並ぶ。どの農家にもある土間入口、そして格式のある玄関、その脇に式台。式台は身分の高い客を迎えるための一段低い踏み板で、農家には不要のものである。敷居のところにこれが据えられていること自体が、客の足が屋内に入る前に、この家の役向きを告げている。

入口を入ると、平面ははっきりと二つの性格に分かれる。南東側には四間×四間半ほどの広い土間がある。太い柱と太い梁を組んだ、意図して重量感をもたせた構えで、ここに立つと木組みそのものが力強い。土間の西と北を床上の部屋が取り囲み、そちらに移ると印象は一変する。

式台玄関から角屋に向かって、次の間と奥の間の二室続きの座敷がのびる。客の格に応じて迎える段階を変えるための構成である。この座敷は茶の湯につながる数寄屋風の意匠で仕上げられている。格式ある広間が見せる長押を用いず、皮付きの柱や細い丸太の垂木を使い、壁は赤味の強い土壁とした。豪壮というより、抑えた構えである。角屋の三方には縁側がめぐり、光と庭が複数の方向から座敷に届く。

対比こそが見どころになる。一つの家が一つの屋根の下に、農家の働く土間と、客をもてなす座敷とをあわせ持ち、訪れる者にその間を歩いて移らせる。そういう住宅である。

解体され、復元された主屋

建立から二世紀半あまり、この住宅が全面的に解体されることはなかった。それが平成十六年(二〇〇四)一月に変わる。建設以来初めての全解体修理が始まり、工事は三年余りに及んで平成十九年(二〇〇七)三月に完了した。建物は建設当初の姿に復元されている。

修理に使われた材には、それ自体の経緯がある。平成十六年十月の台風二十三号は、日本海側の名勝・天橋立の松を数多く倒した。その倒木のうち十九本が京田辺に運ばれ、大梁をはじめとする各所の部材として澤井家の構造に組み込まれた。国を代表する景観の一つで育った松が、内陸の代官屋敷の荷を受けている。修理の過程では、作り手についての事実も裏づけられた。澤井家を手がけた大工棟梁は、その後の享保十九年(一七三四)に、八幡市の流れ橋の近くで同じく重要文化財の伊佐家住宅を建てている。両方を見れば、一人の棟梁の仕事を見分けることができる。

黒門と、束の間の御所

敷地の一角には、のちの時代を示す手がかりが残る。元治元年(一八六四)の禁門の変で京都御所の蛤御門周辺が戦場になったのち、曇華院は市中を離れた避難先を必要とした。寺はおよそ五年のあいだ澤井家を居所とした。屋敷の黒門は、その間の名残として記憶されている。在地代官の家が、しばらくのあいだ尼門跡の仮御所となった時期があったのである。

住宅の周辺

澤井家住宅が建つ大住は、古い記憶を抱えた土地である。古代、大和朝廷が九州南部の大隅から隼人をこの山城の地に移したと記録に見え、地域には今も大住隼人舞という社の祭りに結びついた舞が受け継がれている。月読神社は住宅から約八五〇メートル、天津神社も近く、参拝とあわせて巡るのに無理がない。

京田辺は茶どころで、「お茶の京都」と呼ばれる地域の北のはずれにあたる。京都でも知られる禅寺の一休寺、正しくは酬恩庵があり、奇僧・一休が晩年を過ごした寺として親しまれている。この寺は一休寺納豆の名でも知られ、塩辛く乾いたこの発酵大豆は、かつて近隣の家々でも作られていた。住宅と神社、そして寺を組み合わせれば、半日の道のりが無理なく整う。

Q&A

Qいつ見学できますか。いつでも開いていますか。
A平成十九年(二〇〇七)十一月から、毎月第二・第四の土曜日と日曜日、十時から十七時まで(受付は十六時まで)公開されています。個人の住宅であるため、やむを得ない事情で開かない日もあります。訪れる前に確認しておくと安心です。
Q入館料はかかりますか。
A文化財保存協力金として、おおむね三〇〇円が案内されています。掲載される金額には差があり、陶芸や染色の体験は別料金です。実際の額は訪問の手配時に確認してください。
Qほかの古い農家と、どこが違うのですか。
A住み手が単なる農家ではなく尼門跡の代官であったため、建物は働く土間と、数寄屋風の座敷、そして客を迎える式台をあわせ持ちます。農村の住宅には必要のなかった接客の構えが備わっている点が大きな違いです。
Qどうやって行けばよいですか。
A京田辺市大住にあります。最寄りはJR大住駅です。近鉄新田辺駅から奈良交通バスでおよそ十五分、降りてから徒歩でもたどり着けます。
Qなぜ天橋立の松が使われているのですか。
A平成十六年から十九年の解体修理の際、平成十六年の台風二十三号で天橋立に倒れた松十九本が、大梁などの主要な構造材として再利用されました。

基本情報

名称澤井家住宅(さわいけじゅうたく)
所在地京都府京田辺市大住岡村五五番地
指定区分国指定重要文化財(昭和五十年〔一九七五〕六月二十三日指定)
種別近世以前/民家
年代元文五~六年(一七四〇~一七四一)、江戸時代中期
員数一棟。あわせて普請文書・絵図類が附(つけたり)として指定
構造及び形式主屋=桁行二〇・二メートル、梁間一二・六メートル、入母屋造、茅葺、四面庇付(本瓦及び桟瓦葺)。西面突出部(角屋)=桁行九・〇メートル、梁間六・〇メートル、入母屋造、茅葺、西面及び北面庇付(本瓦及び桟瓦葺)
修理解体修理 平成十六年(二〇〇四)一月~平成十九年(二〇〇七)三月
公開毎月第二・第四の土・日曜、十時~十七時(受付十六時まで)。事前確認を推奨
アクセスJR大住駅が最寄り。近鉄新田辺駅から奈良交通バス利用も可

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース(澤井家住宅)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/2018
文化遺産オンライン(澤井家住宅)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/123027
京田辺市観光協会(澤井家住宅)
https://kankou-kyotanabe.jp/tourism/the_sawai_family_residence/
お茶の京都(澤井家住宅)
https://ochanokyoto.jp/spot/detail.php?sid=76
京都府観光連盟公式サイト(澤井家住宅)
https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/3715

最終更新日: 2026.06.02