鋳造の日付を刻む鐘
平安時代までさかのぼる古い梵鐘の多くは、いつ誰が鋳たのかを記録に残していない。製作年代は様式から推定するほかなく、その判断には専門家の見立てが入りこむ。京都・高雄の神護寺に伝わる国宝梵鐘は、この点で例外に属する。鐘の表面には陽鋳の銘があり、鋳造の日付を貞観十七年(875年)八月二十三日と明記している。あわせて鋳工の名、用いた銅の量、そして銘文に関わった三人の名が記される。千年以上を経た工芸品が、これだけの事実を自らの肌に刻んで残している例は多くない。
鐘の高さは147.6センチ、口径は80.3センチ。銘によれば、鋳工の志我部海継が銅千五百斤を用いて鋳上げたという。この人物の名は単独の作例にとどまらない意味をもつ。文化庁の解説は、海継を「遺品にその名が記される鋳師の最初の確実な例」と位置づけている。すなわち神護寺鐘は、作者不詳の優品としてではなく、日本の鋳造史の確かな出発点として数えられる作品である。
鐘がかかる神護寺は、京都市右京区、高雄山の中腹に位置する高野山真言宗の古刹である。和気清麻呂が河内の神願寺と高雄山寺を合わせて創建したことに始まり、のちに略して神護寺と呼ばれた。創建後ほどなく、唐から帰朝した空海がこの地に十四年にわたって住し、真言密教の基礎を築いた。鐘が鋳られたのは、その空海の没後一世代ほどを経た時期にあたる。
「三絶の鐘」と呼ばれる理由
同じ時代に鋳られた多くの優れた鐘のなかで、この一口を際立たせるのは銘文に名を連ねる顔ぶれである。日本には古来、三つの梵鐘を名鐘として数える見方がある。装飾の美しさで知られる平等院の鐘、音色で名高い三井寺(園城寺)の鐘、そして銘の神護寺の鐘である。三名鐘のうち、神護寺は文字の鐘として位置づけられてきた。
銘文は合作であり、その執筆陣こそが「三絶の鐘」という呼称の由来となった。序にあたる詞を草したのは橘広相で、のちに当代を揺るがした政争の中心に立つ学者である。八韻からなる銘そのものを選んだのは菅原是善であった。そして文字を揮毫したのは藤原敏行で、書家としても知られ、三十六歌仙の一人にも数えられる歌人であった。
この三名は、看板に文字を入れるために雇われた職人ではない。九世紀後半の宮廷を代表する文人であり、その文章と書はそれだけで権威をもつものだった。菅原是善の子が菅原道真であり、道真は学問の神として後世に篤く祀られ、今日も受験生の信仰を集めている。これほどの才を一口の鐘に集めることは、意図された壮挙であり、同時代の人々もそのように受けとめた。
国の評価もこれに重なる。この鐘は明治三十年(1897年)に旧法のもとで保護を受け、現行制度のもとでは昭和二十七年(1952年)三月二十九日に国宝に指定された。区分は工芸品で、国宝の多くを占める絵画・彫刻・建造物とは別の系列に属する。
鐘身を読む
その姿は、距離をおいて眺めても見どころが多い。頂部には竜頭があり、鐘を吊るための竜の頭の金具である。本鐘の竜頭は比較的大形で丈が高く、写実味を帯びた造形が指摘される。肩にあたる笠形は外へ向かって著しく膨らみ、二条の紐によって圏線をあらわす。胴を区切る縦帯・横帯は幅広で低く、上帯と下帯は無紋に仕上げられている。
銘は池の間と呼ばれる四区、すなわち帯と帯のあいだに開く面に置かれ、文字は彫りではなく陽鋳によって浮き出されている。下方には撞座があり、撞木が当たる位置を示す。本鐘の撞座は鉢弁の蓮華形で、中央の蓮房を五顆の蓮子が囲む。撞座は小さく、やや不整で、位置も低い。標準化が進む以前の古い鐘に見られる特徴である。本鐘は前代の様式を受け継ぎつつ、竜頭や笠形などの部分に、後代の梵鐘の先駆とみなしうる要素を含んでいる。
ひとつ、実際的なことを率直に述べておきたい。この鐘は常時の公開対象ではない。鐘楼の内部に吊られており、その下部は袴腰の壁で囲まれて中を隠している。撞かれることも、来訪者が間近に撮影することも、通常は行われない。二〇二四年に東京国立博物館で開かれ多くの来館者を集めた特別展「神護寺展」にも、本鐘は出展されていない。高雄を訪れる人は、鐘そのものを直接見ることを期待するよりも、鐘が幾世紀もかかってきた鐘楼という建物と、その場に立つことを目的とするのがよい。
神護寺と高雄を歩く
寺へ至る道のりそのものが拝観の一部をなす。高雄のバス停から清滝川へ下り、高雄橋を渡るとのぼりが始まる。およそ四百段の石段が楓のあいだを抜けて楼門へと続く。夏の暑さには応える行程だが、晩秋には斜面が深い紅に染まる。高雄は市内北方の三尾の一つとして古くから紅葉の名所に数えられ、神護寺の境内は十一月後半の京都でとりわけ多くの人が訪れる場所となっている。
境内では、金堂に国宝の薬師如来立像が常時公開されており、鐘を見られない来訪者も、寺の代表的な一作の前に立つことができる。境内西端の塔頭、地蔵院の前からは錦雲渓と呼ばれる渓谷が見下ろせる。ここでは素焼きの皿、かわらけを渓谷へ投げる厄除けの行いができる。かわらけ投げの発祥はこの地と伝わる。風に乗って遠くまで飛ぶか、途中で落ちるか、その飛び方を眺めるのも楽しみの半ばを占める。
金堂の拝観には時間が定められ、拝観料がかかる。神護寺は市中心部より標高が高く気温も低いため、紅葉の色づきがやや早い。最盛期の混雑を避けて訪れたい人には、その点が利点となる。
Q&A
- 拝観時に国宝の梵鐘を見ることはできますか。
- 直接は見られません。鐘は袴腰で囲まれた鐘楼の内部に吊られており、通常は公開も撞鐘も行われません。鐘楼を建物として眺め、境内を歩くことはできますが、鐘そのものよりも寺全体を目的に拝観の計画を立てるのがよいでしょう。
- 見られないのに、なぜこれほど有名なのですか。
- 名声は875年に鋳込まれた銘文にあります。当代一流の三人の文人が詞・銘・書を分担したことから「三絶の鐘」と呼ばれ、日本三名鐘のうち銘で名高い鐘として数えられてきました。
- 京都中心部から神護寺へはどう行きますか。
- 市中心部から高雄方面へバスが通じています。下車後、川沿いの道を進み、およそ四百段の石段をのぼると楼門に着きます。歩きやすい靴と時間の余裕をみてください。紅葉の時期は特に混み合います。
- 寺ではほかに何を見られますか。
- 金堂には国宝の薬師如来立像が常時公開されています。西端の地蔵院前はかわらけ投げの発祥地で、渓谷へ皿を投げられます。十一月後半には境内が京都でも有数の紅葉の地となります。
- 鐘はいつ、誰が造ったのですか。
- 銘は鋳造を875年八月とします。鋳工は志我部海継と記され、自作にその名が確かに残る最初期の鋳師とされています。
基本情報
| 指定名称 | 梵鐘(ぼんしょう) |
|---|---|
| 所在地 | 京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 |
| 所有者 | 神護寺 |
| 区分 | 国宝(工芸品) |
| 鋳造年 | 貞観17年(875年)、銘による |
| 員数 | 1口 |
| 寸法 | 高147.6cm、口径80.3cm |
| 鋳工 | 志我部海継 |
| 銘文 | 詞 橘広相/銘 菅原是善/書 藤原敏行 |
| 指定年月日 | 明治30年(1897)保護、昭和27年(1952)3月29日 国宝指定 |
| 公開状況 | 通常非公開、鐘楼内に懸架 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)梵鐘・神護寺
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/337
- 神護寺 鐘楼堂屋根修復 クラウドファンディング(READYFOR)
- https://readyfor.jp/projects/jingoji02
- 神護寺(京都府観光連盟公式サイト)
- https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/304
- 高雄保勝会 観光スポット 神護寺
- https://www.kyo-takao.com/spot/
最終更新日: 2026.06.11