ひとつの店構えに、四十年の隔たり
猪原金物店主屋は、長崎県島原市上の町にある木造2階建の町家で、北側部分に万延2年(1861年)の棟札を持ち、平成15年(2003年)7月1日に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。文化庁の国指定文化財等データベースは員数を1棟、構造を木造2階建・瓦葺、建築面積を120平方メートルと記す。種別は「産業3次」、時代区分は江戸である。
島原街道の西側に東面して建つ。歩道から見ると一連の長い店構えに見えるが、実際は建築年代の異なる二つの部分が接続している。北側の上手部分が万延2年、南側の下手部分が明治後期。いずれも切妻造・平入で、正面東面と南面に半間の下屋を廻す。
屋根は桟瓦葺。2階は物置を兼ねた低いつし二階で、街道に面した町家が本二階を構えにくかった時代の形式をそのまま残す。外壁は真壁漆喰塗、柱を見せて壁面を白く塗り込める。
万延という元号は一年余りで終わっている。万延2年の早い時期に文久へと改元されたため、棟札の年号は建方の時期を1861年の初頭付近に絞り込む。島原はまだ松平氏の城下町であり、開港からは二年に満たない時期にあたる。
調査が明らかにしたこと
登録番号は42-0031、第37回登録。登録年月日は平成15年7月1日、官報告示は同月17日である。登録基準は第一号「国土の歴史的景観に寄与しているもの」。登録は届出制を基本とする緩やかな保護措置であり、許可制による重要文化財の指定とは制度上の性格が異なる。現役の商店として使い続けながら文化財たりうるのは、この制度の設計による。
長崎県の文化財データベースは登録の根拠となった調査所見を公開しており、その内容は具体的だ。街道に面した上手の建物は棟札から万延2年と確定。下手の建物には棟札がないが、和釘を使用していないことから明治後期と判断されている。さらに下手の裏には妻入の建物が一棟あり、入母屋造桟瓦葺で、小屋組がトラス組、2階部分も高いことから大正時代以降の建築と推定される。年代の異なる三棟をつなげて店舗とし、家族の住居は敷地の裏側に置く構成である。
内部の使い分けも記録されている。1階は上手裏側の一室のみを床板張りの庫敷とし、床の間と仏壇を南面させる。それ以外は土間で、商品が立ち並ぶ。2階は上手側に座敷を整え、残りは物置とする。
この2階座敷が調査の焦点になっている。床の間を構えた座敷が当初の建築か、後の改造によるものか。県の調査所見は、これを明らかにすることが島原町家の変遷理解に大きく影響すると述べる。本建物は当該調査で年代の判明した町家として二番目に古い。
もう一点、金物店という業態からは想像しにくい事実が県の記述に含まれている。当家の宗派は日蓮宗不受不施派であるという。江戸幕府に禁圧され、キリスト教と同様に隠れ信仰として存続した宗派である。島原の乱と潜伏キリシタンの記憶が層をなす土地で、同じ町筋に別系統の隠れ信仰が流れていた。隠すという行為がこの土地で一様でなかったことを示す一例である。
営業中の店舗と、その足元を流れる水
猪原金物店主屋は展示施設ではない。明治10年(1877年)に現当主の祖父の代がこの町家に移り住んで金物店を営んで以来、同じ場所で商いが続いている。営業時間中であれば、そのまま入って構わない登録有形文化財である。
公式サイトによれば、金物店は9時30分から18時、定休日は毎週水曜日。併設の茶房速魚川は11時から17時30分、ラストオーダー17時、定休日は毎週水曜日と木曜日。祝日は両店舗とも営業し、別日に振替休日をとる。祝日前後は時間が動くため、遠方から向かうなら0957-62-3117へ確認しておくとよい。店頭には国内外のロングセラーからチタン製の最新品まで並び、明治から昭和にかけての古い在庫も棚に残る。包丁や鋏の研ぎも店頭で受け付けている。
水の話をしなければならない。敷地内の自噴井戸は地下110メートルから毎分約150リットルを汲み上げ、水温は通年15度で安定する。この水を当主が水路に導いたのが速魚川で、建物の南面、庇の下を流れて店頭の水汲み場へ抜ける。誰でも自由に汲める。流路にはクレソン、セリ、ワサビが根づき、ハヤやモエビ、ホタルが棲む。店舗と茶房のあいだの中庭には、絶滅が危惧されるニホンイシガメが放し飼いにされている。
これは演出ではなく地質の帰結である。寛政4年(1792年)の眉山崩壊、いわゆる島原大変肥後迷惑によって地下水の経路が変わり、島原の各所で湧水が地表に現れるようになった。市内には七十を超える湧水が数えられる。昭和60年(1985年)3月、環境庁は島原湧水群を名水百選に選定し、現在は島原半島ユネスコ世界ジオパークのジオサイトにも位置づけられている。平成10年(1998年)に併設された茶房速魚川は、提供するすべてにこの湧水を使う。島原名物のかんざらし、匙で食べる島原ミルクセーキ、地元野菜のカレーなどが供される。
アクセスは、長崎県の文化財データベースが島原鉄道「島原」駅から徒歩5分とする。店は上の町の商店街の入口近くにあり、島原城からも歩ける距離にある。店内撮影は店の判断によるため、ひと声かけてからにしたい。
Q&A
- 猪原金物店主屋の内部に入ることはできますか。
- できます。現役の商店です。公式サイトによれば金物店は9時30分から18時で水曜定休、併設の茶房速魚川は11時から17時30分(ラストオーダー17時)で水曜・木曜定休です。祝日は営業し、別日に振替休日をとります。時間が変動することがあるため事前確認をおすすめします。
- 猪原金物店主屋はいつ建てられたのですか。
- 街道に面した北側の上手部分は棟札から万延2年(1861年)と確定しています。南側の下手部分は明治後期の建築です。両者が一体となって1棟として登録されています。なお金物店としての創業は明治10年(1877年)です。
- 猪原金物店主屋の登録はいつで、登録とはどのような制度ですか。
- 平成15年(2003年)7月1日登録、同月17日官報告示、登録番号42-0031です。登録は届出制と指導・助言を基本とする緩やかな保護措置で、許可制による重要文化財の指定を補完します。商業利用を続けながら保護できるのはこの仕組みによります。
- 猪原金物店主屋の湧水は汲んで持ち帰れますか。
- 汲めます。敷地内の自噴井戸から地下110メートル、毎分約150リットル、水温通年15度の水を引き、店頭に水汲み場が設けられています。島原湧水群は昭和60年(1985年)3月に環境庁の名水百選に選定されています。
- 猪原金物店主屋へのアクセスを教えてください。
- 所在地は長崎県島原市上の町912です。長崎県の文化財データベースは、島原鉄道「島原」駅から徒歩5分としています。上の町の商店街の入口近くで、島原城からも徒歩圏です。
- 猪原金物店主屋で建築として注目すべき点はどこですか。
- 店先の上に載る低いつし二階、柱を見せて白く塗り込める真壁漆喰の壁、東面と南面を廻る半間の下屋、そして万延2年の部分と明治後期の部分が接続する継ぎ目です。内部では、商品が並ぶ土間の空間が商家の実際の使われ方を示します。
基本情報
| 名称 | 猪原金物店主屋(いのはらかなものてんしゅおく) |
|---|---|
| 所在地 | 長崎県島原市上の町912 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物) 登録番号42-0031 第37回登録 登録基準第一号「国土の歴史的景観に寄与しているもの」 |
| 指定年 | 平成15年(2003年)7月1日登録 同年7月17日官報告示 |
| 員数 | 1棟 |
| 寸法 | 木造2階建、瓦葺、建築面積120平方メートル。年代は万延2年(1861年)及び明治後期 |
| 所有者 | 個人(国のデータベースでは所有者名欄は空欄、長崎県データベースは「個人」と記載)。合資会社猪原金物店が使用 |
| 公開状況 | 営業中の店舗として公開。金物店9時30分から18時、水曜定休。茶房速魚川11時から17時30分(L.O.17時)、水曜・木曜定休。祝日は営業し振替休日。電話0957-62-3117 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)— 猪原金物店主屋
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00003490
- 長崎県の文化財 — 猪原金物店主屋
- https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/282
- 猪原金物店・茶房速魚川 公式サイト
- https://www.inohara.jp/
- 島原市 観光情報 — 猪原金物店
- https://www.city.shimabara.lg.jp/kanko/page2886.html
- ながさき旅ネット — 速魚川・猪原金物店
- https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/988
- 環境省 — 名水百選ポータル
- https://www.env.go.jp/water/meisui/
最終更新日: 2026.08.20