春日の神に供えられた冠を納める笥

本作は、平安時代の貴族や神職が用いた冠を納めるためにつくられた円形の箱である。木を素地とし、表面を黒漆で塗り、銀と金の薄板による文様で飾る。十二世紀の制作とされ、長く奈良の春日大社に伝来した神宝のひとつであった。

現在は被せ蓋を失い、円筒形の身だけが残る。所蔵してきた家の記録によれば、蓋は安政年間(一八五〇年代)の地震で失われたという。残る身は径二四・五センチ、口径二三・一センチ、胴の高さ一七センチほどで、器壁の厚みは一センチ前後にとどまる。

この種の笥は、ただの容器ではない。納められた冠は、社殿の造替にあわせて神に供えられた装束類の一部であり、用済みののちも神宝として保管された。

銀と金を漆地と同じ高さにそろえる

漆の表面をよく見ると、文様は地の上に置かれたものではなく、面と一体になっているのがわかる。これが平文(平脱とも読む)で、日本の漆工に古くからある加飾技法のひとつである。銀や金の薄板を文様の形に切り抜いて黒漆の地に貼り、その上から全体に漆を塗る。漆が固まったのち、金属の上にかかった漆を研ぎ落とし、銀と金を周囲の黒と同じ高さに出す。

仕上がりは華やかさよりも落ち着きを感じさせる。金粉を盛り上げて文様を描く蒔絵に対し、平文は装飾を一つの平面に収めるため、見る角度を変えたときにだけ金属が光を返す。この技法は奈良時代に大陸から渡り、平安時代へと受け継がれたが、良好な状態で残る作例は多くない。

重要文化財に指定された理由

本作は昭和三十九年(一九六四)一月二十八日に重要文化財へ指定された。その価値はいくつかの点に支えられている。平文で飾られた平安時代の漆箱はそもそも遺品が少なく、状態の良い一例は初期漆工の研究にとって貴重である。

加えて、本作はよく知られた一群につらなる。春日大社は平安時代の工芸品を数多く所蔵し、その豊かさから東大寺正倉院になぞらえて「平安の正倉院」と呼ばれてきた。国宝に指定された本宮御料古神宝類のなかには、同じく蓋を失った黒漆平文の笥があり、本作と様式・技法を同じくする。両者は近い関係にあり、本作はさらに来歴がはっきりしている点で注目される。

その来歴は、春日大社の社務を世襲した社家、大東家を通じてたどれる。同家に残る「古筥裏書」には、応永三年(一三九六)八月にこの品が同家へ拝領されたことが、関わった中臣の人名とともに記されている。中世の工芸品で、社から所蔵者への移動をこれほど明確にたどれる例は少ない。

鑑賞の方法と周辺の見どころ

本作は個人の所蔵で、奈良国立博物館に保管されている。常設の展示ではない。漆は光や湿度に弱く、この種の作品は企画展や特別展で随時公開されるため、実物を見たい場合は事前に展示予定を確認するとよい。たとえば平成三十年(二〇一八)の春日大社一二五〇年記念の特別展で公開された。

博物館は奈良公園のなかにあり、園内では鹿が放し飼いにされている。徒歩圏には春日大社の本社と国宝殿があり、国宝殿では同じ漆の系譜に連なる平安の神宝が随時展示される。大仏で知られる東大寺、五重塔の興福寺も近く、奈良の東側は徒歩でめぐりやすい。

Q&A

Q冠笥とは何で、何を納めたのか。
A笥は蓋のついた円形の箱を指す古い語で、本作は冠を納めるためにつくられた。冠は貴族や神職が用いた礼装の被り物で、ここでの冠は春日大社にかかわる装束の一部であった。
Qなぜ蓋がないのか。
A所蔵してきた大東家の文書によれば、被せ蓋は安政年間(一八五〇年代)の地震で失われたという。現在は円筒形の身のみが残る。
Q平文とはどのような技法か。
A漆の加飾技法の一つである。銀や金の薄板を文様に切り抜いて漆面に貼り、上から漆を塗ったのちに研ぎ出して、金属を黒い地と同じ高さに収める。金粉で文様を盛り上げる蒔絵とは異なる。
Q実物は見られるか。
A決まった時期に常設されてはいない。個人蔵で奈良国立博物館に保管され、企画展や特別展でのみ公開される。事前に展示予定を確認するとよい。関連する平安の神宝は、春日大社国宝殿で同系統の作品を見られることが多い。
Q制作年代はどのように分かるのか。
A形と加飾から平安時代、十二世紀の作とされる。以後の来歴は応永三年(一三九六)に大東家が拝領した時点から、同家の記録によってたどれる。

基本データ

名称黒漆平文冠笥〈蓋欠〉(こくしつひょうもんかんむりばこ)
所在地奈良国立博物館 奈良県奈良市登大路町50
指定区分重要文化財(工芸品) 昭和三十九年(一九六四)一月二十八日指定
時代平安時代(十二世紀)
員数一合
寸法径24.5cm/口径23.1cm/胴高17.3cm/総高(蓋を除く)18.8cm/厚さ約1.0cm
材質・技法木製、黒漆塗、平文(銀・金の平らな金属象嵌)
所有個人蔵(奈良国立博物館保管)
公開状況常設展示ではない。企画展・特別展で随時公開

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/6893
奈良国立博物館 特別展「国宝 春日大社のすべて」
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/201804_kasuga/
春日大社 主な収蔵品
https://www.kasugataisha.or.jp/museum/takaramono/
文化遺産オンライン(NII) 大東家文書
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/388628
奈良国立博物館
https://www.narahaku.go.jp/

最終更新日: 2026.06.15