消えた五重塔の足もとから出た金と玉と銭
昭和2年(1927年)、奈良の市街地の一角で発掘調査がおこなわれた。かつて五重塔がそびえていた基壇に鍬が入り、塔の中心を支えた心礎の周囲から、薄い金の延板、金の塊、勾玉、瑠璃や水晶の玉、そして数種の古い銅銭がまとまって取り出された。これらを一括して指定したのが、重要文化財「元興寺塔址土壇出土品〈玉類銅銭其他一切〉」である。
出土した品々のもとになった塔は、いまはない。それは奈良の大寺のひとつ元興寺の東塔であり、安政6年(1859年)、近隣の民家から出た火が燃え移って焼け落ちた。地上に残るのは低い基壇と礎石の並びだけで、周囲は住宅に囲まれている。地下から出たこの一群は、現在は奈良国立博物館に収められ、千二百年あまり前に塔がどのように建立されたかを知る手がかりとなっている。
飛鳥にさかのぼる寺の歴史
出土品を理解するには、その塔が属した寺をたどる必要がある。元興寺の前身は、6世紀末に蘇我馬子が開いた法興寺、すなわち飛鳥寺である。日本で初めて本格的な伽藍を備えた仏教寺院とされ、和銅3年(710年)の平城京遷都にともなって新たな地に造営され、名を元興寺と改めた。南都七大寺のひとつに数えられた大寺であった。
最盛期の寺域は、現在のならまち一帯の大部分におよんだ。広い境内には金堂・講堂・僧房が並び、高い塔がそびえていた。しかし平安時代の半ば以降に勢いは衰え、火災や荒廃、町の拡大が重なって伽藍は分断されていく。今日では元興寺の名を継ぐ寺が三つに分かれ、それぞれが旧境内の一部を保っている。ここで取り上げる出土品は東塔の跡から出たもので、芝新屋町にある華厳宗の小さな寺院がその地にあたる。すぐ近くにある世界遺産の元興寺とは別の寺院である点に注意したい。
何が、なぜ埋められたのか
塔の基礎に貴重な品を納める行為は、日本の初期仏教において確立した作法であった。金や玉、上質の硝子、銭貨を心柱の根もと付近に据え、建立の時にあわせて捧げる。塔を地に鎮め、護るための奉献である。研究上はこうした一群を鎮壇具と呼び、元興寺の出土品もそのひとつと考えられている。
歴史を読み解くうえで手がかりとなるのが銅銭である。出土品には三種が含まれる。和同開珎は和銅元年(708年)に鋳造が始まり、万年通宝は天平宝字4年(760年)、神功開宝は天平神護元年(765年)に発行された。いずれも古代国家が鋳た皇朝十二銭に属する銭である。最も新しい神功開宝が765年に鋳られたものである以上、この奉献が地中に納められたのは8世紀後半をさかのぼらない。この一点の推論によって、建立にともなう鎮めの儀礼は奈良時代の後半に位置づけられ、いまは失われた塔に確かな年代の足場が与えられる。
金は、価値と意図について別の側面を示している。平らに延ばした金板と小さな金塊が、玉や銭とともに二度と取り出されぬまま地中に委ねられた。耐久性があり、光沢を放ち、高価なこれらの素材の選択には、寺の檀越の財力と、建立の儀礼が重く受けとめられていたことの両方がうかがえる。
出土品を間近に見る
この一群は、ゆっくり眺めるだけの内容を備えている。勾玉は一つ穴をうがった「く」の字形の玉で、日本のはるかに古い装身具と祭祀の系譜につながる。それが8世紀の仏教の奉献に組み込まれていることは、古い玉の文化がいかに深く残っていたかを示す。古記録に瑠璃と記される硝子玉は、青や緑の深い色で光を受けたであろうし、水晶の玉は澄んだ冷たさを保っていたはずである。銅銭のくすんだ色と金の柔らかな黄色とのあいだに置かれたとき、これらは埋納のために集められた一団として、目を引く取り合わせをなしていたにちがいない。
個々の品はいずれも大きくはない。その重みは寸法ではなく、置かれた文脈にある。ある定まった時に一つの儀礼をおこなった人々が、それぞれの品を選び、手にとり、地に据え、以後およそ千二百年のあいだ手つかずに残した。昭和2年に鍬が届くまで、それは静かに眠り続けた。博物館の展示ケースの前に立つときは、この小さな埋納のちょうど真上に塔の心柱が立ち上がり、塔の重みが象徴的にこの奉献の上に載っていた光景を思い描いてみたい。
跡地を訪ね、現物を見る
出土品そのものは奈良国立博物館に収蔵されており、地域の考古資料が常設の展示室で入れ替えながら公開されている。展示は替わるため、金板や玉、銭の実物を見たい場合は、訪れる前に博物館の展示情報を確認しておくとよい。
塔の跡地は、それとは別の、より静かな場所である。芝新屋町の住宅に囲まれた華厳宗の元興寺が、失われた塔の基壇と大きな礎石を残している。礎石の規模から、この塔は近くの興福寺五重塔、すなわち高さおよそ50メートルに並んだと見る向きがある一方、古記録は二十四丈、つまり70メートル近い高さを記している。いずれにせよ、当時として屈指の高さを持つ木造建築であった。寺の開門は不定期であるため、事前に確認してから向かうのが安全である。
足を運ぶ価値のある細部がひとつある。現在の堂の前に立つ石燈籠には正嘉元年(1257年)の刻銘があり、奈良市内で年号の知られる石燈籠としては最古とされる。夜になると鳴き声をあげたという伝説から「啼燈籠」と呼ばれてきた。ここから世界遺産の元興寺極楽坊までは徒歩数分で、その極楽堂と禅室はともに国宝、屋根には日本でも古い時期の瓦が今も葺かれている。古い町家やカフェ、工芸の店が並ぶならまちの路地もすぐそばである。
Q&A
- この重要文化財はどのようなものですか。
- 昭和2年(1927年)に元興寺東塔の基壇から出土した品々の一群です。金の延板と金塊、勾玉、硝子と水晶の玉、古い銅銭からなり、考古資料として一括で指定されています。塔の建立にあわせて納められた鎮壇具と考えられています。
- 埋められた年代はどうして分かるのですか。
- 最も確かな手がかりは銅銭です。765年に発行が始まった神功開宝が含まれるため、奉献は760年代をさかのぼりません。これにより鎮めの儀礼は奈良時代の後半に位置づけられます。
- 出土品は見学できますか。
- 奈良国立博物館に収蔵され、常設展の考古の区画で随時公開されています。展示は入れ替わるため、訪れる前に博物館の展示情報で公開の有無を確認してください。
- 塔は今も残っていますか。
- 残っていません。五重塔は安政6年(1859年)に焼失し、芝新屋町の華厳宗元興寺に基壇と礎石が残るのみです。寺の開門は不定期です。
- 世界遺産の元興寺と同じ寺ですか。
- 起源は同じですが、現在は別の寺院です。出土品は東塔の跡から出たものです。国宝の極楽堂と禅室を擁する世界遺産の元興寺は、旧境内の別の場所にあり、徒歩数分の距離です。
基本情報
| 名称 | 元興寺塔址土壇出土品〈玉類銅銭其他一切〉 |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(考古資料) 昭和8年(1933年)1月23日指定 |
| 員数 | 一括 |
| 時代 | 奈良時代(8世紀) |
| 主な内容 | 金延板・金塊、勾玉、瑠璃玉・水晶玉、銅銭(和同開珎・万年通宝・神功開宝) |
| 所在 | 奈良国立博物館 奈良県奈良市登大路町50 |
| 出土地 | 奈良市芝新屋町 元興寺東塔跡(昭和2年・1927年発掘) |
| 公開状況 | 常設展示室にて随時公開(入れ替えあり)。事前に展示情報の確認を推奨 |
References
- 文化庁 国指定文化財等データベース
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9673
- 奈良国立博物館 収蔵品データベース
- https://www.narahaku.go.jp/collection/
- 元興寺(世界遺産) 建築・境内図
- https://gangoji-tera.or.jp/watch/architecture.html
- 奈良市観光協会 世界遺産 元興寺
- https://narashikanko.or.jp/spot/detail_10027.html
- 奈良っこ 元興寺〈塔跡〉
- https://www.narakko.jp/towerofgangoji/
最終更新日: 2026.06.14