周防灘を望む台地に営まれた集落
大分県宇佐市大字荒木。駅館川から分かれた黒川の左岸、標高八メートルほどの低い段丘の上に、古墳時代前期の集落跡が眠っている。小部遺跡(こべいせき)と呼ばれるこの遺跡は、面積約一万三千五百平方メートル。昭和四十年代の土木工事をきっかけに発見され、半世紀にわたる調査によって、その姿が少しずつ浮かび上がってきた。
注目すべきは、ここが単に古い集落跡というだけでなく、集落の構造が時期を追って変化していく過程をはっきりと辿れる遺跡であるという点にある。環濠集落として現れ、やがてその内側に有力者の居館が造られ、最後には方形周溝墓が並ぶ墓域へと変わっていく。三つの段階を一つの場所で読み取れる事例は限られている。
その学術的価値が評価され、令和三年三月二十六日に国の史跡に指定された。令和七年三月には追加指定も行われ、保護される範囲がさらに広がっている。宇佐市内では六件目の国指定史跡である。
環濠集落の出現
古墳時代前期の初め頃、ここに営まれた集落は、深い溝で囲まれていた。南北約百二十メートル、東西は百メートルを超え、平面形は隅丸方形を呈する。その南辺には、一辺十メートルほどの方形の突出部が二か所、外側に張り出していた。突出部の機能については諸説あるが、儀礼や防御に関わる施設と考える研究者が多い。
環濠の内側に並行して柵列が設けられていた点も興味深い。土を掘って濠を造り、さらに杭を打って柵を立てる。二重の境界線を引いて内と外を分ける意識が、この時期の集落運営に既にはっきりと根付いていた。
居館への変遷
前期の前半に入ると、環濠の内部のほぼ中央に、もう一回り小さな方形区画が設けられる。南北約五十メートル、東西約三十七メートル。柵で囲まれたこの区画の西辺に沿って、桁行四間、梁行三間、面積にして八メートル四方近い大型掘立柱建物が建てられた。建物の内側にも柱列が認められ、高床式の構造であった可能性が指摘されている。
集落全体を囲む環濠の中に、有力者の領域だけをさらに柵で囲い、その中に大型建物を据える。空間の階層化が始まっていることが、平面プランから読み取れる。考古学者がここを「豪族居館」と呼ぶ理由はここにある。
ところが前期後半に入ると、こうした施設は一斉に廃絶される。代わって登場するのが、一辺十メートル前後の方形周溝墓群である。生者の場であった土地が、死者の場へと姿を変えていった。
海を渡ってきた土器
環濠の埋土からは、土器が大量に出土している。注目されているのは、その中に近畿地方や吉備(現在の岡山県)地方の特徴を持つ土器が多数含まれていた点である。一度や二度の接触で混じり込むような量ではない。
小部遺跡が立つ宇佐平野は、北に開けて周防灘に面し、その先には瀬戸内海が広がる。三世紀から四世紀にかけて、瀬戸内海は人と物資、そして政治的なつながりが行き交う大動脈だった。畿内や吉備の土器がこの地に持ち込まれていたという事実は、小部の集落がその海上交通網の重要な結節点の一つであったことを示している。出土土器の一部は大分県立歴史博物館の常設展示室で見ることができる。
赤塚古墳との関係
居館が営まれていた時期とほぼ同じ頃、東におよそ二キロメートル離れた台地の上に、全長五十七・五メートルの前方後円墳が築かれた。赤塚古墳である。川部・高森古墳群を構成する六基の前方後円墳のうち最も古く、九州全体でも初期に属する前方後円墳の一つに数えられている。大正十年に行われた発掘で、後円部の箱式石棺から三角縁神獣鏡五面、管玉、鉄刀片などが出土した。鏡のうち四面は中国製とされ、京都府の椿井大塚山古墳や福岡県の石塚山古墳などから出土した鏡と同じ鋳型から造られた「同笵鏡」だった。畿内のヤマト政権との直接的な結びつきが想定される副葬品である。
居館の盛期と古墳の築造期がほぼ重なるという事実は、両者の間に明確な人的つながりを想定させる。小部の柵の内側で暮らしていた一族の中核が、赤塚古墳に葬られた可能性は高い。住まいと墓所、二つの遺跡を合わせて読むことで、宇佐平野に拠った首長層の実像が立体的に立ち上がってくる。
訪ねるための手がかり
遺跡そのものは、観光地として整備された施設ではない。現地は農地と緑地が広がる一帯で、復元建物や案内施設は置かれていない。発掘の成果を本格的に学びたい場合は、まず宇佐風土記の丘にある大分県立歴史博物館を訪ねるのが現実的である。
博物館は史跡公園「宇佐風土記の丘」の中にあり、敷地内には赤塚古墳をはじめとする川部・高森古墳群の前方後円墳が点在する。常設展示室では小部遺跡から出土した土器の一部や、赤塚古墳出土の三角縁神獣鏡(複製を含む)が展示されており、宇佐の地が古墳時代から九州とヤマトを結ぶ要地であった経緯を、実物を前にしながら理解できる構成になっている。JR宇佐駅から車で約十分、宇佐ICからは約十二分とアクセスもよい。
Q&A
- 小部遺跡はどの時代の遺跡ですか。
- 古墳時代前期、三世紀後半から四世紀にかけての集落跡です。環濠集落として出現し、その内側に豪族居館が成立し、最後は方形周溝墓群が築かれる墓域へと、約百年の間に三段階の変遷を経た点が大きな特徴です。
- 遺跡の現地は見学できますか。
- 現地は農地を含む保全区域となっており、観光向けの常設施設は整備されていません。詳細な見学を希望される場合は、宇佐市教育委員会社会教育課文化財係への事前相談が確実です。遺跡の出土資料は大分県立歴史博物館で公開展示されています。
- どのような遺構や遺物が見つかっていますか。
- 突出部を伴う環濠、その内側の柵列による方形区画、桁行四間・梁行三間の大型掘立柱建物の柱穴、そして前期後半に築かれた方形周溝墓群が確認されています。遺物では、近畿地方や吉備地方からもたらされた土器が多数出土しています。
- 赤塚古墳とはどのような関係がありますか。
- 小部の居館が機能していた時期と、東約二キロに位置する赤塚古墳の築造時期はほぼ同時です。研究者の多くは、居館に暮らしていた首長層が赤塚古墳に葬られた可能性が高いとみています。住まいと墓所、二つの史跡を一帯として捉えることで、宇佐平野の首長層の姿が立ち上がってきます。
- どこで関連資料を見ることができますか。
- 宇佐風土記の丘にある大分県立歴史博物館の常設展示室で、小部遺跡から出土した土器の一部を見ることができます。同じ敷地内には赤塚古墳を含む川部・高森古墳群の前方後円墳が点在し、博物館の見学と組み合わせて訪れることができます。
基本情報
| 名称 | 小部遺跡(こべいせき) |
|---|---|
| 所在地 | 大分県宇佐市大字荒木 |
| 種別 | 古墳時代前期の集落跡・豪族居館跡 |
| 時代 | 古墳時代前期(3世紀後半~4世紀) |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 令和3年(2021年)3月26日 追加指定:令和7年(2025年)3月10日 |
| 面積 | 13,508.27平方メートル |
| 指定基準 | 一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 |
| 主な出土遺物 | 近畿地方・吉備地方系の土器など(一部は大分県立歴史博物館の常設展示室にて公開) |
| 関連施設 | 大分県立歴史博物館(宇佐市大字高森字京塚) JR宇佐駅から車で約10分、宇佐ICから約12分 |
| 現地見学について | 農地を含む保全区域のため、観光向けの常設施設はなし。詳細は宇佐市教育委員会社会教育課文化財係へ。 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース「小部遺跡」(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004120
- 小部遺跡が国指定史跡に指定されました(宇佐市)
- https://www.city.usa.oita.jp/sougo/soshiki/18/shakaikyoiku/3/bunkazai/12565.html
- 全国遺跡報告総覧「小部遺跡第19次調査報告書」
- https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/71522
最終更新日: 2026.05.27