旧造幣寮 — 近代日本の貨幣鋳造がはじまった場所
明治4年(1871年)、大阪・北区の大川のほとりに、それまでの日本にはなかった種類の工場が完成した。西洋式の設計、輸入された機械、そして操業当初は英国人をはじめとする外国人技師が支えた施設である。名を造幣寮といった。
造幣局は今もこの地で稼働しているが、建物は後の世代に建て替えられたものだ。創業当時の工場は残っていない。残されたのは、最初の十年ほどに築かれたいくつかの建造物と設備であり、文化庁は平成27年(2015年)9月、これらをひとつの範囲としてまとめ、「旧造幣寮」の名で国の史跡に指定した。
指定地はおよそ6,650平方メートルとそれほど広くなく、徒歩で行き来できる二つの区域に分かれている。ひとつは、造幣寮の応接所だった煉瓦造の洋館・泉布観を中心とする区域。もうひとつは稼働中の造幣局の内外にあり、旧正門、衛兵詰所、ガス灯、境界石標、そして川沿いに長く続く護岸石垣を含む。
貨幣制度を立て直すための工場
幕末の日本は、貨幣制度が乱れていた。新政府は、西洋諸国の貨幣にひけをとらない貨幣を製造できる官営の造幣所を設けることが、近代国家を築くうえで欠かせないと考えた。これを政府直営とする決定は、慶応4年(1868年)に下されている。
ほぼ同じころ、英国が香港に設けた造幣局が閉鎖され、そこで使われていた機械が入手できることになった。政府は長崎の英国商人グラバーを介して技師トーマス・J・ウォートルスを雇い入れ、工事の設計と監督にあたらせた。明治3年(1870年)の初め、機械の据え付けのために七人の外国人技師が来日し、その長は香港造幣局を率いた経験をもつトーマス・W・キンドルが務めた。
操業がはじまったのは明治4年(1871年)である。創業式には、右大臣の三條実美をはじめとする政府要人や各国の公使が参列した。同じ年に新貨条例が定められて日本は円を基軸とする貨幣制度に移り、金貨・銀貨の鋳造がはじまった。明治6年(1873年)には銅貨の鋳造場も完成している。
造幣寮の仕事は、金属を打って貨幣をつくることだけにとどまらなかった。地金の精製に必要な硫酸を自前で製造し、照明用の石炭ガスも自前で生み出していた。構内に灯されたガス灯は、日本で最初期のものといわれ、その一部が現存している。
明治5年(1872年)には明治天皇が行幸し、応接所に滞在した。天皇はこの建物に「泉布観」の名を与えている。「泉布」は貨幣を意味する古い言葉、「観」は館を指す。施設そのものも、明治10年(1877年)に造幣寮から造幣局へと改称された。外国人技師は次第に帰国し、明治8年(1875年)にキンドルの契約が終わり、最後に残ったマクラガンも明治22年(1889年)に職を離れた。このころには、日本人の手だけで操業できる態勢が整っていた。
最初の工場建物は長くは持たなかった。耐震性に乏しかったため、関東大震災が危うさを示したのちの昭和3年(1928年)から昭和13年(1938年)にかけて、すべて建て替えられた。創業当時の工場は、いま造幣局の構内に一棟も残っていない。残された断片の値打ちは、その不在の裏返しでもある。
史跡に指定された理由
国の史跡は、日本の歴史を理解するうえで価値の明らかな場所に与えられる区分である。旧造幣寮は、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡という基準のもとで認められた。理由は明快だ。造幣寮は日本で最も早い時期に建てられた本格的な洋式工場のひとつであり、新政府が自国の財政を国際的な水準に引き上げようとした取り組みの中心に位置していた。
指定範囲のなかには、独自の保護をすでに受けていた建物が二つある。泉布観と、造幣寮鋳造所の正面玄関は、いずれも昭和31年(1956年)に重要文化財に指定されている。平成27年の史跡指定は、その周囲により広い線を引き、旧正門や各種の設備、護岸石垣を加えた。初期の造幣寮の物理的な痕跡を、孤立した個々の対象としてではなく、ひとつのまとまった歴史的景観として守ろうとしたものである。
見どころ
多くの来訪者が目あてにするのは泉布観である。煉瓦造の二階建てで、四方をぐるりとヴェランダが取り囲む。英国の技師たちがアジア各地に持ち込んだヴェランダ・コロニアル形式と呼ばれる構成だ。大阪府に現存する最古の洋風建築とされる。設計はウォートルスで、その均整のとれた静かな佇まいは、いまなお当時の意気込みをかたちにしたものとして読み取れる。
造幣局の旧正門も、やはりウォートルスの手になるもので、ゆっくり眺める価値がある。門柱は鋳鉄製。そのかたわらに、かつて衛兵の詰所だった小さな建物が立つ。モルタルを塗った煉瓦造の平屋で、八角形の平面に桟瓦葺の宝形造の屋根をのせている。
ガス灯と、川沿いに続く護岸石垣にも目をとめたい。石垣には創建当初の石組みがかなり多く残っている。
もうひとつ、この場所の来歴を補う建物がある。造幣寮の金銀貨幣鋳造場の正面玄関を成していた石造のポーチは、昭和2年(1927年)に鋳造場本体が取り壊された際にも保存された。昭和10年(1935年)、その石材は記念館の玄関として組み直され、その建物が現在の旧桜宮公会堂である。重要文化財に指定されているのは、玄関の部分のみである。
訪ねるにあたって
指定地の二つの区域は、国道1号が川を渡る桜宮橋の近くにある。泉布観はいつでも外観を眺めることができ、川を背にした位置から見るとヴェランダの並ぶ正面がよく映える。内部が公開されるのは、ごく限られた、告知のある機会だけなので、なかに入ることを目あてにする場合は、あらかじめ大阪市の発表を確認しておきたい。
隣接する旧桜宮公会堂は、現在はレストランや催事の会場として営まれている。昼のコースを予約することは、造幣寮の歴史につながる建物のなかで時を過ごす、確実な方法のひとつである。
稼働中の造幣局は、事前予約による無料の工場見学を実施し、無料で入れる博物館も備えている。造幣博物館が入るのは明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた煉瓦造の建物で、構内に残る唯一の明治期の煉瓦建築である。展示は日本の貨幣の歴史をたどるもので、珍しい大判・小判なども並ぶ。博物館は、毎春の桜の通り抜けの期間は休館となる。
造幣局のまわり
造幣局がもっとも広く知られているのは、貨幣とはあまり関わりのない事柄によってである。4月中旬のおよそ一週間、構内を貫く約560メートルの道が「通り抜け」として一般に開放される。道沿いにはおよそ130品種の桜が植えられ、その多くは他ではあまり見かけない遅咲きの品種で、日没後にはぼんぼりが道を照らす。入場は無料だが事前の申し込みが必要で、この期間は工場見学と博物館は休みになる。
川沿いには毛馬桜之宮公園が数キロにわたって続き、季節を問わず歩きやすい。造幣局を取り巻く一帯は、天満宮から旧運河の町の橋々まで、大阪の歴史がいくえにも重なっており、長い一日の散策に組み込むのにふさわしい場所となっている。
Q&A
- 泉布観のなかに入れますか。
- 外観はいつでも自由に見ることができます。内部が公開されるのは告知のある限られた日数のみで、その日程は年によって異なります。内部の見学を予定に組む場合は、大阪市の発表を事前に確認することをおすすめします。
- 旧造幣寮は、いま稼働している造幣局と同じものですか。
- 同じ場所にある同じ機関ですが、建物は同じではありません。創業当時の工場は昭和初期に建て替えられました。史跡の指定は、泉布観や旧正門、護岸石垣など、初期に築かれて残った建造物や設備を対象としています。
- 有名な桜はいつ見られますか。
- 「通り抜け」は4月中旬のおよそ一週間にわたって開放され、正確な日程は開花に合わせて毎年決められます。入場は無料ですが、事前にインターネットでの申し込みが必要です。
- 入場料はかかりますか。
- かかりません。造幣博物館は無料、事前予約が必要な工場見学も無料、春の桜の通り抜けも無料です。
- どのように行けばよいですか。
- 造幣局は、大阪メトロの南森町駅、JR東西線の大阪天満宮駅、JR環状線の桜ノ宮駅から、いずれも徒歩約15分です。来訪者用の駐車場はないため、公共交通機関の利用が現実的です。
基本情報
| 名称 | 旧造幣寮(きゅうぞうへいりょう) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市 |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 平成27年(2015年)9月9日 |
| 時代 | 明治時代 |
| 指定面積 | 約6,650.43平方メートル |
| 指定基準 | 生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡 |
| 主な構成要素 | 応接所・泉布観、旧正門と衛兵詰所、ガス灯、境界石標、護岸石垣、移築された鋳造所正面玄関 |
| アクセス | 南森町駅・大阪天満宮駅・桜ノ宮駅から徒歩約15分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)— 旧造幣寮
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00003912
- 文化遺産オンライン — 旧造幣寮
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/267472
- 文化遺産オンライン — 泉布観
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/123117
- 造幣局 — 公共交通機関アクセス(本局)
- https://www.mint.go.jp/enjoy/plant_visit_honkyoku_access.html
最終更新日: 2026.05.26