加茂遺跡 猪名川を見下ろす台地に眠る弥生のムラ

川西市南部、猪名川がつくる沖積平野を約40メートル下に見下ろす伊丹台地の縁に、近畿地方有数の規模をもつ弥生集落の跡がある。加茂遺跡である。最盛期にあたる弥生時代中期には、東西およそ800メートル、南北約400メートル、面積にして20ヘクタール近くに広がっていた。今からおよそ2000年前のことで、ムラがもっとも栄えた時期には数百人規模の人々が暮らしていたと推定されている。

現地を訪れても、見上げるような遺構が立っているわけではない。発掘された範囲は保存のために埋め戻され、台地の上は住宅地となっている。残されているのは台地という地形そのものと、近くに保管された出土品、そして190次を超える発掘調査が少しずつ復元してきた一つの集落の全体像である。

集落の中心部は平成12年(2000年)7月31日に国の史跡へ指定された。その後も保護の範囲は数度にわたって広げられ、直近では令和7年(2025年)3月に追加指定が行われている。

遺跡が知られるまで

はじめの手がかりは明治44年(1911年)にさかのぼる。台地東側の崖下から、高さ1.14メートルの大型の銅鐸が掘り出された。栄根銅鐸と呼ばれるこの一点は、全国でも10位以内に入る大きさをもつ。銅鐸はもともと季節の祭りで鳴らして用いる青銅器だったが、世代を重ねるうちに背が高く薄くなり、装飾も増えて、やがて鳴らすものから据えて見るものへと性格を変えていった。栄根銅鐸の複製は、遺跡内の市立資料館で見ることができる。

大正4年(1915年)には、笠井新也が鴨神社の周辺で大量の弥生土器と石器の散布を記録し、遺跡の存在が研究者や愛好家に広く知られるようになった。地元では宮川雄逸が、出土品が市外へ流出するのを防ごうと採集を続け、昭和11年(1936年)に小さな宮川石器館を開いて収集資料を公開している。

学術的な発掘は昭和27年(1952年)に始まった。関西大学と関西学院大学が3次にわたって最初の調査を実施している。昭和50年代に入ると宅地開発に伴う小規模な調査が急増し、川西市による発掘は190次を超えた。長年の調査の積み重ねが、住居や墓域、ムラを巡る溝といった集落の構造を一つずつ明らかにしていった。

なぜ重要なのか

台地は旧石器時代から利用され、平安時代まで人の営みが続いた。そのなかで加茂が特別な場所になったのは弥生時代中期である。集落は中期初頭に形づくられ、中頃から後半にかけて急速に大規模化し、後期には一転して縮小していった。

これまでに掘立柱建物6棟、竪穴住居およそ40棟、方形周溝墓22基、土器棺墓12基、木棺・土坑墓38基、そしてムラの縁を区切る環濠が確認されている。これだけの遺構がそろうことで、人々がどこに住み、どこに死者を葬り、両者をどう分けていたかという集落全体の姿を読み取れる。

中心は遺跡の東半部にあった。数条の環濠がその西側を弧状に巡り、平面形は直径約300メートルの円形に近い。さらに東側の斜面にも一条の環濠が走る。注目すべきはこの斜面の環濠である。弥生の環濠集落は平坦地を囲うものが大半で、斜面に防御の溝を切った例は少ない。加茂が守りを意識して築かれた集落だったことを示す特徴といえる。

規模では奈良県の唐古・鍵遺跡をやや下回り、大阪府の池上曽根遺跡とほぼ並ぶ。住人は硬い火山岩であるサヌカイトを石器に加工し、周辺の小集落を束ねながら、大阪湾北岸地域の中核的なムラとして機能していたと考えられている。近畿地方の大規模な弥生集落がどう営まれていたかを具体的に示す遺跡として、その価値は高い。

見どころ

もっとも雄弁な発見は、平成4年(1992年)に鴨神社の北側で見つかった。板塀で囲まれた方形の区画の内側に立つ、大型の掘立柱建物である。板塀は建物の柱筋からおよそ3メートル外に据えられ、この建物をふつうの住居から意図的に切り離していた。時期は中期後半。集落の首長層の住居か、祭祀に用いられた施設と推定されている。大きな木造の建物と、それを囲う塀の組み合わせは、この規模のムラのなかで権威や儀礼がどう形にされたかをうかがわせる。

方形周溝墓のなかにも、性格の異なる一基がある。西側の墓域ではなく中心の居住域に位置し、規模が大きく、主体部を6基ももつ。特別な地位の人物の墓と読む研究者もいる。

遺構そのものは埋め戻されているため、これらを実感する手がかりは資料館の復元模型や出土品にある。あわせて台地の縁に立ち、2000年前の人々を引き寄せたであろう川辺の広い眺めを確かめてみたい。

周辺の見どころとアクセス

起点になるのは、平成5年(1993年)に史跡の中に開館した川西市文化財資料館である。展示室には旧石器時代から中世までの出土品が時代ごとに約300点並び、栄根銅鐸の複製もここで見られる。土曜・日曜・祝日には勾玉づくりの体験もでき、参加費はわずか。入館は無料である。

そこから歩いてすぐの鴨神社は、ムラの中心近くに鎮座する。平安時代の『延喜式』に記載された古社で、京都の上賀茂神社と同じく別雷命を祀る。境内には遺跡の石碑と説明板が立つ。当初の宮川石器館も近くに残るが、現在は平日の予約制となっている。

川西市にはほかにも足を延ばしたい場所がある。摂津源氏ゆかりの多田神社や満願寺は市内にあり、加茂遺跡とあわせて半日の散策に向く。大阪や神戸の中心部からのアクセスも良い。

資料館へはJR川西池田駅または阪急川西能勢口駅から南西へ徒歩約20分。バスなら阪急バスの伊丹行きで「南花屋敷」停留所まで行き、そこから徒歩約2分である。車で訪れる場合は20台ほどの駐車場がある。

Q&A

Q現地で遺構を見ることはできますか。
A立っている遺構はありません。発掘された範囲は保存のため埋め戻され、台地の上は住宅地になっています。理解を深めるには、まず川西市文化財資料館を訪ね、石碑と説明板が立つ鴨神社まで歩くのがよいでしょう。
Q栄根銅鐸とは何ですか。
A明治44年(1911年)にこの遺跡で出土した青銅製の祭祀具で、高さは1.14メートル。全国でも10位以内に入る大きさです。実物は別の場所に保管されていますが、原寸の複製を市の資料館で展示しています。
Q集落の規模や人口はどれくらいでしたか。
A弥生中期の最盛期には東西約800メートル、南北約400メートル、20ヘクタール近くに広がりました。人口は数百人規模と紹介されることが多いものの、こうした数字は推定であり、正確に分かっているわけではありません。
Q資料館は無料ですか。開館時間は。
A入館は無料です。開館は9時30分から17時(最終入館16時30分)。月曜日(祝日のときは翌日)と年末年始は休館します。時間は変わることがあるため、特別な目的があるなら事前の確認をおすすめします。
Q他の弥生集落と比べた加茂遺跡の特徴は。
A二点あります。一つは東側斜面に掘られた防御的な環濠で、環濠集落のなかでも例の少ないものです。もう一つは中心付近の板塀で囲まれた大型建物で、首長層の住居か祭祀の場と考えられます。大阪湾北岸の大集落がどう営まれたかを示す手がかりです。

基本データ

名称加茂遺跡(かもいせき)
所在地兵庫県川西市加茂・南花屋敷
指定区分国指定史跡
指定年月日平成12年(2000年)7月31日(2011年・2015年・2025年に追加指定)
指定面積約36,745平方メートル(集落の広がりは約20ヘクタールに及ぶ)
時代中心は弥生時代中期。台地は旧石器時代から平安時代まで利用された
アクセス(資料館)JR川西池田駅・阪急川西能勢口駅から南西へ徒歩約20分。阪急バス「南花屋敷」下車徒歩約2分
資料館川西市文化財資料館。9時30分〜17時(最終入館16時30分)、月曜・年末年始休館、入館無料

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):加茂遺跡
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/3256
文化遺産オンライン(文化庁):加茂遺跡
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203406
川西市文化財資料館(川西市公式サイト)
https://www.city.kawanishi.hyogo.jp/shiseijoho/shokai/kankouannai/1003058/1018400/index.html
史跡「加茂遺跡」が追加指定されました(川西市公式サイト)
https://www.city.kawanishi.hyogo.jp/kurashi/shimin/sports/1009251/1021651.html

最終更新日: 2026.05.29