楠木城跡(上赤阪城跡)

大阪府の南東端、千早赤阪村桐山の集落を見下ろす尾根の上に、楠木城跡(上赤阪城跡)はある。標高はおよそ三五〇メートル。三方を急な谷に囲まれた細い稜線が、そのまま城の縄張りになっている。天守も石垣もなく、復元された建物もない。残るのは、人の手で削り出された地形そのものである。

この城は、鎌倉時代末から南北朝期にかけて活動した楠木正成が、本城として頼みにした山城と伝わる。『太平記』をはじめ古い記録は「楠木城」と呼ぶが、近隣にもう一つ赤坂の城があるため、研究の場では立地で区別して「上赤阪城」「上赤坂城」と呼ぶことが多い。国の史跡としての名称は、その両方を併せた「楠木城跡(上赤阪城跡)」である。

城は単独で築かれたのではない。金剛山の山すそには、千早城や下赤坂城をはじめ、いくつもの砦が連なっていた。これらは赤坂城塞群と総称され、元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒す戦いの舞台となった。

元弘の籠城戦

元弘元年(一三三一)、後醍醐天皇の倒幕計画が露見し、天皇は笠置山へ逃れた。これに呼応して挙兵した正成は、河内の山々に城を構える。にわか造りだった最初の赤坂城はほどなく落ち、正成はいったん退いた。翌々年にかけて正成は再びこの地に城を築き直しており、上赤阪の尾根に現在見られる城の形が整えられたのは、この時期と考えられている。

決戦は元弘三年(正慶二年、一三三三)の春に訪れた。幕府は大軍を河内へ送り込み、二月二十二日、上赤阪城に迫る。城将は正成自身ではなかった。正成は弟の楠木正季を副将に添えたうえで、城を平野将監入道にあずけ、自らはさらに山深い千早城から全体の指揮をとった。

平野将監入道を城将に据えたことには意味がある。彼は六波羅を脅かしたこともある畿内屈指の悪党で、官位の上では正成より上位にあった。幕府は上赤阪城を本戦のひとつと見なし、河内方面軍の大将である阿蘇治時をこの攻略に充てている。

城は十日ほど持ちこたえた。『太平記』によれば、守兵を追い詰めたのは戦いそのものではなく渇きであった。寄せ手が城へ水を引く水路を見つけ出し、これを断ったのだという。水の手が記述どおりに絶たれたかどうかは確かでないが、この逸話はその後の城の記憶を長く形づくってきた。閏二月一日ごろ、平野将監はわずかな手勢を連れて投降する。正季は千早城へと逃れた。平野将監はのちに京の六条河原で処刑されたと『太平記』は記す。

上赤阪城は落ちたが、戦いは終わらなかった。千早城は長い籠城を耐え抜き、やがて鎌倉幕府は崩れ去る。城はその後も軍事の役割を保ち、南北朝の争乱では南朝方の拠点のひとつとして使われ、延文五年(正平十五年、一三六〇)に北朝方の手に落ちた。

昭和九年の史跡指定

昭和九年(一九三四)三月十三日、楠木城跡(上赤阪城跡)は、千早城跡・赤阪城跡(下赤坂城跡)とともに国の史跡に指定された。二か月後には千早赤阪村が管理団体に定められている。指定の区分は、城跡その他政治に関する遺跡。古い解説は城の地勢をこう記す。二河原辺の東南にそびえる山上にあり、三方は断崖と深い谷に臨み、展望はすこぶる良く、天険の要害である、と。同じ記録は城の背後の谷にふれ、今も水を湛えるそこを、かつて城の飲料水源と伝える、と書きとめている。

この地が史跡たる価値は、特定の建造物にあるのではなく、地形と歴史的事件との結びつきにある。曲輪や堀切は、少数の兵が備えのある高所に拠って大軍と渡り合う、正成が得意とした山城戦のありようを今に残す物証である。昭和九年に同時指定された三城はひとつのまとまりとして読まれることが多く、なかでも当時の遺構がもっともよく残るのが、この上赤阪城跡だとされる。

城跡を歩く

登り口は、ふもとの「一の木戸」の近くにある。案内板の立つあたりが、城の最初の門があったとされる場所である。ここからしばらく続くのは切通しの道だ。斜面を掘り下げて通したこの道は、歩く者を両側からはさみこむ。道そのものが守りの仕掛けになっている。

「二の木戸」「三の木戸」を過ぎると、「そろばん橋」に着く。今は道が途切れず続くが、その名と地形は、尾根を断ち切る堀切の存在を示している。往時はそこに木の橋が架けられ、取り外せるようになっていたと推定される。さらに進むと「茶碗原」に出る。土器が出土したことからこの名がついた平坦地で、出土品は、ここが城の曲輪として使われていたことを裏づけている。

道の終点は、頂上の「千畳敷」と呼ばれる広場である。畳千枚を敷けるという名のとおりの広さで、その周囲をぐるりと帯曲輪が囲む。眺めは北へ、大阪平野を越えて市街にまで届く。ここに立てば城の理屈がよくわかる。この高みを押さえる者は、敵が近づくはるか前にその姿を見るのであり、急斜面そのものが守りの大半を引き受けている。

斜面に目をこらすと、十四世紀のものではない遺構が見つかる。等高線に沿って延びる横堀や、畝のように並ぶ空堀の一群は、後の世の手によるものだ。発掘では十四世紀から十六世紀にわたる遺物が見つかっており、横堀は戦国期、畠山氏をめぐる合戦のなかで城が改修・再利用された頃のものと考えられている。今ある城跡は、いわば幾重にも層をなしている。十四世紀の戦場が、後の時代の手で造り替えられた姿なのである。

城跡のまわり

千早赤阪村は大阪府で唯一の村であり、楠木正成をいわば村の人物としてあつかってきた。城から程近い場所には、正成の誕生地と伝えられる地があり、その産湯に使われたという井戸も残る。近くの郷土資料館には、楠木氏や城にかかわる資料や出土品が集められている。

訪問の拠点となるのが、道の駅ちはやあかさかである。「日本一かわいい道の駅」とも呼ばれる小さな建物で、大阪府で最初に登録された道の駅でもある。直売所には村の棚田や畑でとれた農産物が並び、二階のカフェでは、村の米や野菜を使った料理が供される。棚田の風景を盛りつけで模したカレーもそのひとつだ。

正成にまつわる場所は、ほかにも歩いて回れる範囲にある。石積みの高い塔「奉建塔」は、正成の没後六百年を記念して昭和十五年に建てられたもので、その下の斜面は晩冬になると水仙で埋まる。正成が籠城戦を戦い抜いた千早城の跡は、今は千早神社の境内となっている。下赤坂城跡は、棚田百選にも数えられる下赤阪の棚田を背にして建つ。山を歩く人にとって、この城の尾根は、村の背後にそびえる標高一一二五メートルの金剛山へ登る道筋のひとつでもある。

Q&A

Q頂上までどのくらいかかりますか。
A一の木戸近くの駐車場所から頂上の千畳敷まで、徒歩でおよそ二十分です。登りの続く山道ですので、歩きやすい靴をおすすめします。気温の高い時期は汗ばむ道のりですので、時間に余裕をみてお出かけください。
Q建物が残っていないと聞きましたが、見るべきものはありますか。
A天守も復元建物もありません。見どころは土の遺構そのものです。掘り下げた切通しの道、そろばん橋の堀切、いくつもの曲輪、そして後の世に加えられた横堀。中世の山城が地形をどう使ったかに関心のある方には、塔の建つ城跡よりもむしろ読み解きやすい場所です。
Q公共交通機関で行けますか。
A村のバス路線は、従来の事業者が二〇二三年末で運行を終えたのち再編され、現在はコミュニティバスとして運行されています。近鉄富田林駅からの便はありますが本数は多くなく、最寄りの停留所から城まではなお三十分ほど歩きます。車をお持ちでない場合は、最新の時刻表を事前にお確かめください。車で訪れ、道の駅の駐車場を利用する方が多いです。
Qいつ訪れるのがよいですか。
A頂上からの遠望がもっとも澄むのは晩秋から冬にかけてです。奉建塔の下の水仙は晩冬に咲き、春には村に桜が巡ってきます。夏は蒸し暑く、登りはこたえます。山道には日陰が少ないので、暖かい時期は日よけの備えがあると安心です。
Q「楠木城」「上赤阪城」「赤坂城」は何が違うのですか。
Aいずれも同じ村にある楠木氏の城にかかわる名です。「楠木城」は上赤阪の尾根の城の古い呼び名で、本記事の対象であり、楠木氏の本城にあたります。下赤坂城はそれとは別の、より低い場所にある城です。国の史跡の名称は、二つの赤坂の城を区別するため、両方を併せて「楠木城跡(上赤阪城跡)」と表記しています。

基本データ

名称楠木城跡(上赤阪城跡)/くすのきじょうあと(かみあかさかじょうあと)
所在地大阪府南河内郡千早赤阪村大字桐山
指定区分国指定史跡
指定年月日昭和9年(1934年)3月13日
管理団体千早赤阪村
時代鎌倉時代末期〜南北朝時代(14世紀)、戦国期に改修
別名楠木城、小根田城、桐山城
アクセス登り口の駐車場所から頂上まで徒歩約20分(山道)
入場見学自由(無料)
備考建造物は現存せず、土の遺構が残る

参考文献

文化遺産オンライン「楠木城跡(上赤阪城跡)」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216909
文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1779
千早赤阪村「歴史を巡る」
https://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/kanko/rekishi/index.html
ちあかポータル「上赤坂城址」
https://chiaka-portal.com/History/Remains/Kamiakasaka/kamiakasaka.htm
ウィキペディア「上赤坂城の戦い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/上赤坂城の戦い

最終更新日: 2026.05.26