説文木部残巻とは

説文木部残巻(せつもんもくぶざんかん)は、後漢の許慎(きょしん)が著した中国最古の部首別字書『説文解字』のうち、木部の一部を書写した唐時代の写本である。書写年代は9世紀前半と考えられている。大阪市中央区道修町の公益財団法人武田科学振興財団が所蔵し、昭和26年(1951年)6月9日、文化財保護法による第1回の国宝指定で国宝(書跡・典籍)に指定された。員数は1巻。

『説文解字』は永元12年(100年)頃に成立し、9,353字を540の部首に分類して、各字の成り立ちと本義を象形・指事・会意・形声・転注・仮借のいわゆる六書の原理によって解説した。漢字研究の出発点に位置づけられる書物だが、許慎の原本は早くに失われた。現在広く読まれている本文は、10世紀に北宋の徐鉉・南唐の徐鍇の兄弟がそれぞれ校訂したテキストの系統に属する。

この残巻は、その徐氏兄弟による校訂以前の本文を留める、まとまった分量を持つほとんど唯一の伝本である。字書としての『説文解字』が唐代にどのような姿で読まれていたかを直接知ることのできる資料として、中国本土を含めても代わりのきかない存在といえる。

巻物の中身を読む

『説文解字』は部首ごとに章を立てる。本巻が収めるのは「木」部、すなわち木偏をはじめ樹木に関わる文字を集めた部分である。木部全421字のうち188字を、93行にわたって書写する。紙面には墨の界線(罫線)が引かれ、各行は上下二段に分けられている。

上段には見出し字が小篆で記される。小篆は秦代に整えられた書体で、『説文解字』はこの字体の構造を解説するために編まれた。本巻の小篆は、筆画の末端が針のように鋭く垂れる懸針体(けんしんたい)と呼ばれる書きぶりを示し、字書の見出しでありながら一字一字が鑑賞に堪える造形を備える。下段には唐代の楷書で、字義、字形の分析、字音の解説が続く。

見出し字を掲げ、その下に説明を置く。この紙面構成は、現代の漢和辞典と本質的に同じ仕組みである。およそ1200年前の写本に、いま私たちが使う字書の原型がすでに完成していたことを、実物は静かに示している。

本文の校勘上の価値も大きい。現行の徐氏校訂本と字句が異なる箇所は、唐代における『説文解字』の本文の実態を知る手がかりとなり、説文学の研究において第一級の証拠として扱われてきた。

清末の発見と真贋論争

この巻が学界に知られたのは清朝末期である。貴州出身の学者で蔵書家の莫友芝(ばくゆうし、1811〜1871年)が本巻を入手し、1864年(同治3年)に校勘研究『唐写本説文解字木部箋異』を木版で刊行して、その本文を世に紹介した。

ところが、刊本だけを見た学者たちの間から偽作説が起こる。孫詒讓らは実物にも写真にも接しないまま本巻を疑い、以後この真贋問題は20世紀後半に至るまで中国の学術誌上で繰り返し論じられた。一方、楊守敬、日本の内藤湖南、言語学者の周祖謨らは真作と認め、近年の研究もおおむね唐代写本としての真正性を支持している。当初の懐疑論が現物を見ずに立てられた点は、書誌学の方法を考えるうえで示唆に富む挿話である。

巻はのちに日本へ渡り、大阪の武田家が築いた蔵書に加わって、現在の武田科学振興財団の所蔵となった。

国宝指定の意味

日本の国宝には、日本で制作された作品だけでなく、日本に伝来した中国の書跡・典籍も含まれる。大陸では失われた古写本や宋版の善本が日本の文庫に残った例は少なくなく、本巻はその代表格にあたる。昭和26年の第1回国宝指定という事実は、文化財保護制度の出発点において、本巻の価値が疑いなく認められていたことを示す。

評価の核心は三つに整理できる。第一に古さ。9世紀の書写になる世俗の典籍がまとまって残ること自体が稀である。第二に本文の価値。徐氏校訂以前の『説文解字』を伝える主要な証拠として、漢字学の根本資料となっている。第三にモノとしての質。界線を施した整然たる紙面、規律ある小篆、懸針の筆致は、唐代の書写文化の水準を具体的に示す。

所蔵館・杏雨書屋を訪ねる

本巻を所蔵する杏雨書屋(きょううしょおく)は、道修町2丁目の武田科学振興財団ビル内にある図書資料館である。「杏雨」は杏林(医学の雅称)を潤す雨を意味する。五代武田長兵衞が、大正12年(1923年)の関東大震災で東京の貴重書が多数焼失したことを憂い、本草書・医書を中心に私財で収集を始めたのが文庫の起こりで、昭和52年(1977年)に財団へ寄付され、翌53年に図書資料館として開館した。

開館は平日の午前10時から午後4時まで。土日祝日、年末年始のほか、月2回の資料整理休館日(金曜日)がある。常設展示室では本草・医薬関係の収蔵品を紹介し、春と秋には特別展示会が開かれる。説文木部残巻は常時公開されておらず、展示の機会は限られる。2023年秋の特別展示会「杏雨書屋の善本漢籍」ではほぼ全巻が披露されたほか、2019年の東京国立博物館「顔真卿」展、2025年の大阪市立美術館「日本国宝展」にも出品された。本巻を目当てに訪ねる場合は、財団ウェブサイトの展示情報で出品の有無を必ず確認したい。

周辺情報 くすりの町・道修町

道修町(どしょうまち)は江戸時代に薬種商が集まり、幕府公認の株仲間が全国の薬の流通を担った町である。武田薬品工業をはじめ、塩野義製薬、田辺三菱製薬など、この町から育った製薬企業は多く、いまもオフィスが連なる。漢籍の字書を製薬企業の財団が守り伝えるという取り合わせは、薬学が中国の本草書の読解から出発したこの町の歴史と地続きにある。

徒歩圏には、日本の薬祖神・少彦名命と中国の神農を併せ祀る少彦名神社(神農さん)がある。文政5年(1822年)のコレラ流行時に薬とともに授与された張子の虎は、いまも11月の神農祭の縁起物として知られる。境内のくすりの道修町資料館(入館無料)では、江戸期の取引文書や薬箱を通じて約400年の町の歩みを学べる。沿道の製薬各社が史料館を公開する「道修町ミュージアムストリート」の散策もよい。

最寄りは地下鉄堺筋線・京阪線の北浜駅、または堺筋本町駅。北浜のレトロビル群や中之島の文化施設、東へ歩けば大坂城方面へも続く、大阪の歴史を歩いて感じられる一角である。

Q&A

Q説文木部残巻はいつでも見学できますか。
A常設展示はされていません。杏雨書屋の特別展示会や、他館への出品の機会に限って公開されます。武田科学振興財団のウェブサイトで展示内容を事前に確認してください。
Q『説文解字』とはどのような書物ですか。
A後漢の許慎が100年頃に完成させた中国最古の部首別字書です。9,353字を540部首に分類し、六書の原理で字形と本義を解説しました。漢字研究の基礎文献として現在も参照され続けています。
Q中国の写本がなぜ日本の国宝なのですか。
A国宝の指定対象は日本国内にある文化財であり、制作地は問われません。中国では失われた古写本や善本が日本に残った例は多く、本巻は昭和26年の第1回指定で国宝となった代表的な漢籍です。
Q杏雨書屋の開館日と利用方法を教えてください。
A平日の午前10時から午後4時まで開館し、土日祝日・年末年始・月2回の資料整理日(金曜)は休館です。展示室は開館時間内に見学でき、貴重資料の閲覧には所定の手続きが必要です。
Q真贋論争は決着したのですか。
A清末に実物を見ないまま唱えられた偽作説は20世紀にも再燃しましたが、楊守敬や内藤湖南、周祖謨らが真作と認め、近年の研究もおおむね唐代写本としての真正性を支持しています。

基本情報

名称説文木部残巻(説文解字木部残巻)
指定区分国宝(書跡・典籍) 昭和26年(1951年)6月9日指定
員数1巻
時代・制作地中国・唐時代(9世紀前半の書写とされる)
内容『説文解字』木部421字のうち188字を93行に収める。上段に小篆の見出し字、下段に解説
所有者公益財団法人武田科学振興財団(杏雨書屋)
所在地大阪市中央区道修町2-3-6
公開状況常設公開なし。特別展示会等で不定期に公開。杏雨書屋は平日10時〜16時開館
アクセスOsaka Metro堺筋線・京阪本線「北浜」駅、堺筋線「堺筋本町」駅から徒歩数分

参考文献

国指定文化財等データベース 説文木部残巻
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/592
文化遺産オンライン 説文木部残巻
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125987
杏雨書屋(武田科学振興財団)
https://www.takeda-sci.or.jp/kyou/
杏雨書屋 主な収蔵品
https://www.takeda-sci.or.jp/kyou/kyou-collection.php
WANDER国宝 説文木部残巻
https://wanderkokuho.com/201-00592/

最終更新日: 2026.06.11