八木家住宅土蔵(河内長野市三日市町) ― 街道に妻を向ける白と黒
三日市の高野街道に並ぶ建物は、そのほとんどが長辺を通りに向けている。八木家の土蔵はそれをしない。主屋のすぐ北に建ち、街道へ妻を見せる。白漆喰の三角形が立ち上がり、各階に窓が一つずつ、そのそれぞれに銅板の扉が吊られている。
建築面積23平方メートル、2階建。文化庁が登録有形文化財としたのは平成20年(2008年)10月23日、告示は同年11月10日。登録番号27-0520で、主屋と同時の登録である。
名称について先に断っておく。日本には無関係の「八木家住宅」が他に二つある。新選組ゆかりの京都市壬生の八木邸と、藤井厚二の設計で昭和5年(1930年)に建てられた寝屋川市香里園の住宅である。別の家、別の建物で、この土蔵とは関係がない。
家と宿場
三日市の八木家は木綿問屋を営んだのち酒屋となり、「東家屋(とうげや)」の屋号で商いをした。主屋は河内長野市の見立てで18世紀後半の建築とされ、この街路に残る建物としては最も古い。
その街路が高野街道である。高野山へ南下する街道は三筋あり、いずれも現在の河内長野市内で合流して一本になり、山を越えて和歌山へ向かう。三日市は大阪と高野山のおよそ中間にあたり、そこに宿場が形成された。参詣者のための旅籠が並び、大名や旗本の宿である本陣は油屋が務めた。往来は高野山だけでなく、観心寺・金剛寺への参詣者も含む。
土蔵はその歴史の後半に属する。文化庁のデータベースは江戸末期、1830年から1867年の間とする。河内長野市はより慎重で、建築年代は不明としたうえで、構造などから主屋より新しく19世紀後半と推定する。両者は重なりつつ完全には一致しない。誠実にまとめるなら、主屋より後の建築で、おそらく19世紀のもの、ということになる。
街路を構成するものとして登録された
登録有形文化財は、日本の保護制度のうち軽いほうの仕組みである。国宝・重要文化財の指定は古く厳しく、対象は限られ、現状変更にも制約が課される。登録は平成8年(1996年)の文化財保護法改正で導入され、変更は許可ではなく届出でよい。使い続けることが前提の制度で、記録される前に消えていく住宅や商家に手を届かせるために作られた。
主屋は基準(二)「造形の規範となっているもの」で評価された。この土蔵は基準(一)「国土の歴史的景観に寄与しているもの」であり、文化庁の解説文もその点で結ばれている。主屋とともに旧宿場町の街路景観を形成する、と。
この一文が、見方の枠組みを与えてくれる。土蔵は本来、実用の容れ物である。しかもこれは小さい。にもかかわらず果たしている仕事は、八木家の敷地の北端を押さえ、低い瓦屋根が続くばかりになりかねない通りに、白い垂直の塊を置くことだ。これを失っても主屋は18世紀の見事な町家のままだが、街路のほうは目に見えて痩せる。
なお記録の食い違いを一点記しておく。文化庁のデータベースは「土蔵造2階建」とし、河内長野市の資料は「木造2階建て」とする。土蔵は木の軸組を土と漆喰で厚く包む構法であるから両者は実質的に矛盾しないが、二つの資料を突き合わせる読者のために記載の違いを明示しておきたい。
何を見るか
この土蔵は個人の所有で、内部は公開されていない。ただし街道から読まれることを前提に造られており、その仕事のほとんどを妻面が担っている。
まず屋根。葺き方は本瓦葺である。平瓦を並べ、その継ぎ目に丸瓦をかぶせる古い形式で、隣の主屋の主屋根に用いられた桟瓦より重く、費用もかかる。土蔵にこれを使うのは、長く保たせる建物であり、かつ見られる建物だという意思表示になる。
次に壁面。上下二段に分かれている。上部は白漆喰で、土の下地の上に滑らかに仕上げられている。下部の腰には杉の焼板が張られる。杉の表面を焼くのは日本の古い防腐法で、炭化した層が腐朽と虫害を防ぎ、薬剤を使わずに済む。仕上がりは深い艶消しの黒になる。上が白、下が黒、その境が水平の硬い線を引く。この対比が建物の構成のすべてで、街道を百メートル手前から歩いてきても読み取れる。
そして開口部。各階に一つずつ、いずれも通りに面した妻に開き、それぞれ銅板の扉が吊られている。下階の窓には漆喰仕上げの庇が短く突き出し、雨水を敷居から逃がす。土蔵は普通、窓について寡黙な建物である。それを二つ、公道に向いた面に開き、しかも銅で装うというのは、換気と同じくらい見え方についての判断だろう。
最後に、二棟を並べて見比べたい。主屋は街道に沿って長く低く延び、その脇から入る。土蔵は九十度向きを変えて立ち上がる。一方は水平、他方は垂直。一方は灰色の瓦と木の格子、他方は白い漆喰と黒い板。この組み合わせが、評価文のいう「旧宿場町の街路景観」の中身である。
見に行くには
土蔵は非公開で、見学施設もない。高野街道を歩きながら眺めることになる。
南海高野線の三日市町駅を起点に、旧街道を北へ、一駅先の河内長野駅方面へたどるとよい。近くには真教寺、月輪寺、本陣を務めた油屋の跡があり、高野山まで八里を示す里程石も街道沿いに立つ。旧三日市交番は昭和27年(1952年)の建築で、大阪府内に残る木造駐在所としては最も古いとされ、平成22年(2010年)10月に市指定文化財となった。土曜・日曜・祝日の10時から16時、入館無料と案内されており、この通りで実際に中へ入れる数少ない建物である。
河内長野の文化遺産は令和2年(2020年)6月、日本遺産「中世に出逢えるまち」として認定された。高野街道と観心寺・金剛寺を軸にした物語である。河内長野駅の観光案内所ではレンタサイクルと街道マップが用意されている。
開館日や料金は公開されている地域の情報によるもので、変更されている可能性がある。訪問前に確認してほしい。そして、これらの建物には所有者の生活があることを忘れずに。
Q&A
- 焼杉の板は何のために張るのですか。
- 杉板の表面を焼くと炭化層ができ、腐朽や虫害、風雨に強くなります。薬剤を使わない古くからの手法で、跳ね返る雨がいちばん当たる壁の下部に用いられてきました。仕上がりは艶消しの黒で、経年に応じて張り替えが必要になります。
- 主屋は平入なのに、土蔵はなぜ妻を通りに向けるのですか。
- 町家は商いのために広い正面を街路に取りたいので、長辺から出入りします。土蔵に店先は要らず、主屋の脇や背後に残る細長い土地に建つのが普通です。その敷地を効率よく使えば妻が通りを向くことになり、結果として背の高い引き締まった顔が街路に立ちます。
- 正確な建築年代は分かっているのですか。
- 記録上の確定年代はありません。文化庁のデータベースは江戸末期、1830年から1867年としています。河内長野市は年代不明としたうえで、造りから19世紀後半と推定しています。いずれも主屋より新しいという点では一致しています。
- 内部は見られますか。
- 見られません。個人の所有で、一般公開はされていません。街道からの外観見学にとどめ、居住者の生活への配慮をお願いします。
- 藤井厚二設計の八木家住宅と関係がありますか。
- ありません。あちらは寝屋川市香里園に昭和5年(1930年)に竣工した住宅で、別の八木家のものです。京都市壬生の八木邸(新選組ゆかり)を含め、三者は名字が同じというだけの別物です。
基本データ
| 名称 | 八木家住宅土蔵(やぎけじゅうたくどぞう) |
|---|---|
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物)/登録番号 27-0520 |
| 登録年月日 | 平成20年(2008年)10月23日/告示 同年11月10日/第61回登録 |
| 登録基準 | 基準(一)国土の歴史的景観に寄与しているもの |
| 員数 | 1棟 |
| 年代 | 江戸末期。国データベースは1830-1867年。河内長野市は年代不明とし、19世紀後半と推定 |
| 構造及び形式 | 国データベース:土蔵造2階建、瓦葺、建築面積23平方メートル。市資料:木造2階建て、桁行6メートル・梁行4メートル |
| 形式 | 切妻造本瓦葺。通りに妻を見せる |
| 外壁 | 白漆喰仕上げ、腰に杉の焼板張り |
| 開口部 | 通り側の妻に各階1箇所ずつ窓、銅板の扉を吊る。下階の窓に漆喰仕上げの庇 |
| 位置 | 主屋の北側 |
| 家業 | 木綿問屋、のち酒屋。屋号「東家屋(とうげや)」 |
| 種別 | 産業3次/建築物 |
| 所有者 | 個人 |
| 所在地 | 大阪府河内長野市三日市町1109 |
| アクセス | 南海高野線 三日市町駅。旧三日市宿の高野街道沿い |
| 公開状況 | 個人所有につき非公開。街道からの外観見学のみ |
| 同時登録 | 主屋(27-0519) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)八木家住宅土蔵
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00007399
- 国指定文化財等データベース(文化庁)八木家住宅主屋
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00007398
- 河内長野市 国登録文化財 八木家住宅主屋(土蔵の記載を含む)
- https://www.city.kawachinagano.lg.jp/site/history/5630.html
- 河内長野観光ナビ 三日市宿跡
- https://kankou-kawachinagano.jp/spot/1661
- 日本遺産 中世に出逢えるまち 河内長野
- https://nihon-isan.kankou-kawachinagano.jp/
最終更新日: 2026.07.22