琵琶湖南岸の丘陵に眠る前方後円墳 ― 茶臼山古墳・小茶臼山古墳

大津市膳所、琵琶湖の南岸に張り出した低い丘陵の上に、全長およそ122メートルの墳丘が横たわっている。茶臼山古墳である。築かれたのは今から約1600年前、この地を治めた有力者のために盛り上げられた墓だ。丸い後円部に台形の前方部が接続する墳形は、古墳時代を代表する前方後円墳の典型で、前方部は東、湖が広がる方角を向いている。

国の史跡として保護されているのは、実は二つの墳丘である。大きな前方後円墳の南、わずかな距離を隔てた場所に、円墳の小茶臼山古墳がある。両者は一体のものとして、1921年(大正10年)に国の史跡に指定された。墳丘を含む一帯は現在、茶臼山公園として整備され、地元の人々にとっては身近な散策の場になっている。

規模を具体的に見ておきたい。後円部は直径約70メートル、高さ約8メートル。前方部は長さ約60メートル、幅約58メートル。金属の道具も車輪付きの運搬具も持たなかった時代に、これだけの土量を動かして一つの墳丘を造り上げたことになる。墳丘を端から端まで歩けば、その労力の大きさが足の裏から伝わってくる。

誰が葬られたのか

古墳時代という時代区分は、各地に築かれたこうした墳墓に由来する。三世紀から七世紀ごろにかけて、首長やその一族のために列島各地で古墳が営まれた。茶臼山古墳が築造されたのは、四世紀末から五世紀初頭と推定されている。当時の琵琶湖南岸は、人とものが行き交う交通の要所であり、ここに葬られた首長は、土地と労働力、そしてそれを結ぶ道を握る存在であったと考えられる。

被葬者が誰であるかは、いまも分かっていない。埋葬施設そのものが確認されておらず、発掘が答えを出す段階には至っていない。地元には古くから二つの言い伝えがある。一つは、王統につらなる伝説上の人物、彦坐王とする説。もう一つは、後に弘文天皇とされた大友皇子の一族とする説である。

後者の伝承には、はっきりとした物語がある。672年、皇位継承をめぐる壬申の乱に敗れた近江朝廷側で、大友皇子は二十五歳の若さで自ら命を絶ったと伝わる。後円部の頂には五基の小さな塚が残り、これを大友皇子にまつわる「葬り塚」と呼んできた。ただし、この結びつきは史実というより伝承として受け止めるのが妥当だろう。古墳の築造は壬申の乱より二世紀半ほどさかのぼり、後世になって、すでに古かった墳丘にこの物語が重ねられたと考えられる。

史跡に指定された理由

茶臼山古墳が国の史跡に指定されたのは、1921年(大正10年)3月3日のこと。一世紀以上前にさかのぼる。指定基準は「貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡」である。指定の背景には、まずその規模がある。全長約122メートルという大きさは、滋賀県内の前方後円墳のなかで、近江八幡市の安土瓢箪山古墳(約134メートル)、彦根市の荒神山古墳(約124メートル)に次ぐ第三位にあたる。

もっとも、墳丘の学術的な価値は大きさだけにあるのではない。茶臼山古墳の墳形は、大和の中枢に営まれた名墳の一つ、奈良市の佐紀陵山古墳とよく似た相似形をなしている。この同じ規格を持つ古墳は中央日本の各地に分布し、畿内をぐるりと取り囲むように位置している。多くの研究者は、この分布を、これらの古墳が築かれた時期に大和を中心とする政治的な秩序が周辺地域へ及んでいたことの証と読む。茶臼山古墳は、その見方に立てば、琵琶湖南岸の地域社会がより広い秩序のなかに組み込まれた地点を示しており、首長は共有された墳形を借りることで自らの地位を表したことになる。

訪れたら注目したいところ

墳丘へは秋葉神社のあたりから道が登っている。この道をたどると、古墳がどのように造られたのかが読み取れる。築造者は墳丘の表面を段状に整え、葺石と呼ばれる小石を全面に貼って仕上げた。各段には埴輪の列が並んでいた。埴輪は素焼きの土製品で、ここでは円筒形のものが列をなし、頂部の付近には形象埴輪が据えられていたという。発掘調査では、その両方の存在が確認されている。長い年月のあいだに、こうした要素の多くは草と土の下に埋もれた。訪れる人の目に映るのは緑の斜面であって、石を貼ったピラミッドではない。それでも、何が下に眠っているかを知ると、墳丘の見え方は変わってくる。

後円部の頂には、大友皇子の伝承と結びつけられてきた五基の小さな塚があり、風化した石がそれを示している。少し下った、円形部と方形部がくびれる付近には、火除けの神を祀る秋葉神社が鎮座している。神社は古墳に後から加わったもので、その静かなたたずまいもまた、この場所が幾世紀にもわたってどのように使われ、守られてきたかを物語る一面である。

南に寄り添う小茶臼山古墳は、直径およそ18メートルの円墳である。発掘調査が行われていないため、築造年代も内容も確かめられていない。大きな古墳のすぐそばという位置関係から、茶臼山古墳の首長に近しい人物を葬った陪塚ではないかという説がある。二つの墳丘のあいだに立つと、ここが単独の墓ではなく、小さな古代の墓域であったことが見えてくる。

訪問の手がかり

古墳は茶臼山公園のなかにあり、入園料はなく、開園・閉園の時刻も定められていない。敷地内に資料館や案内施設はなく、体験としては、史跡を見学するというより、樹木に囲まれた地元の公園を歩く感覚に近い。墳丘のそばには説明板が立ち、その場で歴史をたどりたい人の手がかりになる。

最寄り駅は京阪石山坂本線の膳所本町駅で、公園までは徒歩で15分ほど。途中で線路を越え、丘陵へ向かって緩やかに登っていく。墳丘の道は舗装されておらず、場所によって起伏があるので、歩きやすい靴をおすすめしたい。早朝は光がやわらかく、散歩やジョギングをする近隣の人が中心の時間帯で、訪れるには心地よい。

周辺の見どころ

膳所の界隈は、足をのばす値打ちがある。湖の方へ少し進むと、関ヶ原の戦いののちに築かれた湖畔の城跡、膳所城跡公園がある。膳所城は湖水そのものを防御に取り込んだ水城で、天守はすでに失われているものの、城跡は四月初めの桜の名所として親しまれている。城門のいくつかは近隣の神社に移築されて現存し、重要文化財に指定されている。

琵琶湖の湖岸はすぐ近くで、水辺に沿った道からは、長い橋梁である近江大橋を望むことができる。古代の墳丘、近世の城跡、そして湖そのものを組み合わせれば、一千五百年を超えるこの地域の歴史を、ひと続きの午後のなかで横断することになる。

Q&A

Q墳丘の上まで登れますか。
A登れます。秋葉神社のあたりから墳丘へ道が続いており、後円部の頂まで行くことができます。埋葬施設は確認されていないため内部に入ることはできませんが、墳丘の上は歩いて見学できます。
Q公共交通機関での行き方を教えてください。
A最寄り駅は京阪石山坂本線の膳所本町駅です。公園までは徒歩でおよそ15分。途中で線路を越え、古墳のある丘陵へ向かって緩やかに登っていきます。
Q入場料や開園時間はありますか。
Aありません。古墳は茶臼山公園という公共の緑地のなかにあり、入園は無料で、開園・閉園の時刻も定められていません。券売所や資料館、係員のいる施設は敷地内にありません。
Q前方後円墳という形にはどんな意味がありますか。
A丸い後円部に台形の前方部が接続する前方後円墳は、古墳時代における格式の高い墳形でした。この墳丘の規格は奈良の有力な古墳と一致しており、大和の中枢から周辺へ及んだ政治的な秩序の広がりと結びつけて理解されています。
Q埴輪や出土品を現地で見られますか。
A墳丘そのものでは見られません。調査では円筒埴輪と形象埴輪の存在が確認されていますが、現地での展示はなく、敷地内に展示施設もありません。墳丘は現在、草に覆われた斜面として残っています。

基本情報

名称茶臼山古墳・小茶臼山古墳
所在地滋賀県大津市膳所平尾町・秋葉台・膳所雲雀丘町
指定区分国指定史跡(1921年〔大正10年〕3月3日指定)
種別茶臼山古墳:前方後円墳/小茶臼山古墳:円墳
築造年代4世紀末〜5世紀初頭(古墳時代)
規模茶臼山古墳:墳丘長 約122メートル、後円部 直径約70メートル・高さ約8メートル、前方部 長さ約60メートル・幅約58メートル/小茶臼山古墳:直径 約18メートル
アクセス京阪石山坂本線 膳所本町駅から徒歩約15分
公開状況茶臼山公園内、入園無料・常時開放

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1553
茶臼山古墳 (大津市) ― ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/茶臼山古墳_(大津市)
茶臼山古墳 ― 滋賀県観光情報(公式観光サイト)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/973/
佐紀陵山古墳 ― ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐紀陵山古墳

最終更新日: 2026.05.23