鐘身の内側に刻まれた逆さ文字
佐川美術館が収める一口の梵鐘は、その内壁に三行二十四文字の銘を負っている。文字は左右が反転した左文字で鋳出されており、鏡に映してはじめて正しく読める。読み下せば「比睿山延暦寺西寳幢院鳴鐘天安二年八月九日至心鋳甄」となり、天安二年すなわち八五八年、八月九日に鋳られたことが知れる。平安時代前期の年紀を自らの内に刻み込んだこの鐘は、長身で簡素な姿と、内面の端正な銘文によって、古くから工芸史の上で重んじられてきた。
梵鐘は寺院で時を告げ、法会の開始を知らせるための仏具である。撞木と呼ばれる横木を外から打ちつけて鳴らす構造で、内部に舌を持たない。この鐘が鋳られたのは、天台宗の本拠である比叡山の一堂のためであった。現在は琵琶湖の東岸、滋賀県守山市の佐川美術館にあり、京都からおよそ一時間の距離に置かれている。
比叡山西塔・宝幢院の鐘として
銘文にいう西寳幢院とは、延暦寺西塔にあった宝幢院を指す。古い記録によれば、宝幢院は文徳天皇の御願を受けて慧亮和尚が建立したものとされ、その造営は嘉祥から天安にかけての年間に及んだという。当の宝幢院は早くに廃絶しており、その堂宇は今に残らない。鐘はその失われた一院の数少ない遺品として、銘文とともに伝来した。
比叡山を離れた鐘がいかなる経緯で個人の蒐集に帰したかは、現在の解説資料には記されていない。確かなのは現在の所在である。守山市水保町の佐川美術館がこれを収蔵し、所有はSGホールディングス株式会社が担う。近代日本画や彫刻、茶陶を中心とするこの館の所蔵品のなかで、国宝に指定されているのはこの梵鐘のみであり、滋賀県内に所在する国宝梵鐘もこの一口に限られる。
紀年銘梵鐘として六番目の古さ
自らの銘文に制作年を刻む梵鐘は、日本にそれほど多くは残らない。古い順に並べれば、文武天皇二年(六九八)の京都・妙心寺鐘を筆頭に、神亀四年(七二七)の奈良・興福寺鐘、神護景雲四年(七七〇)の福井・劔神社鐘、宝亀五年(七七四)の千葉・成田出土鐘と続く。この佐川美術館の鐘は、その系列の六番目に位置づけられる。制作年を推測ではなく文字から読み取れる鐘として、八五八年という年紀は国内有数の古さである。
明治三十九年(一九〇六)に最初の国の指定を受け、昭和二十八年(一九五三)、戦後の文化財保護法のもとで国宝に指定された。評価の根拠は歴史と造形の双方にある。内面に左文字で記された銘は、書としての品位そのものが賞される対象であり、鋳造当時すでに一世紀半を数えていた梵鐘鋳造の伝統を体現する形姿も高く評価される。鐘身に並ぶ乳は、神亀四年の興福寺鐘と同形のものであり、四代にわたる鋳工の系譜を静かに結ぶ手がかりとなっている。
鐘の見どころ
正面に立つと、まず目につくのは均衡の取り方である。口径に比して丈が著しく高く、肩から下はほとんど直線を描いて下りる。総高は約百十五センチに達するのに対し、口径は五十五センチほどにとどまる。後世の丸みを帯びた梵鐘とは異なり、背の高い壺を思わせる、引き締まった姿である。
細部もまた見るに値する。鐘を吊るための竜頭は簡潔な造りで、笠形には通例の圏線がなく、中央をわずかに盛り上げるにとどまる。胴をめぐる上下の帯は文様を欠いた無文である。撞木を当てる撞座は素朴な八弁の蓮華で、鐘身のやや低い位置に据えられており、その配置がこの鐘の古い時代を指し示している。
名高い銘文は鐘の内側に鋳出されているため、原品では直接目にすることができない。美術館は精巧なレプリカを製作しており、反転した文字を表に起こして示している。原品の暗い内部をのぞき込むことなく、九世紀の書き手による整った洗練の筆致を確かめられる。
美術館とその周辺
佐川美術館は、それ自体が足を運ぶに値する場所である。佐川急便の創業四十周年を記念して一九九八年に開館し、低く構えた切妻屋根の建物が広い水庭のなかに置かれ、水面に浮かぶように見える。常設展示の中心は日本画の平山郁夫、彫刻の佐藤忠良、そして樂焼の樂直入の作品であり、梵鐘は折に触れて公開される。
訪問にあたって一点。佐川美術館は二〇二五年九月末から約九か月の改修工事のため休館に入っており、二〇二六年七月の再開館を予定している。来館前に最新の状況を確認されたい。再開の後は、周辺をあわせて巡るとよい。この鐘が生まれた世界遺産・比叡山延暦寺は湖の対岸にそびえ、ケーブルカーで登れる。琵琶湖南端に近い三井寺(園城寺)には、近江八景の一つ「三井の晩鐘」として知られる鐘や、武蔵坊弁慶にまつわる伝承を持つ鐘が伝わる。
Q&A
- 有名な銘文を実際に見ることはできますか。
- 原品の銘は鐘の内壁に鋳出されているため、直接目にすることはできません。美術館が精巧なレプリカを用意しており、反転した文字をはっきり読める形で展示しています。
- いま美術館は開いていますか。
- 佐川美術館は二〇二五年九月末から改修のため休館しており、二〇二六年七月の再開館を予定しています。再開日は変更される場合があるため、来館前に美術館の公式サイトでご確認ください。
- なぜ寺院ではなく企業の美術館にあるのですか。
- もとは比叡山の現存しない一堂のために鋳られた鐘で、長い年月のうちに山を離れました。現在はSGホールディングスが所有し、佐川美術館で管理されています。同館で国宝はこの鐘のみです。
- 日本のなかでどのくらい古い鐘ですか。
- 八五八年の鋳造で、銘文に制作年を持つ梵鐘としては国内で六番目に古い一口です。妙心寺、興福寺、劔神社、成田出土の各鐘がこれに先立ちます。
- 京都からの行き方を教えてください。
- JR湖西線で堅田駅まで行き、そこからバスで約十五分の「佐川美術館」停留所が最寄りです。JR琵琶湖線の守山駅からはバスで約三十五分です。
基本情報
| 名称 | 梵鐘(ぼんしょう) |
|---|---|
| 指定 | 国宝(昭和二十八年〔一九五三〕十一月十四日指定/明治三十九年〔一九〇六〕四月十四日に旧重要文化財として指定) |
| 区分 | 工芸品(金工) |
| 時代 | 平安時代・天安二年(八五八) |
| 員数 | 一口 |
| 寸法 | 総高一一五・七センチ、口径五五・三センチ、肩以下高九七・〇センチ、撞座径九・七センチ、口厚四・七センチ |
| 銘文 | 鐘身内面に左文字で三行二十四文字。延暦寺西寳幢院の名と鋳造年月日を記す |
| 所有者 | SGホールディングス株式会社 |
| 所在地 | 佐川美術館 〒524-0102 滋賀県守山市水保町北川2891 |
| 交通 | JR湖西線「堅田」駅よりバス約十五分/JR琵琶湖線「守山」駅よりバス約三十五分、「佐川美術館」下車 |
| 公開について | 佐川美術館は二〇二六年六月末まで改修のため休館中、同年七月の再開館を予定。内面の銘文はレプリカにより公開 |
参考文献
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構) 梵鐘 詳細ページ
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188956
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/421
- 佐川美術館 国宝・梵鐘の公開に関する企画展ページ
- https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/2025/07/post-174.html
- 佐川美術館 長期休館のお知らせ
- https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/news/2025/04/92920266.html
最終更新日: 2026.06.11