本堂の畳の上に星条旗が翻った日

下田港を見下ろす柿崎の小高い丘に、曹洞宗の古刹・玉泉寺が立つ。安政三年(1856)八月、米国総領事タウンゼンド・ハリスはこの寺の本堂に居を構えた。書斎、寝室、執務室、そして来客の応接間――それらすべてが間口七間・奥行六間の本堂の中にあった。境内には星条旗が掲揚され、爾来二年十ヶ月、玉泉寺の本堂は日本で唯一の米国総領事館として機能した。

玉泉寺は昭和二十六年(1951)六月九日、幕末外交史上重要な遺跡として国の史跡に指定された。本堂内部の部屋割り、境内裏手に残る外国人墓地、山門周辺の石碑群。開国期の貴重な痕跡が、現在もそのまま残されている。

真言宗の草庵から曹洞宗の寺院へ

玉泉寺の創建年は不詳である。寺伝によれば、もとは真言宗の草庵であったものを、天正年間(1573〜1592年)に来錫した一嶺俊栄和尚が曹洞宗に改宗したという。瑞龍山という山号、本尊釈迦如来、いずれもこの改宗以降のものである。以来四百四十年余、玉泉寺は曹洞宗寺院として柿崎の地に営まれてきた。

現在の本堂は嘉永元年(1848)に建てられた。ペリー来航の六年前、まだ下田が一漁港にすぎなかった頃の建築である。間口七間、奥行六間、屋根は寄棟造。江戸後期の地方寺院本堂として標準的な規模と形式を備える。内部は襖で区切られた複数の部屋からなり、この部屋割りが後に総領事館として機能する素地となった。ハリスの寝室、居間、執務室、そして通辯官ヒュースケンが用いた次の間と事務室は、いずれも当時の位置がそのまま現存している。

嘉永七年・下田追加条約と外国人墓地の誕生

嘉永七年(1854)三月、横浜村でペリーと幕府の間に日米和親条約が締結された。約二百年続いた厳格な海禁政策の終わりであり、箱館と下田の二港が米国船に開かれた。同年五月には付録十三ヶ条として下田追加条約が結ばれ、玉泉寺は了仙寺とともに、米国人の休息所および埋葬所として正式に指定された。

同じ年、ペリー艦隊の水兵五名が境内に葬られた。日本の地に公的に許された最初の外国人埋葬である。安政の東海地震(嘉永七年十一月)で伊豆沖に沈んだロシア軍艦ディアナ号の乗員三名と、コルベット艦アスコルド号の乗員一名がのちに同じ墓地に加わった。合わせて九基の墓は、現存する日本最古の外国人墓地として知られる。

ロシア提督プチャーチンは安政二年(1855)二月に締結された日露和親条約の交渉に際し、玉泉寺を会談の場の一つとして用いた。日米・日露という開国期の二つの条約のいずれにも、この一寺が舞台として関わっている。

ハリス総領事の二年十ヶ月

米国東インド艦隊の蒸気フリゲート艦サン・ジャシント号が下田港に錨を下ろしたのは、安政三年(1856)八月二十一日(西暦)のことである。タウンゼンド・ハリスと通訳官ヒュースケンが乗船していた。幕府はハリスの来日を歓迎していなかった。下田の現地役人は数週間にわたり上陸を遅らせようとし、ハリスは粘り強い交渉の末にようやく玉泉寺に居を構えた。同年九月初め、境内に米国旗が掲揚された。日本の地に立てられた最初の領事館旗であった。

ハリスはこの本堂で二年十ヶ月を過ごした。傍には常時ヒュースケンと数名の使用人がいただけで、孤立した日々であったという。彼が書き残した克明な日記は、当時の幕末日本を知る一級の史料として残っている。安政五年(1858)に締結された日米修好通商条約、いわゆるハリス条約の起草もこの本堂で進められた。武力を背景にせず粘り強い外交によって条約を結んだハリスの姿勢は、東南アジア諸国が辿った植民地化の道を日本が避けえた一因として、後年高く評価されている。総領事館は安政六年(1859)五月、ハリスが江戸麻布の善福寺へ移ることをもって幕を閉じた。

境内には、領事館時代の食生活にまつわる二つの小さな碑がある。一つは屠牛木供養塔。ハリスの食卓のために牛が屠られたが、牛を食べる習慣をもたなかった当時の日本では前例のないことであり、屠られた牛を供養するために建てられた。もう一つは牛乳の碑。これも食用としての牛乳が珍しかった時代、ハリスの所望により近隣の牛から乳が集められた経緯を記す。いずれも本堂から数歩の距離にある。

ハリス記念館と境内の見どころ

本堂裏手に位置するハリス記念館は、ハリス愛用の遺品をはじめ、領事館時代の事象を記録した柿崎村名主・浜田与平治の日記、ヒュースケンに仕えたとされる斎藤きち(唐人お吉)関連の遺品、ディアナ号将校アレクサンドル・モジャイスキー撮影による日本最古の銀板写真などを所蔵する。吉田松陰の踏海事件に関する資料も並ぶ。幕末開国史の地方資料館としては第一級の内容である。

参道脇のハリス顕彰記念碑は、昭和二年(1927)に実業家・渋沢栄一によって建立された。境内には昭和五十四年(1979)六月二十七日に当地を訪れたジミー・カーター大統領の記念碑も立つ。現職米国大統領として初めての訪問であった。

玉泉寺を訪ねる

玉泉寺は伊豆急行線伊豆急下田駅から東へ約二キロメートル。徒歩なら柿崎地区の住宅街を抜けて約二十五分、ゆるやかに海岸へ下る道筋である。バスを利用する場合は、下田駅前から須崎または爪木崎行きに乗り、「柿崎神社前」で下車。停留所から徒歩二分で山門に着く。

境内は年中無休で公開されている。ハリス記念館の拝観料は大人五百円、小人二百円。開館時間は午前八時三十分から午後四時三十分。本堂内部のハリス居室見学、ハリス記念館、境内の碑群、裏手の外国人墓地まで巡って所要およそ九十分。下田にはもう一つの条約寺院である了仙寺が中心部に近い場所にあり、両寺を一日で巡るのが定番の見学経路となっている。

Q&A

Qなぜ米国総領事館が仏教寺院に置かれたのですか。
A嘉永七年(1854)の下田追加条約により、玉泉寺は米国人の休息所・埋葬所として既に指定されていたためです。安政三年(1856)に来日したハリスは、この既存の枠組みを利用する形で本堂に住み込み、領事館として活用しました。本堂が複数の部屋に区切られた構造であったことも、住居兼執務室として使われた理由の一つです。
Qハリスが実際に暮らした部屋は見学できますか。
A本堂は公開されており、ハリスの寝室、居間、執務室、通辯官ヒュースケンが使用した次の間と事務室は、いずれも当時の位置がそのまま残されています。室内には説明書きが配されており、誰がどの部屋を使ったかが分かるようになっています。
Q境内の外国人墓地は本当に日本最古ですか。
A公的に許可された外国人埋葬としては最古とされています。1854年の下田追加条約に基づいて埋葬されたペリー艦隊の水兵五名の墓が起点で、その後ディアナ号乗員三名とアスコルド号乗員一名が加わりました。九基の墓は墓地裏手の斜面に現存しています。
Q唐人お吉との関係はどう考えればよいですか。
A斎藤きち(後の唐人お吉)とハリスの関係については、明治以降の戯曲や小説で大きく脚色されました。現代の歴史研究では悲恋譚の多くは創作と考えられていますが、ハリス記念館にはお吉に関連する遺品も収蔵されており、史実と伝承の両面から触れることができます。
Q了仙寺とはどう違うのですか。
A了仙寺は下田追加条約そのものが調印された場所で、下田中心部に近い位置にあります。一方、玉泉寺は安政三年以降に総領事館として実際に使われた建物です。両寺はいずれも国指定史跡であり、徒歩三十分または車十分ほどの距離。半日かけて両寺を巡るのが下田の幕末史巡りの定番です。

基本情報

名称玉泉寺(ぎょくせんじ)、山号 瑞龍山
所在地静岡県下田市柿崎31-6(〒415-0013)
宗派曹洞宗
本尊釈迦如来
指定区分国指定史跡(昭和26年6月9日指定)
本堂嘉永元年(1848)再建、間口七間・奥行六間、寄棟造
歴史的意義日本最初の米国総領事館(安政3年〜安政6年、初代総領事タウンゼンド・ハリス)、日露和親条約交渉の場(嘉永7〜安政2年)
開館時間ハリス記念館 8:30〜16:30、年中無休
拝観料大人500円、小人(小中学生)200円
アクセス伊豆急下田駅から徒歩約25分/同駅から須崎・爪木崎行きバス「柿崎神社前」下車徒歩2分
駐車場あり(普通車約10台、大型バス2台)

参考文献

文化遺産オンライン「玉泉寺」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138454
国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1352
伊豆下田 瑞龍山・玉泉寺 公式サイト「縁起・歴史」
https://www.izu-gyokusenji.or.jp/history/
伊豆下田 瑞龍山・玉泉寺 公式サイト「ハリス記念館」
https://www.izu-gyokusenji.or.jp/museum/
静岡県公式ホームページ「玉泉寺 日本最初の総領事館」
https://www.pref.shizuoka.jp/kensei/information/myshizuoka/1002263/1040950/1011361.html
下田市公式ホームページ「玉泉寺」
https://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/100100midokoro/110756.html

最終更新日: 2026.05.27