承平十五年、四五七年の年記をもつ写経
一巻の紙片の末尾に、制作の年と願主を記した短い文がある。承平十五年、すなわち西暦四五七年、大涼王を称した沮渠安周(そきょあんしゅう)が供養したという奥書である。沮渠氏は河西回廊を追われたのち高昌(現在の新疆・トルファン付近)に拠った北涼の残存勢力で、安周はその末期の王にあたる。
本品は「仏説菩薩経」巻第一の残巻で、書道博物館(東京都台東区)が所蔵する。種別は書跡・典籍、員数は一巻。同館は左部分にあたるもう一片もあわせて伝える。年紀をもつ古写経として、国内に伝わる仏教写本のなかでも早い時期に位置づけられる遺品である。
文化庁のデータベースは時代を北魏とする。一方で奥書は高昌の北涼王権に結びつく。当時の華北を広く支配したのは北魏であり、写経そのものは北涼の沮渠氏のもとで写されたとみられるため、両者は矛盾しない。中央の王朝が倒れたのちも辺境の仏教王国で経典書写が続いた状況を、この一片はそのまま示している。
重要文化財としての価値
昭和十五年(一九四〇)五月三日に重要文化財に指定された。テキスト自体は後世の写本が多数伝わるが、本品の価値はむしろその書風にある。五世紀の写経は、隷書の波勢を残しながら楷書へと整いつつある過渡的な書体を示し、いわゆる六朝写経の様相を伝える。波磔の名残をとどめた点画が、すでに楷書の骨格へ移りつつある字形のなかに見てとれる。
こうした書体の変化を、年記によって特定の年に結びつけられる遺品は多くない。本品は奥書をもつことで、年紀のない写経を測る基準資料となり、またシルクロード東辺における経典書写と供養の実態を示す一次資料ともなる。
願主の存在も大きい。沮渠安周は高昌において造寺・写経を行った記録が残り、その名を負う写本や石刻の一群は中央アジア仏教史の研究者が早くから注目してきた。安周が発願した経巻が東京の一館に伝わるという事実そのものが、トルファンに消えた王国へと連なる細い糸となっている。
蒐集者・中村不折と鑑賞のみどころ
本品が根岸に伝わったのは偶然ではない。書道博物館を築いたのは洋画家・中村不折(一八六六〜一九四三)である。パリのアカデミー・ジュリアンに学び、夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵でも知られる不折は、明治二十八年(一八九五)に正岡子規とともに日清戦争の従軍記者として渡清したのを機に、中国の金石・書蹟の蒐集に生涯を傾けた。コレクションと館の建設費は、いずれも自らの揮毫の潤筆料から捻出したものである。
開館は昭和十一年(一九三六)。不折の没後は遺族が維持し、平成七年(一九九五)に台東区へ寄贈、平成十二年(二〇〇〇)に区立館として再開した。収蔵品は約一万六千点におよび、重要文化財十一件、重要美術品五件を含む。甲骨、青銅器、石経、墓誌、経巻文書など、文字資料を中心とする点に同館の特色がある。
紙本のため本品は常設展示されず、中村不折記念館の企画展・特別展で随時公開される。観覧を目的とするなら、まず展示予定の確認が要る。出陳の折に立ち止まりたいのは、点画そのものの呼吸と、末尾に置かれた一行の奥書である。無名の経紙を、年と名のある一個の史料へと変えているのは、この末尾の一行である。
周辺の見どころ
書道博物館は台東区根岸、JR山手線鶯谷駅北口から徒歩五分ほどの住宅地に位置する。二十世紀を通じて低層の街並みを保ち、下町らしい落ち着きが残る一帯である。本館では不折蒐集の金石資料を、記念館では企画展と不折自身の作品を見ることができる。
南へ少し歩けば上野公園で、東京国立博物館をはじめ主要な美術館が集まる。書道博物館と東京国立博物館は連携企画を組むことが多く、一日のうちに書の名品と東洋美術の広い流れの双方をたどることもできる。
Q&A
- いつ行っても本品を見られますか。
- 常設展示ではありません。光に弱い紙本のため、企画展・特別展での随時公開となります。本品を目的とするなら、事前に展示予定を確認してください。
- 「承平十五年」とは何を指しますか。
- 高昌に拠った北涼の王・沮渠安周が用いた承平という年号の十五年目で、西暦四五七年にあたります。奥書がこの年を明記しています。
- なぜ書道博物館にあるのですか。
- 洋画家・中村不折が明治以降に蒐集した中国書蹟・金石資料の一点で、そのコレクションが平成七年に台東区へ寄贈されたためです。
- 交通アクセスは。
- JR鶯谷駅北口から徒歩約五分です。上野駅からも徒歩圏内にあります。
基本情報
| 名称 | 菩薩蔵経〈第一残巻〉(仏説菩薩経 巻第一 残巻) |
|---|---|
| 奥書 | 承平十五年大涼王大且渠安周所供養経(四五七年) |
| 種別・員数 | 書跡・典籍/一巻 |
| 年代・国 | 四五七年。記載時代は北魏、中国 |
| 指定区分 | 重要文化財(昭和十五年五月三日指定) |
| 所有者 | 台東区 |
| 所在 | 書道博物館 東京都台東区根岸二-一〇-四 |
| 公開 | 企画展・特別展で随時公開(常設展示ではない) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/7418
- 台東区立書道博物館 施設概要・創設者
- https://www.taitogeibun.net/shodou/overview/
最終更新日: 2026.06.22