漢書楊雄伝第五十七とは
巻物の中に「民」の字を探すと、最後の一画が書かれていないことに気づく。唐の第二代皇帝太宗、李世民の諱を避けた「欠筆」である。書写した人物が皇帝の名を直接記すことを憚った痕跡で、この巻が唐時代の中国で書かれたことを示す重要な手がかりとなっている。
本品は『漢書』列伝第五十七、すなわち前漢末の文人・思想家である揚雄(紀元前53~紀元18)の伝記を書写した1巻の巻子本である。『漢書』は後漢の班固(32~92)が編纂した前漢一代の正史で、本巻には揚雄の代表作である賦「反離騒」「甘泉賦」「河東賦」「校猟賦」が収められている。巻首は失われているが、巻末の尾題に「楊雄伝第五十七」と明記されている。
本文には「師古曰」として顔師古(581~645)の注が付されている。貞観15年(641)、皇太子李承乾の命により顔師古が諸注釈を整理して完成させた、いわゆる顔師古注本の系統である。昭和26年(1951)6月9日に国宝に指定され、現在は京都国立博物館(京都市東山区茶屋町527)が保管している。
国宝指定の理由と価値
『漢書』のテキストは、今日ではほとんどが宋時代以降の版本によって知られる。それより数百年さかのぼる唐時代の写本、しかも顔師古注を伴うものは、現存するかぎり本巻が唯一とされる。注釈の成立からほど遠くない時期に書写された肉筆の『漢書』であり、印刷以前の古典がどのような姿で読まれていたかを直接示す資料として、その学術的価値は計り知れない。
書写年代の推定には複数の根拠がある。字高が高く引き締まった字姿は、初唐の能書家・欧陽詢(557~641)の書風を受け継ぐ。さらに唐高祖李淵の「淵」、その父の名に通じる「秉」、太宗李世民の「世」「民」がいずれも欠筆されており、唐皇室の諱を避ける習慣が守られている。書風と避諱、二つの証拠が唐時代の書写を裏づける。
加えて本巻は、中国の書の名品であると同時に、日本における漢籍受容の歴史を体現する。巻末の「天暦二年(948)五月廿一日點了藤原良佐」という加点奥書は、平安時代中期にはすでに本巻が日本に渡り、学者の手で精読されていたことの動かぬ証拠である。
見どころ
展示の機会に恵まれたら、まず本文の行間と字間に目を凝らしたい。顔師古注に基づく朱のヲコト点、墨書の訓や注、白い顔料による書き入れ、そして紙面をへこませて記す角筆の痕跡。読み方を示すこれらの符号が幾層にも重なり、千年以上にわたって読み継がれてきた歳月そのものが紙の上に堆積している。
伝来の痕跡も興味深い。尾題の下には享徳2年(1453)の春、花山院家から三井清尊が拝領したことを記す室町時代の奥書があり、首尾には明治の漢学者・竹添進一郎(1842~1917)とその門弟・島田翰の蔵書印が捺されている。唐の書写から公家、僧侶、近代の学者を経て博物館へ。一巻の紙が13世紀を生き延びた経路を、奥書と印章がたどらせてくれる。
京都国立博物館の収蔵品となったのは2015年と比較的新しい。以後、2017年の「国宝」展や2023年の「日中 書の名品」などで公開されてきた。
周辺情報
本巻は常設展示ではなく、保存上の理由から公開は期間限定の陳列に限られる。観覧を目的とする場合は、京都国立博物館の展示スケジュールを事前に確認したい。平成知新館の書跡展示室で公開されることが多い。
博物館の所在地は京都駅から近い東山七条。京阪七条駅から徒歩約7分、市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐとアクセスは良好である。向かいには1001体の千手観音立像が並ぶ三十三間堂、北へ歩けば豊国神社と方広寺の大鐘、東には長谷川等伯の障壁画で知られる智積院がある。五条坂方面へ足を延ばせば河井寛次郎記念館や清水焼の窯元も点在し、半日かけて巡るのにちょうどよい一帯となっている。
Q&A
- いつでも見学できますか。
- 常時公開はされていません。紙の文化財は光に弱いため、展示は期間を限った陳列のみです。京都国立博物館の公式サイトで展示予定を確認のうえ訪問してください。
- 揚雄とはどのような人物ですか。
- 前漢末に活躍した文人・思想家です(紀元前53~紀元18)。華麗な賦の名手として宮廷に仕える一方、『論語』に倣った『法言』などの哲学書も著しました。『漢書』列伝第五十七はその伝記にあたります。
- なぜ唐時代の写本と分かるのですか。
- 初唐の欧陽詢風の書風であること、そして唐の皇帝の諱にあたる「淵」「世」「民」などの字が欠筆されていることが根拠です。避諱の習慣は当該王朝の時代にのみ厳格に守られるため、書写年代の有力な証拠となります。
- 朱色の小さな印は何ですか。
- ヲコト点と呼ばれる訓点で、漢文を日本語として読むための符号です。天暦2年(948)に藤原良佐が点を加え終えたという奥書があり、平安中期の漢籍学習の実態を示す貴重な資料となっています。
- 館内で写真撮影はできますか。
- 展覧会によって扱いが異なります。名品ギャラリーでは撮影可能な作品もありますが、特別展や寄託品は原則撮影禁止です。展示室内の表示に従ってください。
基本情報
| 名称 | 漢書楊雄伝第五十七(かんじょようゆうでんだいごじゅうなな) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(書跡・典籍) 指定番号00048 |
| 指定年月日 | 昭和26年(1951)6月9日 |
| 員数 | 1巻 |
| 国・時代 | 中国・唐時代(7世紀ごろと推定) 天暦二年五月廿一日点了奥書 |
| 保管施設 | 京都国立博物館(京都府京都市東山区茶屋町527) |
| 所有者 | 独立行政法人国立文化財機構 |
| 公開状況 | 常設展示なし。名品ギャラリー・特別展等で期間限定公開 |
| アクセス | 京阪「七条」駅から徒歩約7分/市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐ |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)漢書楊雄伝第五十七
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/591
- e国宝(国立文化財機構)漢書楊雄伝第五十七
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=0&content_pict_id=0&langId=ja
- 文化遺産オンライン 漢書楊雄伝第五十七
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/517957
- 京都国立博物館 館蔵品データベース 漢書楊雄伝第五十七
- https://knmdb.kyohaku.go.jp/29180.html
最終更新日: 2026.06.11