八巻が残す円珍の足跡

一巻の冒頭にあるのは、大中七年(八五三)十二月三日付で台州の役所が発した文書である。そこへ温州や台州の県の役所が出した五通の証明書が貼り継がれ、一続きの巻物となっている。これらを受け取りながら中国東南部の沿岸を進んだのは、日本から渡海した天台僧・円珍(八一四〜八九一)であった。

東京国立博物館が所蔵する国宝「円珍関係文書」は、八巻からなる古文書群である。円珍が僧となった証である戒牒、宮中の僧官に任じられた際の公文書、自筆の書状、そして入唐の途上で唐の役人から交付された通行証など、その内容は多岐にわたる。昭和三十二年(一九五七)に国宝へ指定された。

円珍は比叡山で学び、仁寿三年(八五三)に唐へ渡って数年を過ごし、多くの経典と密教の教えを携えて帰国した。のちに第五代の天台座主となり、琵琶湖のほとりに位置する園城寺(三井寺)を拠点とする天台寺門宗の祖と仰がれている。八巻の文書は、その生涯のさまざまな局面を今に残している。

国宝としての価値

九世紀の日本から現存する古い記録の多くは、経典や文学作品の写しである。実務に用いられた文書が良好な状態で残る例は少ない。この文書群が貴重とされる理由の一つがそこにある。日本の朝廷が発した公文書と、唐の官庁が交付した証明書とが、一人の僧の身分を裏づける記録としてまとめて保存されてきた。

唐から与えられた公験は、当時の中国が人の移動をどのように管理していたかを示す。旅人が新たな州県に入るには姓名と目的を記した文書が必要とされ、通過する先々で県の役人が署名を加えた。福州・温州・台州の証明書をあわせて読むと、円珍が唐の領内をたどった経路と、当時の交通制度の実際とが浮かび上がる。

令和五年(二〇二三)、東京国立博物館の八巻は、園城寺が所蔵するより大規模な関連史料とともに、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。登録名は「智証大師円珍関係文書典籍―日本・中国の文化交流史―」で、あわせて五十六件の国宝からなる。園城寺に伝わる史料には、現存例が世界に二通しか確認されていない唐の通行許可書「過所」の原本も含まれる。

見どころとなる文書

注目したい巻がいくつもある。天長十年(八三三)の戒牒は、円珍が正式に僧となったことを証する文書で、僧が生涯にわたり手元に置くたぐいのものである。

嘉祥三年(八五〇)の文書は、宮中で天皇を護持する内供奉持念禅師に円珍を任じる内容を記す。これに添えられた円珍自筆の添状によれば、本来この任命には用いられない「牒」という様式の公文書を、右大臣藤原良房(八〇四〜八七二)のはからいによって特別に作成してもらったという。円珍はこれを、自らの肩書を証する書類として入唐の旅に携えた。

円珍の筆跡は各所に見える。五月二十七日付の自筆書状はその代表である。貞観九年(八六七)の讃岐国司解は、巻首に藤原有年の申文を備え、日本書道史のうえでも古くから重んじられてきた。九世紀の人々が遺した墨の跡を間近にすることが、原本と向き合う醍醐味といえる。

鑑賞と周辺の見どころ

「円珍関係文書」は、上野公園に建つ東京国立博物館が所蔵する。年代の古い紙と墨は光に弱いため、八巻が常時公開されることはなく、書や仏教史、館蔵の国宝をめぐる展覧会などの折に、入れ替えで姿を見せる。展示の有無は事前に確認したい。一方、博物館のデジタル資料サイト「e国宝」では、各文書の高精細画像を一年を通じて見ることができ、展示ケース越しよりも細部まで読み解ける。

円珍の事績の続きをたどるなら、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)が挙げられる。京都から日帰りで訪ねられる琵琶湖南岸の古刹で、文化財収蔵庫では関連する文書群の一部が公開される。世界に二通とされる唐の過所の原本も、ここに伝わる。湖を見晴らす境内は、この地方でも指折りの散策の場である。

Q&A

Q「円珍関係文書」はいつでも見られますか。
Aいいえ。光に弱い古文書のため、東京国立博物館で入れ替え展示の際に限って公開されます。来館前に展示予定をご確認ください。「e国宝」では高精細のデジタル画像を常時公開しています。
Q円珍とはどのような人物ですか。
A円珍(八一四〜八九一)は比叡山で学んだ天台僧で、仁寿三年(八五三)に入唐し、のちに第五代の天台座主となりました。琵琶湖畔の園城寺を拠点とする天台寺門宗の祖と仰がれています。
Q公験とは何ですか。
A公験は、唐の官庁が旅人に交付した公的な通行証明書です。円珍が福州・温州・台州で受け取った文書には移動の経路が記され、唐の交通制度を知る貴重な手がかりとなっています。
Qユネスコ「世界の記憶」とのかかわりは。
A令和五年(二〇二三)、東京国立博物館の八巻と園城寺所蔵の史料が「智証大師円珍関係文書典籍」として登録されました。九世紀の日中交流を示す五十六件の国宝からなります。
Q京都近郊で関連する文書を見られますか。
A大津市の園城寺(三井寺)の文化財収蔵庫で、関連する文書群の一部が公開されます。世界に二通とされる唐の過所の原本も、ここに伝わります。

基本情報

名称円珍関係文書(えんちんかんけいもんじょ)
所在地東京国立博物館(東京都台東区上野公園13-9)
指定区分国宝(古文書)/昭和三十二年(一九五七)二月十九日指定
員数八巻(附 円珍自筆添記 一紙)
時代唐・平安時代(九世紀)
所有者独立行政法人国立文化財機構
公開状況常設展示ではなく随時公開。デジタル画像は「e国宝」で公開。
ユネスコ「世界の記憶」登録(二〇二三年、園城寺の史料とあわせて)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/781
文化遺産オンライン(国立文化財機構)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125974
e国宝「円珍関係文書」(国立文化財機構)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100166&content_pict_id=0
ユネスコ「世界の記憶」登録について(文部科学省)
https://www.mext.go.jp/unesco/006/1373633_00022.htm
智証大師円珍関係文書典籍(天台寺門宗総本山 三井寺)
https://miidera1200.jp/unesco/

最終更新日: 2026.06.12