紙本著色源氏物語絵巻、現存最古の源氏絵がたどる十二世紀

昭和7年(1932)、尾張徳川家第19代当主・徳川義親は、家伝来の絵巻に鋏を入れる決断を下した。広げ、巻き取るたびに、八百年を経た顔料が浮き、剥がれ落ちる。詞書と絵を切り離し、一面ずつ額装に改めることが、当時考え得る唯一の保存策だった。義親は後年、この経緯を「身を切られるような思い」と回想している。

その対象こそ、国宝「紙本著色源氏物語絵巻(絵十五段、詞十六段)」である。昭和27年(1952)3月29日に国宝指定(指定番号00032)。所有は公益財団法人徳川黎明会、保管は名古屋市東区の徳川美術館。紫式部が11世紀初頭に著した『源氏物語』を絵画化した作例として現存最古のもので、制作は物語成立から約150年後の12世紀と推定されている。

なお近年の修理事業により、額装されていた各面は15巻の巻子に再改装された。文化庁の国指定文化財等データベースが員数を「15巻」と記すのは、この現状を反映したものである。

失われた全体と、残された四分の一

当初の絵巻は『源氏物語』五十四帖の各帖から1~3場面を選んで絵画化し、対応する本文の抄出を詞書として絵の前に置く形式だったと考えられている。全体では80~90段、巻数にして10巻程度(20巻とする説もある)に及ぶ大部の制作だったと推定され、現存するのはその約4分の1、巻数換算で4巻分にすぎない。

江戸時代初期には、3巻が尾張徳川家に、1巻が阿波蜂須賀家に伝来していたことが確認できる。それ以前の伝来は不明である。蜂須賀家本は幕末に同家を離れ、現在は東京の五島美術館が所蔵する(鈴虫二段・夕霧・御法、こちらも国宝)。また「若紫」の画面断簡が東京国立博物館に保管されているほか、詞書のみの断簡も各所に残る。

徳川美術館所蔵分の内訳は、蓬生・関屋・絵合(詞書のみ)・柏木(三段)・横笛・竹河(二段)・橋姫・早蕨・宿木(三段)・東屋(二段)の10帖分、絵15面・詞書28面である。指定名称にある「絵十五段、詞十六段」は指定当時の数え方によるもので、現行の構成面数とは一致しない。この食い違いは文化庁データベース自体の写真キャプション(「絵十五面/詞二十八面」)にも表れている。

柏木から御法までの8段は、名古屋と東京に分かれてはいるものの、原初の一巻がほぼ完全な形で残った部分とみられる。光源氏晩年の、物語中でも心理描写の深まる場面群である。

作り絵・引目鉤鼻・吹抜屋台、王朝絵画の技法

絵は「作り絵」と呼ばれる技法による。まず墨線で下描きを行い、その上から岩絵具を厚く塗り重ねて下描きを覆い隠し、最後に輪郭と目鼻を描き起こす。濃密で宝飾的な画面は、後代の白描や略筆の絵巻とは性格を異にする。

注目したい表現が二つある。一つは「引目鉤鼻」。目は一筋の線、鼻は短い鉤形に省略された顔貌表現で、感情を描き込まない代わりに、詞書が語る心情を観る側が画面へ投影する余地を生む。もう一つは「吹抜屋台」。屋根と天井を取り払い、斜め上方から室内を見下ろす構図である。傾いだ床、幾重もの几帳、画面を走る斜めの梁が、登場人物の抑制された感情と呼応する緊張感を生んでいる。

絵の筆者は、平安時代の宮廷絵師・藤原隆能と伝えられてきたため、本絵巻は「隆能源氏」の通称をもつ。ただし確証となる史料はなく、徳川美術館も筆者を不明としている。詞書の書風は五種に分類され(徳川美術館所蔵分には四種が含まれる)、関白藤原忠通(1097~1164)に始まる法性寺流の新様もみえる。詞書は本文の抄出ながら、平安時代にさかのぼる『源氏物語』最古のテキストであり、文学資料としての価値も大きい。

公開は晩秋のわずかな期間

義親を悩ませた顔料の脆弱さは、今日の公開方針をも規定している。徳川美術館では例年11月中旬から下旬にかけて、全15巻のうち1~2巻を選んで特別公開する。公開場面は毎年入れ替わるため、訪れるたびに異なる帖と出会うことになる。周年にあたる年には規模を拡大した展観が行われ、開館90周年の2025年には現存諸本を一堂に集めた特別展が開催された。

公開期間外も、常設展示の精巧な複製や映像資料で絵巻の世界に触れられる。美術館自体、半日を充てる価値がある。昭和10年(1935)開館、尾張徳川家伝来の大名道具1万件余を収蔵し、国宝は本絵巻を含め9件を数える。刀剣、茶道具、能装束、婚礼調度と、御三家筆頭の格式を示す品々が並ぶ。

絵巻の撮影は顔料保護のため認められていない。公開日程と観覧料は展示ごとに変わるため、訪問前に公式サイトでの確認をおすすめする。

周辺情報

美術館の敷地は、池泉回遊式庭園の徳川園、尾張徳川家旧蔵書を収める蓬左文庫と隣接する。徳川園は尾張藩二代藩主光友の隠居所跡に整備された庭園で、紅葉の見頃が絵巻の公開時期と重なるのも一興である。

アクセスはJR中央本線大曽根駅南口から徒歩約10分、地下鉄名城線大曽根駅からは徒歩約15分。名古屋駅からは観光ルートバス「メーグル」が美術館前まで運行している。市中心部から30分ほどみておけばよい。

Q&A

Q源氏物語絵巻の実物はいつ見られますか。
A徳川美術館では例年11月中旬から下旬に、全15巻のうち1~2巻を特別公開しています。周年の年にはより大規模な展観が行われることがあります。日程は公式サイトで発表されます。
Qなぜ公開期間がこれほど短いのですか。
A岩絵具や金銀箔が極めて脆弱で、光にも敏感なためです。展示期間の制限は平安絵画に共通する保存上の措置で、昭和7年の額装改装と同じ問題意識に基づいています。
Q五島美術館の源氏物語絵巻とはどういう関係ですか。
A同一の絵巻が江戸時代に尾張徳川家と阿波蜂須賀家に分かれて伝来したもので、蜂須賀家本が現在の五島美術館本です。それぞれ別件として国宝に指定されており、五島美術館では例年春に公開されます。
Q『源氏物語』を読んでいなくても楽しめますか。
A展示には場面解説が付くため予備知識がなくても鑑賞できます。現存場面の多くは物語後半にあたるので、あらすじを押さえておくと絵の含意がより深く読み取れます。
Q絵巻の写真撮影はできますか。
Aできません。顔料保護のため撮影は禁止されています。詳細な図版はミュージアムショップの図録で入手できます。

基本データ

名称紙本著色源氏物語絵巻(絵十五段、詞十六段)
指定区分国宝(絵画) 昭和27年(1952)3月29日指定 指定番号00032
員数15巻(現状は10帖分・絵15面・詞書28面。指定名称の段数は指定当時の数え方による)
時代平安時代 12世紀
筆者不明(伝藤原隆能)
所有者公益財団法人徳川黎明会
保管施設徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町1017)
公開状況例年11月中旬~下旬に一部を特別公開(日程・観覧料は展示により異なる)
アクセスJR中央本線大曽根駅南口から徒歩約10分/名古屋駅から観光ルートバス「メーグル」

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)紙本著色源氏物語絵巻
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/35
徳川美術館「源氏物語絵巻」(収蔵品紹介)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/collections/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB/
五島美術館「国宝 源氏物語絵巻」
https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/genji/
徳川美術館 よくある質問
https://www.tokugawa-art-museum.jp/enquiries/faq/
Aichi Now 徳川美術館 特別公開「国宝 源氏物語絵巻」
https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/1858/

最終更新日: 2026.06.11