手鑑(二百九十二葉)— 江戸幕府御用絵師が遺した古筆の宝庫
東京国立博物館に保管される登録美術品「手鑑(二百九十二葉)」は、江戸幕府の御用絵師・住吉弘貫(すみよしひろつら)が文久元年(1861)に仕立てた古筆手鑑です。奈良時代から江戸時代に至るおよそ千年余にわたる日本の名筆の断簡二九二葉を一帖に収めたこの作品は、日本の書道史・国文学・近世絵画史を一望できる稀少な文化遺産といえます。
本作は紙本の登録美術品であるため公開機会は限られますが、東京国立博物館では関連する古筆切や手鑑が常設展で随時公開されており、本作の存在を知って訪れることで、博物館鑑賞がより深く豊かなものとなるはずです。
「手鑑」とは何か
「手鑑(てかがみ)」とは、厚紙を折り畳んだ折帖(おりじょう)に、古の名筆を切断した断簡(古筆切)を一定の格式に従って貼り込んだ作品集です。「手」は筆跡を意味し、すなわち「筆跡を映す鏡」という雅称です。経巻や歌書、消息などの巻子本や冊子本を切断して収集するという慣習は、桃山時代以降、茶の湯の流行とともに古筆鑑賞が広まる中で発展しました。
江戸時代には、武家・公家のみならず富裕な町人にまで愛玩され、手鑑は嫁入り道具にも加えられたといいます。また、古筆鑑定家にとっては鑑定の基準となる台帳としても機能しました。本作「手鑑(二百九十二葉)」も、こうした手鑑文化の伝統に連なる優品です。
編者・住吉弘貫について
本帖を編んだのは、大和絵の住吉派七代目当主・住吉弘貫(1793–1863)です。住吉派は、土佐光吉門下の住吉如慶(じょけい、1599–1670)が後西天皇の勅命を受けて住吉姓を起こしたことに始まる江戸の大和絵流派で、二代具慶が江戸に下って以降、代々江戸幕府の御用絵師を務めました。京都を本拠とする土佐派に対し、住吉派は江戸城をはじめとする幕府の絵画制作を担う家として明治時代まで続きました。
弘貫は五代広行の次男で、六代広尚の弟にあたります。京都御所紫宸殿の「賢聖障子」の修繕などの活躍が認められ、旗本(小十人格)に列せられた絵師でした。古典絵画と古筆への深い造詣をもち、生涯にわたり古筆の蒐集と研究に情熱を注ぎました。文久元年(1861)、亡くなる二年前にこれまでの蒐集品を一帖の手鑑に仕立て上げたのが本作で、まさに弘貫の鑑識眼と画業人生を集約した到達点といえます。
登録美術品としての価値
本作は、平成25年(2013)6月17日付で文化庁長官の登録を受けた登録美術品(登録番号042)です。それ以前、昭和10年(1935)12月13日にはすでに重要美術品に認定されていました。これらの認定を受けた理由は、おもに次の点にあります。
第一に、伝来や成立の経緯が明らかであること。第二に、表裏あわせて三百余の古筆切が貼り込まれ、奈良時代から江戸時代に至るまで日本の書の歴史を網羅する大部の作品であること。第三に、手鑑の格式の最高位とされる聖武天皇筆と伝えられる「大聖武」を巻頭に置く正統的な構成を取っていること。さらに、表紙見返しに貼り込まれた源氏物語を主題とする扇面画は、住吉派初代・住吉如慶(土佐広道)の初期画風に通じるものとして、近世絵画史の上でも重要な作例となっています。
これらの特徴から、本作は書道史・国文学・近世絵画史のいずれの分野においても価値の高い作品と評価されています。広く公開される機会のなかった希少な手鑑であり、近代以降の研究によりその全貌が次第に明らかになっています。
収載される名物切の数々
本帖には、それぞれに固有の名と来歴をもつ名物切(めいぶつぎれ)が数多く収められています。それぞれの断簡には、平安・鎌倉・南北朝・室町・桃山と続く日本の書の歴史が凝縮されています。
巻頭を飾る「大聖武」
「大聖武(おおじょうむ)」は、奈良時代に書写された『賢愚経(けんぐきょう)』の断簡で、伝統的に聖武天皇(701–756)の筆と伝えられてきた名筆です。通常の写経が一行十七字で書写されるのに対し、一行十二〜十三字程度の堂々たる大字で記されることからこの名で呼ばれます。料紙には、マユミの繊維で漉いた特殊な「荼毘紙(だびし)」が用いられ、紙面に粒子が浮き出る独特の質感をもちます。
大聖武は古来極めて珍重され、手鑑の冒頭に貼られることが格式高い手鑑の決まりとなりました。本帖もこの慣例に厳格に従い、巻頭に大聖武を、その傍らに「鳥下絵経切(とりしたえきょうぎれ)」を並べるという格調高い構成を取っています。
高野切(第三種)— 平安和歌の至宝
「高野切(こうやぎれ)」は『古今和歌集』の現存最古の写本の通称で、平安時代中期、十世紀中頃の宮廷の能書家による名筆として知られます。書風によって第一種から第三種に分類され、本帖にはそのうち第三種が収められています。優美な仮名の流れと鋭い線質を特徴とし、和歌史と仮名書道史の双方において欠かすことのできない存在です。
その他の名物切
本帖にはこのほか、烏丸切(からすまぎれ)、東大寺切(とうだいじぎれ)、中院切(ちゅういんぎれ)、村雲切(むらくもぎれ)、戸隠切(とがくしぎれ)など、いずれも名のある古筆切が貼り込まれています。これらの切名は所伝の地名や寺社名、家名にちなんで付けられており、それぞれ何百年にもわたって日本の文化的エリートのもとで大切に伝えられてきた歴史を物語っています。これら断簡を一望することで、奈良時代から江戸時代に至る日本の書の流れを通覧することができます。
表紙見返しの扇面画
本帖の見どころは古筆切だけではありません。表紙の見返しに貼り込まれた扇面形の絵画は、源氏物語を主題とした華麗な大和絵で、住吉派の祖・住吉如慶(土佐広道)の初期画風に連なるものとして注目されています。書と絵画の双方を統合する住吉派の伝統を体現する重要な作例であり、近世絵画史を考える上でも貴重な資料となっています。
東京国立博物館を訪ねる
本作が公開契約を結ぶ東京国立博物館は、明治5年(1872)創設の日本最古かつ最大の国立博物館です。上野公園の一角に位置し、本館(日本ギャラリー)、東洋館、平成館、法隆寺宝物館、表慶館の五つの主要展示館を擁する大規模な施設です。
本作は紙本の登録美術品という性質上、常時展示されることはなく、特別展や調査研究の機会に限って公開されます。しかし、本館8室「書の名品」では国宝・重要文化財の古筆切や手鑑が定期的に展示替えされており、訪問のたびに新しい名筆と出会うことができます。また、3室「仏教の美術」では大聖武をはじめとする古写経の名品にも出会えるはずです。本作の鑑賞を主目的とされる方は、必ず事前に博物館の公式ウェブサイトで展示スケジュールをご確認ください。
JR上野駅公園口から徒歩約10分、所要時間は本館だけでも2〜3時間、全館をじっくり見学する場合は半日から1日を見込むとよいでしょう。英語の音声ガイドや解説パネルも整備され、海外からの訪問者にも親しみやすい博物館です。
周辺の見どころ
東京国立博物館を擁する上野恩賜公園は、日本有数の文化拠点が集まるエリアです。徒歩圏内には、ル・コルビュジエ設計の世界遺産・国立西洋美術館、国立科学博物館、東京都美術館、上野動物園(日本最古の動物園)が点在し、上野公園そのものも春には日本屈指の桜の名所として知られます。
もう少し足を延ばすなら、博物館の北側に広がる谷中・根津・千駄木の「谷根千」エリアがおすすめです。古い寺社や昔ながらの商店が残る下町情緒あふれる町並みを散策できます。南側の上野駅前にあるアメ横(アメヤ横丁)は、戦後の活気を今に伝える庶民的な商店街で、安価な海鮮丼やストリートフードを楽しむ人々で賑わいます。書の世界に浸ったあと、現代の東京の活気にふれてみるのも一興です。
Q&A
- 東京国立博物館を訪れれば、いつでも「手鑑(二百九十二葉)」を見ることができますか。
- 本作は紙本の登録美術品であり、光や湿度に非常に敏感なため、常時展示されることはありません。特別展や調査研究の機会に限って公開されます。事前に東京国立博物館の公式ウェブサイトで展示スケジュールをご確認ください。なお、館内では他にも多数の優れた古筆や手鑑が常時ローテーションで公開されています。
- 「登録美術品」とはどのような制度ですか。
- 平成10年(1998)に施行された「美術品の美術館における公開の促進に関する法律」に基づく制度で、歴史上・芸術上・学術上特に優れた価値を有する個人所蔵の美術品を文化庁長官が登録し、美術館との公開契約を通じて広く一般の鑑賞に供する仕組みです。所有者にとっては、相続税の物納において優先順位が引き上げられるなどの優遇措置があります。
- なぜこの手鑑は聖武天皇の伝筆「大聖武」から始まるのですか。
- 古来、格式の高い手鑑は聖武天皇(701–756)の伝筆である「大聖武」を巻頭に置くことが慣例とされてきました。これは、皇室の権威と日本の書の起源への敬意を示すためです。なお、現代の研究では、実際の筆者は奈良時代の優れた写経生か渡来僧であると考えられていますが、その文化的な格式は今なお揺るぎません。
- 編者の住吉弘貫はどのような人物ですか。
- 住吉弘貫(1793–1863)は、大和絵の住吉派七代目当主で、江戸幕府の御用絵師を務めました。絵画の腕前のみならず古典絵画や古筆への深い知識でも知られ、京都御所「賢聖障子」の修繕などの功績により、晩年には旗本(小十人格)に列せられました。本帖は、その鑑識眼と蒐集の集大成として、亡くなる二年前に完成したものです。
- いわゆる「四大手鑑」と本作の違いは何ですか。
- 「四大手鑑」と称される国宝の「藻塩草」(京都国立博物館)、「見努世友」(出光美術館)、「大手鑑」(陽明文庫)、「翰墨城」(MOA美術館)は、いずれも江戸時代中期までに古筆鑑定家の手で台帳として編まれた作品で、国宝に指定されています。一方、本「手鑑(二百九十二葉)」は、幕末の絵師・住吉弘貫が個人の蒐集と鑑識をもとに仕立てた手鑑で、平成25年に登録美術品に登録されました。国宝ではないものの、江戸末期の絵師がいかに古典文化を継承・整理したかを知る上で、独自の価値をもつ作品といえます。
基本情報
| 名称 | 手鑑(二百九十二葉)(てかがみ・にひゃくきゅうじゅうによう) |
|---|---|
| 指定区分 | 登録美術品(登録番号042)/昭和10年(1935)重要美術品認定 |
| 登録年月日 | 平成25年(2013)6月17日 |
| 時代 | 書写:奈良〜江戸時代/装丁:文久元年(1861) |
| 編者 | 住吉弘貫(1793–1863、住吉派七代当主・江戸幕府御用絵師) |
| 形状・寸法 | 貼込帖装 1帖 39.0cm × 33.5cm |
| 員数 | 古筆切292葉(表裏あわせて三百余葉) |
| 所在地 | 東京都台東区上野公園13-9 東京国立博物館(公開契約館) |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(金・土曜は21:00まで)/入館は閉館30分前まで |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、年末年始(12月26日〜1月1日) |
| 観覧料 | 一般1,000円/大学生500円/高校生以下および70歳以上は無料 |
| アクセス | JR上野駅(公園口)より徒歩約10分 |
参考文献
- 手鑑(二百九十二葉) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/202/00000042
- 手鑑(二百九十二葉) - 文化遺産オンライン
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/269616
- 美術品をお持ちの方々へ(登録美術品制度の御案内) - 文化庁
- https://www.bunka.go.jp/seisaku/bijutsukan_hakubutsukan/torokubijutsuseido/
- 住吉廣行(絵師) - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/住吉廣行_(絵師)
- 大聖武 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/大聖武
- e国宝 - 賢愚経断簡(大聖武)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&content_base_id=100164
- 東京国立博物館 - 公式サイト
- https://www.tnm.jp/
最終更新日: 2026.04.30