春日野図鐔〈銘城州伏見住金家〉――永青文庫が伝える絵風鐔の最高傑作

東京・文京区目白台の閑静な邸宅街にひっそりと佇む永青文庫には、日本の中世から近世への移行期を象徴する一枚の鐔が伝えられています。それが、本稿で取り上げる重要文化財「春日野図鐔〈銘城州伏見住金家〉」です。手のひらに収まるほどの薄い鉄地のうえに、奈良春日野の広やかな風景がひらかれ、力強い鋤彫と、ささやくような金銀の象嵌で彩られています。本稿では、この鐔の魅力、謎多き作者・金家、そしてそれを所蔵する細川家ゆかりの美術館・永青文庫について、海外からの旅行者の方にも向けて丁寧にご紹介します。

歴史的背景――「絵風鐔」の誕生

長らく日本の刀の鐔は、刀匠や甲冑師が片手間に作る、武具の一部に過ぎませんでした。鉄の板に小さな透彫を施した素朴な鐔がその主流であり、芸術品というよりは実用品として扱われていたのです。この状況が大きく変わるのが室町時代末期から桃山時代――16世紀のことでした。京都の南、伏見の地に「金家(かねいえ)」と名乗る一人の鐔工が現れ、鐔の歴史に決定的な転換をもたらします。

金家は現存する記録の上で初めて、鐔だけを専門に手がけた工人とされます。さらに重要なのは、彼が小さな鉄の円盤を絵師にとっての絹本のように扱い、そこに山水・人物・故事といった絵画的な主題を彫り出したという点です。これにより鐔は、単なる装具から独立した美術品へと一気に格上げされました。

金家の活動年代については古来「室町末期」とする説と、近年有力な「桃山から江戸初期」とする説があります。豊臣秀吉による伏見城の築城が1594年に始まり、伏見一帯が活気ある城下町・職人町として発展したことを踏まえれば、後者の年代観は十分に説得力があります。いずれにしても金家は、絵風鐔の創始者として後世に位置づけられ、尾張の信家、京都の埋忠明寿とともに「桃山三名工」と並び称される存在となりました。

本作「春日野図鐔」は、その金家の代表作中の代表作とされてきた一面です。深い趣をたたえた表面は、いまも見る者に静かな感動を与えつづけています。

なぜ重要文化財に指定されているのか

本作が国の重要文化財(美術工芸品・金工)に指定されている理由は、大きく三つの観点から説明できます。

第一に、日本金工史における転換点を示す資料としての価値です。鐔を独立した芸術作品の領域へ押し上げた最初の工人――それが金家であり、本作はその達成を最も明瞭に示す一面のひとつです。文様や透彫ではなく、ひとつの風景を絵画のように構成するという発想そのものが、日本の刀装具に新しい地平を開きました。

第二に、技法的完成度の高さです。よく鍛えられた薄手の鉄地に、繊細な槌目地が施されることで、表面はわずかな起伏を持ち、光をやわらかく受け止めます。そこへ春日野の風景が、力強い鋤出高彫で立ち上がる。鉄そのものから景物が現れるかのようなこの彫法は、貼り付けた象嵌では得られない一体感を生み出します。さらに金・銀のごくわずかな象嵌が、構図の要所に静かな輝きを添えています。多くを語らないこの抑制こそが、金家の真骨頂とされる所以です。

第三に、図様(デザイン)が持つ文化的・図像的な意義です。題材として選ばれた春日野は、平安時代以来、和歌・絵画・宗教美術のなかで繰り返し詠まれ、描かれてきた特別な土地。武士の差料に求められる豪壮さとは対極にある、雅で抒情的な世界がそこに込められています。武と文のあわいを象徴する一枚として、本作は単なる工芸品を超えた文化史的意義を持つのです。

魅力・見どころ――小さな鉄に込められた風景

展示室で本作と対面する数分間は、小さな鉄の一面に、これほど豊かな表情があり得るのかという発見の時間でもあります。とくに注目したい見どころをいくつか挙げてみましょう。

主題――奈良「春日野」

春日野とは、奈良市東部、御蓋山(みかさやま)・若草山の山麓にひろがる広やかな野原で、春日大社の境内一帯を含む地域名です。神鹿(しんろく)と呼ばれる鹿は春日の神の使いとして古くから守られ、「春日野鹿」は南都八景のひとつにも数えられてきました。阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」をはじめ、和歌に幾度となく詠まれた歌枕でもあります。金家はこの広大な詩的世界を、わずか数センチの鉄に凝縮して刻み込んだのです。

地――薄手の槌目地

本作の地鉄をよく観察すると、彫像のまわりに、ごくわずかにうねる肌合いが見て取れます。これが「槌目地(つちめじ)」と呼ばれる仕上げで、丁寧な槌打ちによって生み出されたものです。光を均一に反射しないため、表面が空気をはらんだような柔らかさを湛え、刻まれたモチーフを引き立てる絶好の背景となっています。

彫――鋤出高彫

主たる技法は鋤出高彫(すきだしたかぼり)。地金を彫り下げて図様を浮き上がらせる手法で、貼り付けの象嵌と異なり、図像が鐔の本体そのものから生まれているかのような重量感と一体感をもたらします。金家鐔ならではの、しっとりと手に馴染む存在感の根源は、この彫法にあるといえます。

色――最小限の金銀象嵌

本作には金・銀の象嵌がごく控えめに施されています。決して目立たせるためではなく、視線を風景のなかへ静かに導くためのアクセントです。同時代に成熟した茶の湯の侘び・寂びの美意識と、深いところで共鳴する感性が見て取れるでしょう。

銘――「城州伏見住金家」

裏面には「城州伏見住金家」の銘が刻まれています。城州とは山城国(やましろのくに)の唐風の別称で、山城は現在の京都府南部、伏見はその中の地名です。銘そのものが、桃山期の活気ある工人町に身を置いた職人の自意識を伝えています。

拝観案内――永青文庫を訪ねる

本作を所蔵するのは、東京・文京区目白台にある公益財団法人永青文庫です。1950年(昭和25年)、肥後熊本54万石の細川家16代当主・細川護立(もりたつ、1883〜1970)によって設立された美術館で、東京で唯一の旧大名家ゆかりの美術館として知られています。建物は、1930年(昭和5年)に細川家の家政所(事務所)として建てられたもので、永青文庫の名は、細川家中世の菩提寺・永源庵(建仁寺塔頭)の「永」と、初代藤孝の居城・青龍寺城の「青」に由来します。

所蔵品は美術工芸品・古文書・刀剣・禅画・近代日本画など、国宝8件・重要文化財数十件を含む約9万4千点にのぼり、年4回のテーマ展で順次公開されています。本作「春日野図鐔」も常設展示ではなく、テーマに応じて折々に展示される作品です。来館前に必ず、現在の展覧会内容と作品リストを公式サイトでご確認ください。

開館時間と入館料

開館時間は10:00〜16:30(最終入館16:00)、休館日は月曜日(祝日の場合は翌平日)、展示替期間、年末年始です。入館料は一般1,000円、シニア(70歳以上)800円、大学・高校生500円、中学生以下は無料を基本としますが、展覧会によって変動する場合があります。

アクセス

所在地は東京都文京区目白台1-1-1。最寄り駅から徒歩で訪ねる場合は、東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅(出口1a)、または東京メトロ東西線「早稲田」駅(出口3a)から、いずれも徒歩約15分です。バスをご利用の場合は、JR山手線「目白」駅前あるいは東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅から、都営バス「白61 新宿駅西口」行きに乗車し「目白台三丁目」下車、徒歩約5分です。都電荒川線「早稲田」駅からも徒歩約10分です。

周辺情報――目白台界隈の散策スポット

永青文庫の周辺は、東京都心にありながら緑の濃い、静かな散策エリアです。鐔の鑑賞と組み合わせて、ぜひ次のような場所も訪ねてみてください。

  • 肥後細川庭園――永青文庫に隣接する池泉回遊式の庭園で、もとは細川家下屋敷の敷地の一部です。入園無料。秋の紅葉や初夏の花菖蒲が美しい、知る人ぞ知る都心のオアシスです。
  • 椿山荘庭園――目白台の段丘上に広がる庭園で、ホテル椿山荘東京に併設されています。古い三重塔や石灯籠、そして滝の景観が楽しめ、初夏の蛍観賞でも知られます。
  • 関口芭蕉庵――神田川沿いに位置する小さな草庵で、俳聖・松尾芭蕉が江戸幕府の水道工事の役にあたっていた1670年代の住居跡を伝える場所です。文学散策にうってつけです。
  • 早稲田大学――徒歩圏内に同大学のキャンパスが広がり、古書店やカフェも点在しています。学生街の活気と歴史的雰囲気が同居する一帯です。
  • 雑司が谷鬼子母神堂――都電荒川線で少し足を伸ばせば、江戸の風情を残す鬼子母神堂と参道に出られます。郷土玩具のすすきみみずくなど、東京の下町文化を感じられるスポットです。

Q&A

Qいつ訪ねても「春日野図鐔」を見られますか?
Aいいえ、常設展示ではありません。永青文庫は年4回のテーマ展で順次所蔵品を公開しており、本作はそのテーマに合致する展覧会のときだけ展示されます。お出かけ前に必ず公式サイトで現在および次回の展覧会内容をご確認ください。
Q作者「金家」とはどのような人物なのでしょうか。
A山城国伏見に住んだ鐔工で、生没年など詳細は不明です。室町末期から桃山期にかけて活動したとされ、絵風鐔の創始者として位置づけられています。尾張の信家、京の埋忠明寿とあわせて「桃山三名工」と並称されます。初代と二代があったとする説もあります。
Q京都・伏見の作なのに、なぜ奈良の春日野が描かれているのですか?
A春日野は、平安以来の和歌や絵画、神仏習合美術の中で繰り返し描かれてきた、最も有名な歌枕のひとつです。当時の武士や教養人にとって、春日野は地理的に近い遠いを問わず共有された詩的・宗教的イメージでした。金家は、その広く知られたイメージを鉄に刻み込むことで、武具と古典文化を結びつけたのです。
Q銘の「城州」とはどこを指しますか?
A城州は山城国(やましろのくに)の中国風の別称で、山城は現在の京都府南部にあたる旧国名です。伏見はその山城国に属する町で、桃山期に大いに発展した城下町です。「城州伏見住金家」は「山城国伏見に住する金家」の意味です。
Q永青文庫と熊本の細川家コレクションはどのような関係ですか?
A細川家はかつて肥後(現・熊本県)の藩主でした。東京の永青文庫は1950年に16代当主・細川護立によって設立された美術館で、家伝の美術品や護立自身の蒐集品を保存・公開しています。所蔵品の一部は熊本県立美術館の永青文庫展示室でも、年に数回入れ替えながら展示されています。

基本情報

名称 春日野図鐔〈銘城州伏見住金家〉
指定区分 重要文化財(美術工芸品・金工)
作者 金家(山城国伏見住)
時代 室町時代末期〜桃山時代(16世紀)
材質・技法 鉄、薄手の槌目地に鋤出高彫、金・銀の象嵌(ごく少量)
員数 1枚
所有者 公益財団法人永青文庫
所在地 東京都文京区目白台1-1-1 永青文庫
開館時間 10:00〜16:30(最終入館16:00)、月曜日(祝日の場合は翌平日)・展示替期間・年末年始は休館
アクセス 東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅、または東西線「早稲田」駅から徒歩約15分。都営バス「目白台三丁目」下車徒歩約5分

参考文献

春日野図鐔〈銘城州伏見住金家/〉――文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/183172
公益財団法人永青文庫 公式サイト
https://www.eiseibunko.com/
永青文庫――アクセス案内
https://eiseibunko.com/traffic.html
永青文庫――文京区公式サイト
https://www.city.bunkyo.lg.jp/b014/p003842.html
金家(カネイエ)とは――コトバンク
https://kotobank.jp/word/金家-45919
春日(奈良市)――Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/春日_(奈良市)
永青文庫――Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/永青文庫

最終更新日: 2026.04.29