小杉湯 ― 高円寺の路地に昭和八年からつづく、街の銭湯
東京・JR高円寺駅の北口を出て、にぎやかな商店街から少し横道に入ると、まるで小さな神社のような重厚な唐破風屋根が、ふいに視界に現れます。のれんがそよぎ、瓦屋根は時の重みをまとい、入口からは湯気の気配がただよう ― ここが、昭和八年(一九三三年)に開業し、九十年以上ものあいだ街の人びとに湯を提供しつづけてきた銭湯「小杉湯」です。
令和二年(二〇二〇年)八月、小杉湯は国の登録有形文化財に登録されました。都内の銭湯としては三例目という、たいへん希少な事例です。それでもこの建物は博物館でも展示室でもなく、いまも毎日、お湯をたたえ、客を迎え、湯気を立てつづけています。だれでも数百円の入浴料を払えば、文化財の中で湯に浸かる、という贅沢が叶う場所なのです。
小杉湯とは
小杉湯は、東京都杉並区高円寺北に所在する公衆浴場です。木造二階建て、瓦葺きと金属板葺き、建築面積はおよそ二八七平方メートル、一棟。創業は昭和八年で、これまで建て替えを行ったことはなく、関東大震災後に再建された当時の銭湯建築を、現在まで受け継いでいます。
経営は創業以来、平松家三代によって担われてきました。初代が建てた建物を、二代目がかたくなに守り、現在は三代目の平松佑介氏が「百年後にもこの建物を残したい」という思いのもと運営を続けています。日常の銭湯としての営みを止めることなく、文化財を「使いつづける」ことで保存している、まことに稀有な事例です。
なぜ文化財に登録されたのか
文化遺産オンラインの登録解説には、「高円寺駅北の商店街に所在する公衆浴場。脱衣室屋根の東正面に千鳥破風を掲げ、一階の唐破風庇下が旧入口である。浴室は中央に越屋根を掲げて高窓とし、西壁には男女の浴室にわたるペンキ絵を描く。改修はあるが、東京でよく見られた銭湯の典型例の一つ」と記されています。つまり小杉湯は、東京の街角を彩ってきた銭湯建築の「典型」を、いまに伝える代表例として評価されたのです。
「東京型銭湯」を今に伝える稀少な現役建築
小杉湯のような豪壮な外観を持つ銭湯は、建築史上「東京型銭湯」と呼ばれます。大正十二年の関東大震災以前、東京の銭湯は商店風の町家造りが一般的でしたが、震災後の復興期、当時の大工たちは寺社建築の技法を応用し、神社仏閣を思わせる装飾を備えた銭湯を次つぎと建てました。これは、焼け野原から立ち上がろうとする街と人々を勇気づけるための、いわばささやかな「日常の祝祭」でもあったといわれます。
その時代に建てられ、外観の主要な姿を九十年以上守りつづけている小杉湯は、東京型銭湯の歴史を語るうえで欠かすことのできない実例です。
象徴的な唐破風と千鳥破風
登録の根拠としてとくに挙げられるのが、屋根の意匠です。一階正面玄関の上には、寺社の門や城郭にも見られる優雅な曲線を描く「唐破風」が掲げられ、その上、脱衣室屋根の東正面には三角形の「千鳥破風」が施されています。本来は格式ある社寺建築のための装飾であった二つの破風が、庶民の入浴施設のために惜しみなく用いられている ― ここに、東京型銭湯の発想の大胆さと、当時の職人の心意気が表れています。
九十年を耐えてきた内部空間
建物内部に目を移すと、浴室の天井中央には「越屋根」が掲げられ、高窓から自然光と湯気の換気を取り入れる構造になっています。西側の壁面には、男湯と女湯の境を越えて一枚に描かれたペンキ絵が広がり、富士山を主題とする現代の銭湯絵師による絵が、令和二年に塗り直されました。脱衣室の松をあしらった格天井、漆喰の白壁、玄関外壁を飾る昭和初期の布目湿式施釉タイル ― そのいずれもが、建築当時の意匠を伝える要素として、いまも生きて使われています。
小杉湯の見どころ
名物「ミルク風呂」
小杉湯といえば、白く濁った乳白色の湯「ミルク風呂」が看板です。乳成分を加えたお湯に体を沈めると、ふわりとした感触と、ほの甘い香りが広がります。長年の常連が「まずはこの湯から」と決めている、いわば小杉湯の顔です。
井戸水を掛け流す水風呂
地下九十メートルから汲み上げた井戸水を、ふんだんに掛け流しで使う水風呂は、年間を通して水温およそ十五度から十六度に保たれます。常に新鮮な水が注がれているため清涼感が際立ち、サウナ愛好家のあいだでは「都内屈指の水風呂」として知られる存在です。
聖地と呼ばれる「温冷交互浴」
充実した熱い湯と、絶妙な冷たさの水風呂 ― この二つがそろっている小杉湯は、温冷交互浴の聖地と呼ばれています。熱い湯に三分ほど浸かり、水風呂に一分ほど身を沈める、これを数回くり返すことで自律神経が整い、深い心地よさが訪れる ― そんな体験を求めて、夜ごとに人びとが集います。
大壁面のペンキ絵
浴室西側の壁面いっぱいに描かれた富士山のペンキ絵は、現代に残る数少ない銭湯絵師の手によるもの。男湯と女湯を一枚絵としてつなぐ伝統的な構図で、湯に浸かりながら正面に望む富士の姿は、何度訪れても見飽きることがありません。
週替わり・日替わりの企画湯
小杉湯では、複数ある浴槽のひとつを「変わり湯」として、週替わりや日替わりで内容を入れかえています。柑橘類、桜、地元酒蔵の日本酒、ハーブなど、季節と地域に寄りそった企画が次つぎと登場するため、何度通っても新鮮な驚きがあります。
創造的な人びとが集う場として
三代目の代になってから、小杉湯は音楽、アート、デザイン、出版、ヨガなど、さまざまな分野の人びとが集う文化の場としても知られるようになりました。隣地に開かれた「小杉湯となり」は、銭湯付きの暮らしを試す共用空間として注目されています。それでも建物の本分はあくまで「街の銭湯」であり続けている ― そのバランス感覚が、現代の小杉湯の魅力をかたちづくっています。
はじめての利用ガイド
銭湯ははじめての方でも、簡単な作法さえ守れば気持ちよく過ごせます。受付で入浴料をお支払いし、男女別の脱衣所で着衣をすべて脱ぎ(水着の着用はしません)、浴室の洗い場でしっかり体と髪を洗ってから湯船に入ります。タオルは湯のなかには入れません。タオルや石けん、シャンプーは受付で借りたり購入したりすることもできるので、手ぶらで訪れても支障はありません。タトゥーがある方も、都内の銭湯では受け入れられているのが一般的で、小杉湯も例外ではありませんが、気になる方は受付でひと声かけてみるとよいでしょう。
周辺のたのしみ
高円寺は、古着屋、古本屋、ライブハウス、立ち呑み屋、カレー店などが密集する、東京を代表するサブカルチャーの街として知られます。湯上がりに、徒歩数分以内で個性ある飲食店をいくつも選べる土地柄ですから、温まったあとの一杯までを含めて「小杉湯体験」と考えるのが地元流です。毎年八月末には日本有数の盆踊りである「東京高円寺阿波おどり」が開催され、街は数百の連と数百万の観客でにぎわいます。文化財銭湯と祭りの街、その両方を一度に味わえるのが高円寺の懐の深さです。
Q&A
- 観光客でも気軽に利用できますか。
- どなたでも自由にご利用いただけます。会員制ではなく、予約も必要ありません。地元の常連の方も、初めて訪れる旅行者の方も、同じ受付で同じ料金をお支払いして入浴する、それが銭湯のよさです。
- 入浴料はどのくらいですか。
- 東京都の公衆浴場の入浴料は東京都が定める統制料金で、大人で数百円台と良心的に保たれています。タオルや石けんなどの貸出・販売は別料金です。最新の料金は、公式サイトでご確認ください。
- タトゥーがあるのですが入れますか。
- 温泉地と異なり、東京の街なかの銭湯ではタトゥーのある方の利用が広く受け入れられており、小杉湯も同様です。気になる場合は、受付で一言お声がけください。
- 手ぶらで行っても大丈夫ですか。
- 問題ありません。タオルの貸出・販売、石けん・シャンプーの提供がありますので、思い立ったときに立ち寄っていただけます。
- いつ行くのがおすすめですか。
- ゆったり過ごしたい方には、平日の開店直後がおすすめです。地元の人びとが行き交う活気を味わいたい方には、夕方から夜の時間帯がよいでしょう。土日祝は朝から営業しているため、サウナ愛好家には朝の水風呂もたいへん人気です。定休日は毎週木曜日です。
基本情報
| 名称 | 小杉湯(こすぎゆ) |
|---|---|
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物)/令和二年(二〇二〇年)八月十七日登録 |
| 建築年 | 昭和八年(一九三三年) |
| 構造・規模 | 木造二階建、瓦葺及び金属板葺、建築面積二八七平方メートル、一棟 |
| 建築様式 | 東京型銭湯。一階玄関上に唐破風、脱衣室屋根東正面に千鳥破風を掲げる。浴室中央に越屋根、西壁に男女浴室をまたぐペンキ絵を描く。 |
| 所在地 | 東京都杉並区高円寺北三丁目1003-11(営業所在地:高円寺北3-32-2) |
| アクセス | JR中央線・総武線「高円寺」駅北口から徒歩約五分 |
| 営業時間 | 平日は午後から深夜まで/土日祝は朝から深夜まで。毎週木曜日定休。最新情報は公式サイトでご確認ください。 |
| 電話番号 | 03-3337-6198 |
| 公式サイト | https://kosugiyu.co.jp/ |
参考文献
- 文化遺産オンライン「小杉湯」(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/516274
- 国指定文化財等データベース「小杉湯」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013358
- 小杉湯 公式サイト
- https://kosugiyu.co.jp/
- すぎなみ銭湯(杉並浴場組合公式サイト)「小杉湯」
- https://suginami1010.com/kosugiyu/
- 東京銭湯マップ「小杉湯」(東京都浴場組合)
- https://www.1010.or.jp/map/item/item-cnt-383
- 東京新聞「高円寺・小杉湯 国の登録有形文化財に 東京型銭湯 関東大震災の復興の産物」
- https://www.tokyo-np.co.jp/article/83711
最終更新日: 2026.05.03