散り散りになった一具のうちの三巻

東京国立博物館の書跡の収蔵品のなかに、金銀を撒いた料紙に法華経を記した三巻の巻物がある。久能寺経と呼ばれる名高い一群に属し、その名は、長く伝来した寺、静岡の久能山にあった久能寺(現在の鉄舟寺)に由来する。ここにある三巻は、開経にあたる無量義経と、法華経そのものの二品、すなわち法師品と安楽行品を記す。

これを理解するには、全体の姿を思い描く必要がある。久能寺経は結縁一品経として企てられた。多くの手が功徳を分かち合えるように写された経である。法華経は八巻二十八品に分かれ、これに開経と結経を加えると三十巻に達する。その一巻ずつを一人の結縁者が受け持ち、各巻の巻末には担当した人物の名が記される。

その名は高貴な人々を指し示す。鳥羽法皇の皇后である待賢門院を中心とする一群で、法皇自身や女御、女房たちが名を連ねた。制作は十二世紀、平安時代の後期にあたり、宮廷が写経を金箔と彩られた料紙の技へと高めた時代である。

重要文化財、そして名高い諸巻より古い

はじめに気をつけたい点がある。東京国立博物館の三巻は重要文化財で、指定は昭和二十七年(一九五二)三月二十九日にあたる。国宝の諸巻ではない。三十巻からなる一具は長い年月のうちに散逸し、各巻はそれぞれの道をたどった。鉄舟寺に残る十九巻は国宝、当館の三巻のほか、五島美術館に二巻、個人蔵に四巻、そして残りの四巻は所在が知られていない。鉄舟寺以外の諸巻は重要文化財の区分にある。

区分はさておき、久能寺経はその古さにおいて重い意味をもつ。平家が厳島に奉納した名高い平家納経よりも年代が古く、まとまった数で今に残る装飾経としては最古級に位置づけられる。これらの三巻は、聖なる経典が同時に華やかな造形でもありうるという考えを宮廷が練り上げた、その源流の近くに立っている。

巻末に記された結縁者の名は確かな証拠である。一方で、この一具が当初は鳥羽天皇の勅願寺である京都の安楽寿院に納められ、のちに久能寺へ移されたという経緯は学術的な再構成にもとづく。結縁の顔ぶれも、同時代の単一の記録ではなく、各巻の奥書から読み取られたものである。

装飾を読む

展示の機会に目を近づけると、料紙の表面が技法として立ち上がってくる。三巻とも金銀で加飾されている。小さな切箔、砂のように細かく撒いた砂子、細い糸状の野毛が、紙面に散らされる。文字の列を整える界線は墨ではなく銀泥で引かれ、多くの写経者ならわざわざ手をかけないであろう静かな洗練がそこにある。

なかでも安楽行品が際立つ。天地の余白に金銀泥で蓮や唐草が描かれ、経文は装飾の野を貫いて流れる。その効果は意図されたものだ。この考え方では、功徳は労力と材料によって敬われ、結縁者はその双方を惜しまなかった。

実用上のひとことを添えたい。これほど脆い作品は常時の展示に耐えないため、博物館の展示替えのなかで期間を限って姿を見せる。訪れたときに目当ての一巻が出ているとは限らない。わざわざ足を運ぶ前に、東京国立博物館の展示予定を確かめてほしい。三巻すべての高精細画像は、国立文化財機構のe国宝で公開されており、いつでも金の細工を読み解くことができる。

Q&A

Q久能寺経は国宝ですか。
A一部は国宝です。鉄舟寺に残る十九巻は国宝に指定されています。ここで扱う東京国立博物館の三巻は重要文化財で、昭和二十七年(一九五二)の指定です。
Q三巻はどのお経ですか。
A開経にあたる無量義経と、法華経の二品、すなわち法師品と安楽行品です。
Q誰が作ったのですか。
A鳥羽法皇の皇后である待賢門院を中心とした、平安時代の貴族の一群です。もとの三十巻はそれぞれ一人の結縁者が受け持ち、その名が各巻の巻末に記されています。
Q装飾のどこが特別なのですか。
A料紙には金銀の切箔・砂子・野毛が施され、界線は銀泥で引かれます。安楽行品にはさらに、天地に金銀泥の蓮や唐草の文様が加えられています。
Q博物館でいつでも見られますか。
Aいつでもとはいきません。脆い古い巻物のため期間を限って展示されますので、事前に展示予定をご確認ください。画像はe国宝で公開されています。

基本情報

名称法華経〈法師品、安楽行品/無量義経(久能寺経)〉
収蔵施設東京国立博物館(東京都台東区上野公園13-9)
所有者独立行政法人国立文化財機構
区分重要文化財(書跡・典籍)
指定年月日昭和27年(1952)3月29日
時代平安時代(12世紀)
員数3巻
公開状況展示は期間限定。事前に展示予定の確認を。画像はe国宝で公開。

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):法華経(久能寺経)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8161
e国宝(国立文化財機構):法華経(久能寺経)安楽行品
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100369&content_part_id=002&content_pict_id=0&langId=ja
文化遺産オンライン(NII):法華経(久能寺経)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/200323
五島美術館:久能寺経 法華経法師功徳品
https://www.gotoh-museum.or.jp/2020/10/08/08-206-373/

最終更新日: 2026.06.22