久能寺経〈序品/法師功徳品〉― 院政期の宮廷が結んだ装飾経
経文の一字が始まる前から、料紙はすでに輝いている。金銀を切箔・砂子・野毛として全面に蒔き、その上に群青や緑青で蓮池と水禽が描かれる。五島美術館が所蔵する『法華経』二巻、世にいう久能寺経である。一巻は冒頭の序品第一、もう一巻は巻第十九にあたる法師功徳品で、いずれも平安時代の装飾経の遺品にあたる。
法華経は当代もっとも広く尊ばれた経典であり、書写そのものが功徳を生む信仰行為とされた。久能寺経では、その行為が宝飾の域にまで磨き上げられている。
三十巻、三十の手
久能寺経は結縁一品経として作られた。法華経二十八品に開経の無量義経・結経の観普賢経を加えて三十巻に分け、三十人が一巻ずつを担う形式である。各巻末に記された名から、結縁者は鳥羽法皇とその皇后待賢門院を中心とする一群、女御や女房らであったことが知られる。制作は永治元年(一一四一)頃、待賢門院の出家に関わる時期とされる。
これは平清盛らが奉納した平家納経(一一六〇年代)よりおよそ四半世紀さかのぼり、まとまった装飾法華経の遺品としては現存最古に位置づけられる。各品を別々の筆が担ったため、巻ごとに書風も装飾も異なり、一個の発願というより個々の供養が集まった趣をもつ。
当初は鳥羽法皇の勅願寺・安楽寿院(京都)に納められ、のちに駿河国久能山麓の久能寺へ移された。名の由来はこの第二の所在地にある。久能寺は明治期に山岡鉄舟が再興し、現在は鉄舟寺と称する。
重要文化財という区分
五島美術館の二巻は昭和二十七年(一九五二)三月二十九日に重要文化財に指定された。日本の文化財制度は国宝を頂点に、その一段下に重要文化財を置くが、久能寺経は散逸の経緯ゆえに両区分にまたがっている。三十巻はまとまって伝わらなかった。鉄舟寺に残る十九巻は国宝、東京国立博物館の三巻と五島美術館の二巻は重要文化財、ほかは個人の手に渡り、数巻は所在を失っている。
区分が分かれる事実は、指定が作品の優劣だけでなく伝来の偶然にも左右されることを示す。序品と法師功徳品は、国宝とされた他巻と同じ宮廷の営みから生まれながら、本体から切り離されて単独で評価されたにすぎない。
見どころ
装飾は見える面のすべて、表紙、見返し、本紙の表裏にまで及ぶ。見返しには宝相華唐草文が配され、本紙には金銀の切箔・砂子が散らされ、本文の界線は墨ではなく金銀泥で引かれている。蓮池と水禽は浄土の図像に連なるもので、泥中から清浄を立ち上げる蓮は仏教美術の象徴である。
時の経過は容赦がない。とりわけ法師功徳品の損傷は激しく、八百年余を持ちこたえてきた脆い美をいま目にできること自体が見どころでもある。五島美術館での公開は折々に限られ、しかも一巻ずつであることが多い。一度の来館で両巻に出会えるのはまれである。展観の機会には、文字とともに料紙の表情を読みたい。
周辺の見どころ
五島美術館は昭和三十五年(一九六〇)、東急の事業家・五島慶太の収集を基に開館し、日本と東洋の古美術を専門とする。多摩川の谷へ向かって下る庭園はそれ自体が見もので、石仏や茶室が点在する。最寄りは東急大井町線の上野毛駅で、徒歩圏にある。
料紙は光と劣化に弱く、常時の展示はされていない。久能寺経を目当てに訪ねるなら、まず会期を確認したい。古写経や初期の書は、季節ごとの特別展でまとめて出されることが多い。
Q&A
- いつ訪ねても見られますか。
- いいえ。脆弱なため特定の展覧会でのみ、多くは一巻ずつ公開されます。目当てにする場合は五島美術館の会期を事前に確認してください。
- なぜ国宝の巻と重要文化財の巻があるのですか。
- 当初三十巻が散逸したためです。まとまって鉄舟寺に残る十九巻は国宝、分かれて伝わったこの二巻などは単独で重要文化財に指定されました。
- 結縁一品経とは何ですか。
- 一つの経典を分け、各人が一部分ずつを書写する供養の形式です。久能寺経では鳥羽法皇周辺の三十人が一巻ずつを担いました。
- 平家納経とどちらが古いのですか。
- 久能寺経は永治元年(一一四一)頃で、一一六〇年代の平家納経より約四半世紀古く、まとまった装飾法華経としては現存最古です。
- アクセスは。
- 東急大井町線の上野毛駅から徒歩圏です(東京都世田谷区)。
基本情報
| 名称 | 法華経〈序品/法師功徳品〉(久能寺経) |
|---|---|
| 所在地・保管 | 五島美術館(東京都世田谷区上野毛3-9-25) |
| 指定区分 | 重要文化財(書跡・典籍) |
| 指定年月日 | 昭和27年(1952)3月29日 |
| 員数 | 2巻 |
| 時代 | 平安時代(永治元年〔1141〕頃) |
| 形状 | 装飾経(巻子)。金銀の切箔・砂子・野毛、蓮池・水禽の彩画、見返しに宝相華唐草文 |
| 所有者 | 公益財団法人五島美術館 |
| アクセス | 東急大井町線上野毛駅より徒歩圏 |
| 公開状況 | 特別展時のみ公開(会期要確認) |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁)― 法華経(久能寺経)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8167
- e国宝(国立文化財機構)― 法華経(久能寺経)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100369
- 五島美術館 ― 久能寺経 法華経法師功徳品 巻第十九
- https://www.gotoh-museum.or.jp/2020/10/08/08-206-373/
- しずおか文化財ナビ(静岡県)― 法華経(久能寺経)
- https://www.pref.shizuoka.jp/...1021036.html
最終更新日: 2026.06.22