流水に車輪が浮かぶ、平安の蒔絵手箱
片輪車螺鈿蒔絵手箱は、蓋と身の全面に同じ一つの図様をくり返している。流れる水に、半ば沈んだ牛車の車輪である。平安時代も終わりに近い十二世紀の作で、昭和二十七年(一九五二年)に国宝に指定された。現在は東京国立博物館が所蔵する。
手箱とは、化粧道具や料紙、櫛といった身のまわりの品を納めた調度の箱をいう。本品は縦二十二・四センチ、横三十三・三センチ、高さ十三センチほどの小ぶりな箱で、蓋を身にかぶせる被蓋造になっている。甲には緩やかな盛り上がりがあり、隅は丸く取られている。角張った容器というより、手のひらに収まる柔らかな膨らみとして目に映る。
口縁には細い錫の縁がめぐらされ、身の長い側面の中央には、車輪をかたどった銀製の紐金物が打たれている。表に描かれた車輪の図様が、ここでは金具となってくり返される。漆と貝と銀が、一つの主題のもとにまとめあげられている。
なぜ水に浸かった車輪なのか
この図様を片輪車と呼ぶ。輪の一部だけが見える車輪、という意味である。平安貴族の乗り物は牛にひかせる牛車で、その車輪は木で組まれていた。木は乾けば割れ、ゆがむ。それを防ぐため、人々は車輪を川や流れに浸して湿りを保たせた。水に半ば沈んだ車輪は、平安の暮らしのなかで珍しくない光景であり、絵師や蒔絵師はそれを好んで意匠に取り入れた。
同じ流水と車輪の組み合わせは、この時代の和鏡や、装飾経の料紙下絵にも見える。本品では、蓋から側面にかけて車輪が一定の律動で散らされ、それぞれが少しずつ向きを変え、その間を水の文様が縫っていく。
もう一つの見方がある。本品はもともと化粧の箱ではなく、経巻を納める経箱として造られた可能性が高いとされる。この解釈では、水とそこに浮かぶ車輪は、極楽浄土の池に咲く大蓮華の姿に重ねられたものと読まれる。日常の情景と信仰の像が、一つの文様のなかに同居している。見るほどに尽きない理由が、ここにある。
技法と、その値打ち
表面のほぼ全体は蒔絵で組み立てられている。ここで使われたのは研出蒔絵という手法である。漆で文様を描き、乾く前に金や銀の粉をまき、さらに上から漆を塗り込め、固まったのちに表面を研ぎ出す。仕上がった文様は盛り上がらず、地と同じ高さで平らに沈む。暗い水面のすぐ下に像が留まっているような効果が生まれる。
波文は金で、車輪には青金が用いられている。青金は金と銀の合金で、光の当たり方によって色味が冷たくも温かくも変わる。車輪の半数は金属ではなく螺鈿、すなわち薄く切った夜光貝を文様の形に切って漆地にはめ込んだもので、一部には毛彫りで輻のような線を添えている。地そのものは平塵地で、鑢で削った金属の粉を漆にまいて研ぎ平らにしている。
蓋を開ければ、内側にも外と同じ手間がかけられている。淡い地の上に、金銀の研出蒔絵で折枝が散らされる。松、桜、梅、楓、橘、柳、菊、竜胆、薄、桔梗、女郎花。そのあいだを蝶や飛鳥がよぎる。
本品が美しさを超えて重んじられるのは、その希少さによる。平安時代の蒔絵に螺鈿を交えた遺品は、今日ほとんど残っていない。残された数がきわめて少ないため、これほど整い、これほど巧みな一品は、十二世紀の宮廷の蒔絵師がどう仕事をしたかを示す証として、ことに重い意味をもつ。昭和六年(一九三一年)に重要文化財、昭和二十七年に国宝へと指定が進んだ。
見どころ
箱は小さい。離れて眺めるよりも、近づいてゆっくり見るほうが報われる。展示ケースに立ち、蓋の上を走る車輪の列を一つずつ目で追うと、まったく同じ車輪は二つとなく、水もまた機械的な格子に落ち着いていないことに気づく。
静かでありながら最も印象に残るのは、青金の効果である。立つ位置をずらすと、淡い金の車輪は銀へと冷め、また金へと温まる。照明のもとで表面が呼吸しているように見える。金属の車輪と、その近くにある貝の車輪を見比べれば、輝きの質の違いがはっきりする。漆の金は静かに光り、はめ込まれた貝は虹色にまたたく。
もう一つ探したいのは、身の側面に打たれた銀の金具である。透かし彫りの車輪の形をしている。見落としやすいが、一つの主題が金具にいたるまで箱の全体を貫いていることを教えてくれる。
鑑賞と、まわりの見どころ
本品は、上野公園の北端に建つ東京国立博物館の所蔵である。同館は日本でもっとも古く、もっとも大きな博物館でもある。漆工をはじめ光に弱い作品は、常設ではなく展示替えのなかでめぐらされるため、本品が出るのは折々に限られる。実物を目当てに訪ねる場合は、訪問前に同館の展示予定を確かめておくとよい。多くの日は収蔵庫で休んでいる。
本品が出ていないときでも、同館の漆工、絵画、彫刻、刀剣の収蔵は一日かけて見るに足る。まわりの上野公園には、国立西洋美術館、国立科学博物館、東京都美術館など、東京の主要な施設が徒歩圏に集まっている。公園はJR・東京メトロの上野駅から歩いてすぐである。
車輪の意匠を生んだ牛車の文化に惹かれる人には、絵巻物のなかの牛車や、今も牛車を曳く神社の祭礼が、この箱がそっと留めた乗り物の姿を生きた形で見せてくれる。
Q&A
- 水に浸かった車輪の文様には、どんな意味があるのですか。
- 平安貴族の牛車の木の車輪が、乾いて割れるのを防ぐため流水に浸された情景を表しています。実際の習慣が好まれた意匠となり、極楽浄土の池に咲く蓮華の像を重ねて読む見方もあります。
- これは本当に化粧のための箱なのですか。
- 手箱と呼ばれていますが、経巻を納める経箱として造られた可能性が高いとする研究者が少なくありません。本来の用途は確定しておらず、どちらの見方も真剣に検討されています。
- 蒔絵と螺鈿はどう違うのですか。
- 蒔絵は漆で描いた文様に金銀の粉をまく装飾、螺鈿は虹色に光る貝を漆地にはめ込む装飾です。本品は両方を使い、波と多くの車輪は金と青金の蒔絵、残りの車輪は貝のはめ込みで表されています。
- なぜそれほど重要とされるのですか。
- 平安時代の蒔絵に螺鈿を交えた遺品はごくわずかしか残っていません。十二世紀の完成度の高い一品として、美術としても、当時の宮廷漆工の技を示す数少ない実物としても貴重で、一九五二年に国宝に指定されました。
- 東京国立博物館でいつでも見られますか。
- いいえ。傷みやすい漆工品のため、展示替えのなかで折々に公開され、一年の多くは収蔵されています。実物を目当てに訪ねる際は、事前に同館の展示情報を確かめてください。
基本情報
| 名称 | 片輪車螺鈿蒔絵手箱(かたわぐるまらでんまきえてばこ) |
|---|---|
| 種別 | 工芸品(漆工) |
| 指定区分 | 国宝(昭和27年〔1952年〕11月22日指定。昭和6年〔1931年〕12月14日重要文化財指定) |
| 時代 | 平安時代・12世紀 |
| 員数 | 1合 |
| 寸法 | 縦22.4cm、横33.3cm、高13.0cm |
| 技法 | 木製漆塗。金・青金の研出蒔絵に螺鈿を交える。平塵地、口縁に錫縁、車輪形の銀製紐金物 |
| 所有者 | 独立行政法人国立文化財機構 |
| 所在地 | 東京国立博物館(東京都台東区上野公園13-9) |
| 公開状況 | 展示替えにより随時公開。常設展示ではない |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/351
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/270357
- e国宝(国立文化財機構)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100197&langId=ja
- 東京国立博物館
- https://www.tnm.jp/
最終更新日: 2026.06.12