明恵上人歌集〈高信筆〉——鎌倉の名僧が遺した唯一の歌集、京都国立博物館に伝わる国宝巻子本

京都国立博物館に静かに守り伝えられる一巻の巻子本があります。鎌倉時代を代表する名僧・明恵上人(みょうえしょうにん、1173〜1232)の和歌を、高弟の順性房高信(じゅんしょうぼうこうしん)が宝治2年(1248)に書写した『明恵上人歌集』です。昭和27年(1952)11月22日に国宝に指定されたこの巻物は、現存する明恵唯一の歌集として、その人となりと信仰の境地を今に伝えるかけがえのない資料となっています。書跡・典籍の国宝に関心のある方、あるいは中世日本の仏教と文学の交差点をたどりたい方にとって、その実物に出会える機会は旅の大きな喜びとなるはずです。

『明恵上人歌集〈高信筆〉』とは

『明恵上人歌集』は、縦27.8cm、横1350cmにおよぶ一巻の巻子本(巻物形式)で、全155首の和歌を収めています。そのうち明恵自身の作は112首、明恵と歌を詠み交わした人々による贈答歌が43首、連歌が1首含まれています。

編纂したのは、明恵の高弟である順性房高信です。高信は師の十七回忌にあたる宝治2年(1248)暮春八日、自ら筆を執ってこの巻物を仕立てました。前半には、明恵自身が編んだ自撰集『遣心和歌集(けんしんわかしゅう)』『楞伽山伝(りょうがさんでん)』から選ばれた歌が収められ、後半には高信が新たに集めた詠草(歌の草稿)が並びます。前半の典拠である二書はいずれも散逸しており、本書がなければ明恵の歌の大部分は歴史から失われていた可能性が高いのです。

また、明恵の歌のうち8首は『新勅撰和歌集』以下の勅撰集に入集しており、本歌集にはそれぞれ勅撰集名が明記されています。高信の丁寧な編集姿勢がうかがえる一点です。

明恵上人とはどのような人物か

この歌集を理解するためには、まず明恵その人を知る必要があります。諱(いみな)は高弁、房号が明恵。承安3年(1173)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田郡金屋町付近)に生まれました。父は平重国、母は紀州の武士・湯浅宗重の娘で、両親を早くに失った8歳の少年は、母方の叔父で『和歌色葉』の著者としても知られる上覚を頼って、京都高雄山の神護寺に入ります。文覚(もんがく)の弟子となり、文治2年(1186)に出家、16歳で東大寺にて受戒しました。

建永元年(1206)、後鳥羽院から洛北・栂尾(とがのお)の地を賜り、ここに華厳宗興隆の道場として高山寺を開きます。華厳学と密教を修めた明恵は、釈尊への激しい思慕から若き日に右耳を切り落とし、さらに二度にわたってインド行きを計画したことでも知られます。約40年にわたって夢の記録『夢記(ゆめのき)』を綴り続けたことも、中世日本の宗教者のなかで際立った特質です。

承久の乱(1221)の際には後鳥羽院方の武士をかくまったかどで六波羅に連行されますが、かえって明恵の説法に感銘を受けた北条泰時が帰依したと伝えられています。貞永元年(1232)、高山寺禅堂院にて入寂、享年60。その教えは定真・喜海・霊典・高信ら高弟たちによって受け継がれました。

なぜ国宝に指定されているのか

本書は昭和27年(1952)11月22日、文化財保護法のもとで国宝に指定されました。その価値は複数の観点から語ることができます。

第一に、希少性。高信が典拠とした『遣心和歌集』『楞伽山伝』がすでに散逸している以上、本歌集は現存する明恵唯一の和歌集です。日本を代表する宗教者の肉声を、和歌というかたちで今に伝える他に代えがたい一本です。

第二に、信頼性。巻末に「宝治二年暮春八日」の奥書を備え、制作の時期と経緯が明確です。しかも書写したのは明恵の身近で教えを受けた弟子・高信自身であり、伝来の確かさにおいて群を抜きます。

第三に、書としての価値。漢字かな交じりの流麗な書風で、高信の特徴である縦長の字形は、師明恵の筆跡に通じるところがあるとも指摘されます。13世紀中葉の僧侶筆蹟の資料としても一級品です。

第四に、文学史的・思想史的な意義。明恵の歌は、仏道修行の日々から生まれた自在で深い境地を示しており、和歌と仏教の関わりを考えるうえでの基本文献となっています。

見どころ

「あかあかや」——月への忘我の一首

本歌集に収められるなかでも特に名高いのが、月を詠んだ一首「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」です。「あか」という明るさを表す一語をただひたすら重ね、最後にようやく「月」を置くこの歌は、月を「描写する」のではなく、月のまばゆさそのものに「なりきろう」とするかのような、日本の古典和歌のなかでも屈指の実験的な作品と評されています。

西行との対話の記憶

『栂尾明恵上人伝記』によれば、若き日の明恵は神護寺を訪れた西行と対面し、歌論を聞いたと伝えられます。「一首詠みいでては一体の仏像を造る思いをなす」と語ったとされる西行と、和歌を仏道の一部としてとらえた明恵——。この思想的な結びつきが、本歌集の行間に流れていると見ることもできます。

巻子本としての構成

巻子装(巻物形式)の本書は、前半を明恵自選歌、後半を高信採集歌とする二部構成です。師自身の目が選んだ明恵と、弟子の目が捉えた明恵——二つの視点が一巻のうちに織り合わされています。現在は切断の跡があり、展覧会では冒頭から2m前後を展示することが多いようです。

見学情報

『明恵上人歌集〈高信筆〉』は京都国立博物館の所蔵品として管理番号B甲773で登録されています。紙本墨書の巻子本であるため、光による劣化を避けて常設展示ではなく、名品ギャラリーや特別展の折に公開されます。おおむね2〜3年に1度程度の公開機会があり、高山寺・明恵上人関連の展覧会や、他館への出陳(東京国立博物館や九州国立博物館、和歌山県立博物館など)でもたびたび登場してきました。訪問前に京都国立博物館の公式サイトで展示予定を確認することをお勧めします。

京都国立博物館自体は、明治28年(1895)に開館した煉瓦造の明治古都館(旧本館)と、2014年に開館した平成知新館(谷口吉生設計)からなる日本有数の総合博物館です。展示がない時期に訪れても、建築と広い前庭、季節の庭園を楽しむことができます。

周辺情報

京都国立博物館は東山・七条界隈に位置し、徒歩圏内に名刹が集まっています。主な周辺スポットは次の通りです。

  • 三十三間堂(国宝・蓮華王院本堂)——博物館の真向かいに立つ、千体千手観音立像で知られる長大な仏堂。
  • 智積院——長谷川等伯一派の障壁画(国宝)で名高い真言宗智山派の総本山。徒歩約5分。
  • 豊国神社——豊臣秀吉を祀る。徒歩約5分。
  • 清水寺——坂道と焼物街を抜けて徒歩圏。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産。

明恵への関心をさらに深めたい方には、京都市右京区・栂尾の高山寺への足を伸ばすことを強くお勧めします。明恵が開いたこの山寺には、国宝『鳥獣人物戯画』や明恵の坐像など、関連する文化財が伝えられています。「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されており、苔むした石段と杉木立のなかで、明恵が歌を詠んだ山気に触れることができます。

Q&A

Q京都国立博物館を訪れれば、いつでも『明恵上人歌集』を見ることができますか?
Aいいえ。紙本墨書の巻子本は光に弱いため、常設展示ではありません。2〜3年に1度程度、名品ギャラリーや特別展の折に期間限定で公開されます。訪問前に京都国立博物館の公式サイトで最新の展示情報をご確認ください。
Q書写者の高信とはどのような人物ですか?
A順性房高信は明恵上人の高弟のひとりで、定真・喜海・霊典らとともに師の教えを受け継いだ人物です。師の十七回忌にあたる宝治2年(1248)、師をしのんでこの歌集を編み、自ら書き写しました。
Q収められている和歌は何首ありますか?
A全部で155首が収録されています。内訳は明恵自身の歌112首、贈答の相手の歌43首(うち連歌1首)です。
Q明恵と西行のあいだには関わりがあったのでしょうか?
A『栂尾明恵上人伝記』には、若き日の明恵が神護寺を訪れた西行と対面し、和歌を仏道修行として詠むことについての談話を聞いたと伝えられています。和歌と仏教を結びつけるこの思想は、本歌集の底流にも流れていると考えられます。
Q歌集とあわせて訪れるとよい場所はありますか?
A京都市右京区の高山寺が最もふさわしい場所です。明恵が建永元年(1206)に後鳥羽院から賜って開いた山寺で、栂尾の深い杉木立のなかに、明恵が歌を詠み、修行した空気が今も残っています。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産でもあります。

基本情報

名称 明恵上人歌集〈高信筆〉(みょうえしょうにんかしゅう)
書写者 順性房高信(明恵の弟子)
和歌の作者 明恵上人(高弁、1173〜1232)
制作年 宝治2年(1248)、鎌倉時代
形式 巻子本(巻物)1巻、紙本墨書
寸法 縦27.8cm × 横1350cm
収録首数 全155首(明恵詠112首、贈答の相手43首、連歌1首を含む)
指定 国宝(1952年11月22日指定)
種別 書跡・典籍
管理番号 B甲773
所有者 独立行政法人国立文化財機構
所在地 京都国立博物館(京都府京都市東山区茶屋町527)

参考文献

e国宝「明恵上人歌集」(独立行政法人国立文化財機構)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101089
文化遺産オンライン「明恵上人歌集〈高信筆/〉」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148738
国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/653
高山寺公式サイト「明恵上人について」
https://kosanji.com/myoeshonin/
京都国立博物館(公式サイト)
https://www.kyohaku.go.jp/

最終更新日: 2026.04.23