碣石調幽蘭第五 — 世界最古の楽譜が伝える1400年の音色
東京・上野の東京国立博物館に、音楽の歴史を根本から書き換えるほどの至宝が静かに眠っています。国宝「碣石調幽蘭第五(けっせきちょう ゆうらん だいご)」は、現存する世界最古の器楽曲の完全な楽譜として知られる巻物です。全長4メートルを超えるこの紙の巻子本には、古代中国の弦楽器「古琴(こきん)」の演奏法が、一音一音、指使いの細部に至るまで漢字で丹念に記されています。
さらに驚くべきことに、この楽譜は中国本土ではすでに失われ、日本にのみ伝存する「佚存書(いっそんしょ)」です。中国と日本をまたぐ文化交流の歴史の中で、この貴重な巻物は千年以上にわたって大切に守り伝えられてきました。
古琴とは — 3000年の歴史を持つ楽器
古琴(こきん/グーチン)は、3000年以上の歴史を持つ中国最古の撥弦楽器のひとつです。7本の弦を張ったこの楽器は、単なる音楽の道具ではなく、古代中国の文人にとって「琴棋書画」(琴・碁・書・画)の筆頭に位置づけられる教養の象徴でした。琴を奏でることは、人格の高潔さや哲学的な深みを表現する行為とされていたのです。
その深い文化的意義から、2003年にユネスコは古琴とその音楽を「人類の無形文化遺産」に登録しました。「碣石調幽蘭」の楽譜は、この偉大な音楽伝統を文字として記録した、現存する最古の証拠なのです。
楽譜に刻まれた物語 — 丘明と幽蘭の伝承
巻物の序文によれば、この曲を伝えたのは会稽(現在の浙江省紹興市)出身の古琴の名手・丘明(きゅうめい)という人物です。丘明は南朝梁末期の動乱の時代に九疑山へ隠棲し、ひたすら古琴の演奏に打ち込みました。彼が奏でる数々の曲の中でも、「幽蘭」は最も優れた作品として称えられていました。
589年(禎明3年)、陳王朝の最後の年に、丘明はこの曲を宜都王・陳叔明に伝授しました。丘明は翌年の590年(隋の開皇10年)に97歳で世を去ったと伝えられています。現在残されている巻物は、唐時代(7世紀〜8世紀)に書写されたものと考えられています。
「幽蘭」の名に込められた意味 — 孔子と蘭の逸話
「幽蘭」とは「ひっそりと咲く蘭」を意味し、深い哲学的な含意を持っています。漢代の学者・蔡邕(さいよう)の『琴操』には、この曲にまつわる孔子の伝説が記録されています。諸国を遍歴しながらも自らの知恵が認められなかった孔子は、故国・魯に帰る途中、人知れず咲く蘭の花を谷間に見つけました。雑草の中でひっそりと気高く咲くその姿に、用いられることのない自身の境遇を重ね合わせ、「猗蘭操(いらんそう)」を作曲したと伝えられています。
また「碣石調(けっせきちょう)」という調は、三国時代の英雄・曹操(155〜220年)の詩に由来する舞曲の旋法とされています。「東に碣石に臨み、以て滄海を観る」という壮大な詩句から名付けられたこの調は、古代中国の文学と音楽が深く結びついていたことを物語っています。
なぜ国宝に指定されたのか
「碣石調幽蘭第五」は1954年(昭和29年)3月20日に国宝に指定されました。その文化的価値は多岐にわたります。
- 現存する世界最古の器楽曲の完全な楽譜であること。
- 通常の漢字を用いて演奏法を詳細に記述する「文字譜(もじふ)」という古代の記譜法の唯一の現存例であること。この記譜法は唐代に発明された略字式の「減字譜(げんじふ)」に取って代わられ、他には残っていません。
- 中国では失われ、日本にのみ伝存する「佚存書」として、東アジアの音楽史・文化史研究にとって比類のない資料であること。
- 隋唐時代の演奏実践や音楽美学を復元するための不可欠な一次資料であること。
日本への伝来と荻生徂徠による再発見
この巻物がいつ、どのようにして中国から日本に渡ったのかは、まだ完全には解明されていません。唐代の文化交流の中で、遣唐使が古琴の楽器や楽譜、関連書物を持ち帰った際に日本に伝わったと考えられています。長い間、京都市北区・西賀茂にある神光院に所蔵されていました。
この楽譜に再び光を当てたのが、江戸時代の碩学・荻生徂徠(おぎゅう そらい、1666〜1728年)です。1720年頃にこの巻物を目にした徂徠は、古代中国の真の音楽が日本に保存されていると確信し、精密な写本を作成するとともに、詳細な研究を著しました。徂徠の写本は現在、滋賀県の彦根城博物館に保管されています。
20世紀に入り、この楽譜の存在が中国に伝わると、伝説的な古琴の名手・管平湖(かんへいこ)が歴史的な復元演奏を行いました。徂徠の研究と原本の文字譜に基づき、数百年ぶりに「幽蘭」の旋律が現代によみがえったのです。現在ではその演奏の録音を聴くこともでき、1400年前の音楽のかすかな響きに触れることができます。
巻物の見どころ
「碣石調幽蘭第五」は紙本墨書の巻子本で、縦27.4センチメートル、全長423.1センチメートル(4メートル超)という壮大なスケールの作品です。書体は唐代初期に特徴的な方正な楷書体で、墨の色も鮮やかさを残しています。
本文は全て漢字で書かれており、どの弦を弾くか、どの柱(ポジション)を使うか、左右どちらの手のどの指でどのような技法を用いるかが、一音ずつ文章として詳細に記述されています。西洋の五線譜のように音の高さとリズムを抽象的に表すのではなく、まるで詳細な演奏マニュアルのように、奏者の身体の動きを逐一導く形式です。
巻末には59曲の古琴の楽曲と5つの短い調子合わせの前奏曲を収録した目録が付されています。「幽蘭」はこの目録の第五番目に記載されており、正式名称の「第五」の由来となっています。この目録は、唐代初期の古琴レパートリーの全体像を垣間見ることのできる貴重な資料です。
なお、非常に繊細で貴重な文化財であるため、常時公開されているわけではありません。展示替えにより公開時期が限られますので、ご覧になりたい場合は東京国立博物館の公式ウェブサイトで最新の展示スケジュールをご確認ください。
東京国立博物館について
東京国立博物館(通称「トーハク」)は、1872年(明治5年)に創設された日本最古かつ最大の博物館です。上野恩賜公園内に位置し、12万件を超える所蔵品の中には国宝89件、重要文化財650件が含まれています。本館(日本ギャラリー)、東洋館(アジアギャラリー)、平成館、法隆寺宝物館など、複数の特色ある建物で構成されており、日本とアジアの文化財を幅広く展示しています。
上野公園自体も東京有数の文化エリアであり、春には桜の名所として国内外から多くの来訪者を迎えます。
周辺の見どころ
東京国立博物館の周辺には、魅力的なスポットが数多くあります。上野公園内には、ル・コルビュジエ設計でユネスコ世界遺産に登録されている国立西洋美術館、国立科学博物館、東京都美術館などがあります。公園の南側にはアメ横商店街が賑わいを見せ、北側の谷中エリアでは昔ながらの東京の風情を楽しめます。また、浅草の浅草寺へも電車で気軽にアクセスできます。
Q&A
- 碣石調幽蘭第五とは何ですか?
- 現存する世界最古の器楽曲の完全な楽譜です。唐時代(7〜8世紀)に書写された古琴(中国の七弦琴)の楽譜で、「文字譜」と呼ばれる古代の記譜法で演奏指示が詳細に記されています。1954年に国宝に指定されました。
- 東京国立博物館を訪れればいつでも見ることができますか?
- 常時展示ではありません。非常に繊細な文化財であるため、展示替えにより公開される時期が限られます。ご覧になりたい場合は、事前に東京国立博物館の公式ウェブサイトで展示スケジュールをご確認ください。
- 外国語の案内はありますか?
- 東京国立博物館では、英語を含む多言語の音声ガイドや館内表示を提供しています。公式ウェブサイトやe国宝のデジタルギャラリーでも、主要な所蔵品の英語解説をご覧いただけます。
- 「幽蘭」の音楽を聴くことはできますか?
- はい。20世紀に中国の古琴の名手・管平湖がこの楽譜に基づいて復元演奏を行っており、その録音を聴くことができます。1400年以上前に生まれた音楽の響きに触れる貴重な体験です。
- 東京国立博物館へのアクセス方法を教えてください。
- JR上野駅(公園口)またはJR鶯谷駅(南口)から徒歩約10分です。東京メトロ銀座線・日比谷線の上野駅、千代田線の根津駅からは徒歩約15分です。京成電鉄・京成上野駅からも徒歩約15分でアクセスできます。
基本情報
| 正式名称 | 碣石調幽蘭第五(けっせきちょう ゆうらん だいご) |
|---|---|
| 指定 | 国宝(1954年〈昭和29年〉3月20日指定) |
| 種別 | 美術工芸品 — 書跡・典籍 |
| 時代 | 唐時代・7〜8世紀(曲の成立は6世紀末) |
| 材質・形態 | 紙本墨書 巻子本 1巻 |
| 法量 | 縦27.4cm × 全長423.1cm |
| 所蔵 | 東京国立博物館(列品番号 TB1393) |
| 所有者 | 独立行政法人国立文化財機構 |
| 所在地 | 〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9 |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は開館し翌平日休館)、年末年始 |
| 観覧料 | 一般 1,000円/大学生 500円/18歳未満および70歳以上は無料(特別展は別途) |
| アクセス | JR上野駅(公園口)・鶯谷駅(南口)から徒歩約10分、東京メトロ上野駅・根津駅から徒歩約15分 |
| 公式サイト | https://www.tnm.jp/ |
参考文献
- e国宝 — 碣石調幽蘭第五
- http://emuseum.nich.go.jp/detail/100229
- 文化遺産オンライン — 碣石調幽蘭第五
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125904
- 東京国立博物館 — 碣石調幽蘭第五 コレクション
- https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TB1393
- 碣石調幽蘭第五 — Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/碣石調幽蘭第五
- John Thompson's Silk Qin — You Lan (Secluded Orchid)
- http://www.silkqin.com/02qnpu/01yl.htm
- 東京国立博物館 — 来館案内
- https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=113
最終更新日: 2026.03.03