長保寺多宝塔:南北朝時代が生んだ純和様の国宝建築
和歌山県海南市の深い緑に包まれた山あいに、日本が誇る国宝建築のひとつ・長保寺多宝塔が静かに佇んでいます。正平12年(1357年)、南北朝時代の動乱の最中に建立されたこの多宝塔は、純和様の優美な意匠と卓越した建築技術で知られ、現存する多宝塔の中でも最高傑作のひとつと評価されています。国宝に指定された多宝塔は全国にわずか6基しかなく、長保寺の多宝塔はその貴重な一基です。
さらに特筆すべきは、長保寺では多宝塔だけでなく、本堂(延慶4年・1311年建立)と大門(嘉慶2年・1388年建立)もそれぞれ国宝に指定されていることです。本堂・塔・大門の三棟がそろって国宝である寺院は、奈良の法隆寺と長保寺のみ。鎌倉末期から室町初期という比較的近い時期に建てられた主要伽藍が揃って残っていることは、極めて珍しいと文化財の指定説明でも特記されています。
長保寺の歴史
長保寺は、長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、慈覚大師円仁の弟子である性空上人が創建したと伝えられています。寺号は創建時の元号「長保」にちなんで名付けられました。一条天皇の御代といえば、皇后定子に仕えた清少納言が『枕草子』を、中宮彰子に仕えた紫式部が『源氏物語』を著した時代。長保寺は、平安貴族文化の頂点に生まれた古刹なのです。
寛仁元年(1017年)頃までには七堂伽藍と子院十二ヶ坊が整備されたとされます。当初は現在地より西方に位置していましたが、鎌倉末期に現在地に移転し、現存する国宝建造物群はそれ以降に建立されました。
江戸時代に入ると、寛文6年(1666年)、徳川家康の十男で初代紀州藩主の徳川頼宣が、三方を山に囲まれた要害の地にあるこの寺を紀州徳川家の菩提寺に定めました。境内東側の斜面に広がる約1万坪の藩主廟所は、日本最大規模の大名墓所として国史跡に指定されています。歴代藩主のうち、後に将軍となった5代吉宗と13代慶福(家茂)の墓は江戸の寛永寺・増上寺にあるため、ここには含まれていません。
多宝塔の建築:純和様の至宝
多宝塔とは、密教系の天台宗・真言宗の寺院に特有の塔建築です。「多宝塔」の名は『法華経』見宝塔品に由来し、釈迦が法を説いていた際に大地から湧き出した七宝の塔に坐していた多宝如来にちなんでいます。外観は二重に見えますが、上層は象徴的な空間であり実際には使用できません。下層が方形、上層が円形という独特の構造を持ち、両者をつなぐ白い漆喰の部分は「亀腹(かめばら)」と呼ばれています。
長保寺多宝塔は、桁行三間・梁間三間の本瓦葺で、下重と上重の釣り合いが極めて良く、均整のとれた優美な姿を見せています。亀腹が著しく低く、屋根の勾配もゆるやかなため、全体として穏やかな安定感を醸し出しています。
本堂が和様と禅宗様(唐様)を折衷した様式であるのに対し、この多宝塔は外廻りを純和様で統一しています。力強い組物と美しい蟇股(かえるまた)は特に秀逸で、折上小組格天井の雄健な手法も見事です。初重の柱はすべて円柱で、内部には四天柱が立っています。
一方、内部の須弥壇は禅宗様で造られており、腰部の唐草彫刻はきわめて優美な作です。正面の勾欄は平桁がなく、蕨手(わらびて)と地覆の間に巴文の入った透彫りが施されているという、他に類例のない珍しい意匠です。心柱には「正平十二年丁酉十月三日」の墨書が残されており、建立年が明確に判明しています。本尊には金剛界大日如来坐像が安置されており、寺伝では長保寺創建当初からの最古の仏像とされています。
なぜ国宝に指定されたのか
長保寺多宝塔は、明治37年(1904年)8月29日に当時の制度のもとで国宝に指定され、昭和28年(1953年)3月31日に文化財保護法に基づく新制度の国宝に改めて指定されました。その指定理由には複数の重要な要素があります。
第一に、現存する多宝塔の中でも最高傑作のひとつと評価される建築的完成度です。一重と二重の釣り合いの良さ、安定した形態、そして細部にわたる優れた意匠が高く評価されています。
第二に、心柱の墨書によって建立年代が明確に判明していることです。中世建築の編年研究において極めて貴重な資料となっています。
第三に、外部の純和様と内部の禅宗様という、南北朝時代の建築における日本的伝統と大陸的様式の共存を示す好例であることです。本堂・大門とあわせて、比較的近い時代に建てられた伽藍の主要建物が揃って残っているという希少性も、指定の大きな理由となっています。
見どころ・魅力
長保寺多宝塔は、本堂に向かって右手に建っています。周囲に柵や囲いがないため、間近に寄って木造建築の細部を存分に観察することができます。風雨に磨かれた木肌、繊細な蟇股の曲線、穏やかな勾配の瓦屋根——ゆっくりと塔の周囲を歩きながら、660年以上の時を経た建築美を堪能してください。
多宝塔だけでなく、国宝の本堂と大門もぜひご覧ください。延慶4年(1311年)建立の本堂は、和様と禅宗様を見事に融合させた折衷様式の名建築です。嘉慶2年(1388年)に後小松天皇の勅宣を受けて再建された大門は、室町時代初期を代表する端正な楼門のひとつです。
本堂と多宝塔の間の小径を登ると、鎌倉時代後期の建築と推定される鎮守堂(重要文化財)があります。境内は桜と牡丹の名所としても全国的に知られ、「花の寺」としても親しまれています。寺域を覆う常緑広葉樹の林叢は、シイノキ・ホルトノキ・ヤマモモ・アラカシなどからなり、県の天然記念物に指定されています。
周辺情報
長保寺がある海南市下津町は、古くから熊野古道の沿道として栄えた歴史ある地域です。平安時代の皇族たちが熊野三山への参詣途中に立ち寄った王子社の跡(藤白王子、一壷王子など)が近隣に点在しており、古代からの信仰の道を偲ぶことができます。
海南市内にはもうひとつの国宝建築・善福院釈迦堂もあり、国宝建造物の密度が高い地域です。また、近隣の黒江地区は「紀州漆器」の産地として知られ、室町時代にまで遡る漆器の歴史と風情ある町並みを楽しむことができます。
足を延ばせば、万葉の時代から歌に詠まれてきた和歌浦の景勝地や、新鮮な海の幸が楽しめる黒潮市場(和歌山マリーナシティ)にもアクセスしやすい立地です。熊野古道紀伊路の街道歩きと組み合わせれば、文化遺産と自然の美しさを同時に楽しむ充実した旅程を組むことができるでしょう。
Q&A
- 多宝塔の内部を見学することはできますか?
- 多宝塔の内部は通常非公開です。ただし、塔の周囲に柵がないため、外観の細部を間近で観察することができます。本堂の内拝と住職による説法は予約制で受け付けています。
- 参拝に最適な季節はいつですか?
- 桜の季節(3月下旬〜4月中旬)は国宝建築と花の競演が楽しめます。4月下旬〜5月上旬は牡丹の季節です。紅葉の秋も美しく、冬は静寂の中で心静かに参拝できます。
- 公共交通機関でのアクセスを教えてください。
- 最寄り駅はJRきのくに線(紀勢本線)の下津駅ですが、下津駅にはタクシーが常駐していないため、加茂郷駅からタクシーで約10分のアクセスが便利です。海南市コミュニティバス(鰈川線)を利用すれば下津駅から寺の目の前のバス停まで行けますが、1日3本程度で日祝は運休のためご注意ください。
- 駐車場はありますか?
- 寺の近くに参拝者用の駐車場があります。自家用車でのアクセスも可能で、阪和自動車道の下津ICが最寄りのインターチェンジです。
- 紀州徳川家の墓所は見学できますか?
- 墓所は国史跡に指定されていますが、過去の台風被害により一部区域が立ち入り禁止となっている場合があります。最新の状況は長保寺に直接お問い合わせください(TEL: 073-492-1030)。
基本情報
| 名称 | 長保寺多宝塔(ちょうほうじたほうとう) |
|---|---|
| 指定 | 国宝(昭和28年3月31日指定/明治37年8月29日旧国宝指定) |
| 建立年 | 正平12年(1357年)南北朝時代 |
| 構造・形式 | 三間多宝塔、本瓦葺、純和様 |
| 本尊 | 金剛界大日如来坐像 |
| 所在寺院 | 慶徳山長保寺(天台宗) |
| 所在地 | 〒649-0164 和歌山県海南市下津町上689 |
| 拝観時間 | 9:00〜16:00 |
| 拝観料 | 300円(小学生以下無料) |
| アクセス | JR加茂郷駅からタクシー約10分。海南市コミュニティバス「長保寺」バス停下車すぐ(1日約3本、日祝運休)。 |
| 電話 | 073-492-1030 |
| 公式サイト | https://www.chohoji.or.jp/ |
参考文献
- 国宝-建築|長保寺 多宝塔[和歌山] | WANDER 国宝
- https://wanderkokuho.com/102-02838/
- 長保寺/海南市公式ウェブサイト
- https://www.city.kainan.lg.jp/kanko/midokoro/bunkazai/chohoji.html
- 長保寺多宝塔 | わかやまの文化財
- https://wakayama-bunkazai.jp/bunkazai/bunkazai_222/
- 国宝 長保寺多宝塔解説 | 長保寺公式サイト
- https://www.chohoji.or.jp/intro/tou-2.htm
- 長保寺多宝塔 - 文化遺産データベース(bunka.nii.ac.jp)
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/157375
- 長保寺 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/長保寺
- 和歌山県公式観光サイト - 長保寺
- https://www.wakayama-kanko.or.jp/spots/detail_1055.html
- 長保寺・国宝 多宝塔 | ニッポン旅マガジン
- https://tabi-mag.jp/wa0327/
最終更新日: 2026.03.03