カナダ帰りの漁師が建てた家

この住宅の来歴は、和歌山の海辺ではなく、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のフレーザー川にさかのぼる。三尾(みお)の出身で、スティーブストン近郊の鮭漁によって財を築いた田中松蔵が、昭和8年(1933年)頃に故郷へ戻り、村の中心部の高台に敷地を取得して建てたのが、現在「遊心庵」と呼ばれる主屋である。

道路から見ると、桟瓦葺の入母屋屋根をのせた平屋建ての、手入れの行き届いた住宅という印象を受ける。近づくと細部が語りかけてくる。正面東端は前方に突き出した角屋となり、西側には別棟が接続する。内部は玄関より東を土間、西側の前後に各3室を配し、上手の採光のよい前列に座敷を設ける。ここまでは当時の住宅の定石どおりである。

その流れを破るのが西の別棟だ。外壁に下見板を張った洋風の応接間で、カナダの漁村にそのまま置かれていてもおかしくない一室といえる。建築面積は国の登録原簿で約205平方メートル、地元の調査記録では東西約18メートル・南北約15メートルとされる。施工は近隣の産湯(現・日高町)の大工棟梁の手によると伝えられる。

昭和の住宅が国の保護を受ける理由

千年の歴史をもつ寺院や城郭と並べれば、昭和初期の一住宅は文化財の一覧のなかで控えめな存在に映るかもしれない。しかしここでの価値は古さよりも、建物が抱える歴史と、それを今に残す姿にある。日本にはこうした遺産を守るための別の制度が用意されている。

日本の建造物保護には二つの系統がある。古くからある「指定」は、最も重要なものを国宝や重要文化財として選び、厳しい規制のもとで保護する仕組みだ。一方、平成8年(1996年)に始まった「登録」は、より緩やかな枠組みで、おおむね築50年以上を経て歴史的景観に寄与する建物を対象とし、所有者が使い続け、手を加えながら保存していくことを促す。遊心庵主屋は平成31年(2019年)3月29日、国土の歴史的景観に寄与しているものとして登録有形文化財に登録された。

登録を支えるのは、この建物が置かれた場所の歴史である。三尾は明治22年(1889年)以降、先駆者・工野儀兵衛に続いてフレーザー川の鮭漁場へ移民を送り出し、昭和15年(1940年)頃には三尾出身のカナダ移民が二千人を超えた。郷里への送金が村を瓦葺の家並みへと作り替え、帰国者がカナダの暮らしぶりを持ち帰った。戦前期に建てられた住宅のなかでも、田中家の主屋は規模・造作の質・保存状態の三点で際立っている。

見どころと、泊まるという楽しみ方

この家の静かな魅力は、二つの世界がひとつ屋根の下で出会う様子を眺めることにある。畳の部屋から下見板張りの応接間へ数歩で移ると、紀州の漁村の暮らしから、移民がスティーブストンで覚えた感覚へと場面が切り替わる。誇張のない造りであることも見どころだ。隠居後の住まいを丁寧に建てた人物の手仕事が、そこにある。

門の外から眺めるだけにとどまらない。昭和48年(1973年)に田中家の所有を離れて数度の所有者変更を経たのち、美浜町が修復し、平成31年(2019年)にゲストハウスとして開いた。予約は一日一組の一棟貸しで、定員8名、寝室4部屋にキッチンと浴室を備える。海外からの利用者の多くはカナダからで、祖先の足跡を源までたどりに来た子孫たちである。

周辺もあわせて巡りたい。道路を挟んだ向かいの「カナダミュージアム」は、同じく登録有形文化財の旧野田家住宅を活用し、移民の歩みを紹介する。村の食堂「すてぶすとん」の名は、スティーブストンを土地の訛りで読んだものだ。少し歩けば龍王神社があり、樹齢三百年を超えるとされる天然記念物のアコウの巨樹が立つ。

Q&A

Q遊心庵とはどのような建物ですか。
Aカナダの鮭漁で成功した田中松蔵が、昭和8年頃に三尾に建てた平屋建ての住宅です。和風の間取りに洋風の応接間を組み込んだ点が特徴で、登録有形文化財に登録され、現在はゲストハウスとして使われています。
Q宿泊することはできますか。
Aできます。一日一組の一棟貸しで、寝室4部屋に定員8名まで利用できます。予約はNPO法人日ノ岬・アメリカ村、または楽天トラベルを通じて受け付けています。
Q登録有形文化財は国宝や重要文化財とどう違うのですか。
A国宝・重要文化財は規制の厳しい「指定」の区分です。登録は平成8年に設けられたより緩やかな区分で、築50年以上を経て地域の景観に寄与する建物を対象とし、日常的に使い続けながら保存することを認めています。
Q三尾へはどう行けばよいですか。
AJRきのくに線で御坊駅まで行き、路線バスでアメリカ村バス停下車です。主屋や近くの博物館・食堂はバス停から徒歩圏内にあります。
Qなぜ「アメリカ村」と呼ばれるのですか。
A明治22年以降、三尾から多くの人がカナダへ移住した歴史に由来します。帰国者が北米の建築様式や生活習慣を持ち帰り、村に独特の景観が生まれたため、行き先はカナダながら「アメリカ村」と呼ばれるようになりました。

基本情報

名称遊心庵(旧田中家住宅)主屋
所在地和歌山県日高郡美浜町大字三尾837
区分登録有形文化財(建造物)
登録年月日平成31年(2019年)3月29日(登録番号 30-0258)/基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの
建築年代昭和8年(1933年)頃
構造・員数1棟。木造平屋建、瓦葺、建築面積約205平方メートル
所有者和歌山県日高郡美浜町
公開・利用ゲストハウスとして利用可(一日一組、定員8名)。予約はNPO法人または楽天トラベル。御坊駅からバスでアメリカ村下車。

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00012792
文化遺産オンライン(文化庁)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/413315
わかやまの文化財(和歌山県)
https://wakayama-bunkazai.jp/bunkazai/bunkazai-spot-983/
NPO法人 日ノ岬・アメリカ村(ゲストハウス情報)
https://americamura.wakayama.jp/

最終更新日: 2026.06.23