谷戸城跡 ― 甲斐源氏の発祥を語る八ヶ岳南麓の山城
谷戸城に石垣はない。天守もない。八ヶ岳の南の裾野に盛り上がる標高862メートルの城山(茶臼山)の頂に残るのは、すべて土でできた構造である。低い土塁が幾重にもめぐり、その足元を浅い堀がなぞり、かつて建物が建っていた平坦地が段をなして広がる。山梨県北杜市大泉町谷戸に位置し、平成5年(1993年)11月29日に国の史跡に指定された。
鉄砲が伝わるより前に築かれた山城である。城壁を期待して訪れると拍子抜けするかもしれないが、地形そのものを読むと中世の防御の考え方が見えてくる。山頂の主郭、その東に広がる大きなくるわ、北側の二段構えの平場、西の小さな区画。土の起伏がそのまま城の設計図になっている。
この城は別名でも呼ばれてきた。地元では山の名をとって茶臼山と呼び、古い記録には逸見城の名も見える。逸見とは、この地に始まる一族の名である。
甲斐源氏の祖・逸見清光の伝承
谷戸城を築いたと伝わるのは、平安末期の武将・逸見清光(へみきよみつ)である。甲斐に根を下ろした源氏の一族、すなわち甲斐源氏の祖と仰がれる人物だ。系譜をさかのぼると、清光は武田を名乗った最初の人物である源義清の子であり、新羅三郎の名で知られる源義光の孫にあたる。
一族が甲斐へ来たのは、自ら望んでのことではない。大治5年(1130年)、常陸国司への訴えを受けて、義清・清光父子は甲斐国へ流された。清光は八ヶ岳南麓の逸見荘を拠点に勢力を伸ばし、その地名をそのまま名のりとした。このあたりは古くから朝廷に馬を献じる牧の地であり、その富が、流された一族を地域の有力者へと押し上げる土台になったと考えられている。
清光自身がこの山頂に立ったかどうかは、史料が断片的に示唆するにとどまる。江戸時代の地誌『甲斐名勝志』や『甲斐国志』は、清光がこの村の城に住み、生涯を終えたとする伝えを書きとめている。さらに注目されるのが鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』である。治承4年(1180年)、北条義時が「逸見山」で甲斐源氏に源頼朝方への参加を促したと記されており、城山を逸見山に比定する後世の地誌もある。これに従えば、源平争乱の一場面がこの丘で展開したことになる。
逸見の名は時代を越えて再び姿を現す。観応2年(1351年)には、観応の擾乱を伝える醍醐寺報恩院文書に「甲斐国逸見城」が登場する。さらに下って武田信玄の時代、軍記には「谷戸の御陣所」の名が散見される。信濃へ向かう軍用道路・棒道に近いこの丘は、街道を押さえる要地として重んじられ続けた。
史跡に指定された理由
谷戸城跡は、城跡など政治に関する遺跡を対象とする指定基準のもとで保護されている。その価値は二つの面から成り立つ。初期の甲斐源氏に結びつく豊かな伝承と、土の遺構が地域勢力の防御のあり方を今も具体的に伝えていることである。
文化庁は、よく知られた武田氏の城館との対比でこの城をとらえている。武田氏館跡、要害山、新府城跡といった史跡は、16世紀に最盛期を迎えた武田氏の姿を残す。これに対し谷戸城跡は、一族がまだこの地に根を張りつつあった、より早い段階にさかのぼる。これらをあわせて見ることで、甲斐を中心とする地域の勢力が世代を追ってどのように成長したのかを追うことができる。
城としての働きも長く続いた。平安期で役目を終えたのではなく、中世を通じて地域の拠点であり続けたのである。その最後の章は天正10年(1582年)に訪れた。武田氏滅亡後、主を失った甲斐をめぐって後北条氏と徳川氏が争ったいわゆる天正壬午の乱で、谷戸城は後北条方の城となり、大幅に修築されたと『甲斐国志』は記す。今日歩く土塁の最終的な姿には、この最後の戦いの痕跡も含まれている。
城跡で注目したい見どころ
谷戸城を楽しむ鍵は、地面を読むことにある。まずは山頂の主郭から。東西およそ30メートル、南北40メートルの平場を、高さ0.5~2メートルの土塁が囲んでいる。その縁を歩けば、防御の意図がはっきりと伝わってくる。
東には、高さ2メートルの土塁をめぐらせた東西30メートル・南北60メートルの大きなくるわが広がる。山頂の北側には二重の土塁を隔てて二段のくるわが連なり、あわせて東西40メートル・南北50メートルほどの規模になる。西の斜面には小さな区画が設けられている。現在は史跡公園として整備され、土塁や堀は本来の形に近づけて復元されており、解説板が土の高まりと縄張りを結びつけてくれる。
昭和57年(1982年)と平成元年(1989年)の発掘調査は、この光景に細部を加えた。土塁の裾に沿う横堀が確認され、城内に建っていた建物の礎石の一部も見つかっている。出土品には、蓮弁文をあしらった青磁碗の破片、15世紀頃の内耳土器、明で鋳造された銅銭・洪武通宝などがあり、中世の数世紀にわたってこの丘で人の営みが続いたことがうかがえる。
立ち止まって眺めるだけの楽しみもある。山には約400本のソメイヨシノと八重桜が植えられ、4月のあいだ時期をずらして咲き継ぐ。外苑には遊歩道がめぐり、木々の切れ間から八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳、晴れた日には富士山が望める。山頂には小さな八幡宮が建ち、ある記録はそこに清光が配祀されたと伝えている。
周辺の見どころとアクセス
谷戸城は、八ヶ岳南麓に広がるより大きな考古の風景の歴史的な核でもある。丘のすぐ下にある城下遺跡からは平安期の集落跡が見つかっており、宮廷の位を示す石帯のほか、輸入された中国の青磁・白磁が出土している。ここは逸見荘の中心集落、すなわち清光の力が育った母体であったと考えられている。
少し離れた場所には、もう一つの国指定史跡である金生遺跡がある。こちらは縄文時代後期から晩期の祭祀の場で、その出土品である中空土偶などは、谷戸城を解説するのと同じ北杜市考古資料館に展示されている。二つの遺跡をあわせて訪ねやすい。
谷戸の名は、御所や町屋といった周辺の地名にも残り、今は失われた館や町並みの記憶を伝えている。清光の菩提寺である清光寺は現在の長坂町大八田にあり、その前身の寺はかつて城の北西に建っていた。八ヶ岳の南麓一帯は、高原の風景や地酒の酒蔵、澄んだ星空でも知られ、足をのばして滞在する価値のある土地である。
Q&A
- 天守や城の建物は見られますか。
- 建物はありません。谷戸城は鉄砲伝来以前の土でつくられた山城で、石垣や天守はもともと築かれていません。歩いて見られるのは復元された土塁や堀、くるわの平坦地で、各所に解説板が設けられています。
- 見学にはどのくらい時間がかかりますか。
- くるわや外苑の遊歩道を歩いて、おおむね45分から1時間程度です。隣接する北杜市考古資料館もあわせると、城の模型や出土品の展示が土の遺構の理解を深めてくれます。
- 訪れるのに良い季節はいつですか。
- 4月上旬から下旬が見どころで、約400本の桜が時期をずらして咲きます。なお、敷地内での宴会形式の花見は禁止されています。秋は空気が澄み、人も少なく山の眺めを楽しめます。
- 歩きやすい場所ですか。
- 園内は斜面や段差が多く、車いすでの見学には向きません。歩きやすい靴をおすすめします。夏は土塁の一部に草が伸びることがあります。
- 武田氏とはどのような関わりがありますか。
- 谷戸城は伝承上、甲斐源氏の祖・逸見清光に結びつけられています。清光の父は一族で初めて武田を名のった人物で、戦国大名の武田信玄もこの系譜に連なります。谷戸城は武田氏の最盛期ではなく、その源流となる初期の姿を示す城といえます。
基本情報
| 名称 | 谷戸城跡(やとじょうあと)/別名 茶臼山・逸見城 |
|---|---|
| 所在地 | 山梨県北杜市大泉町谷戸2605番地 |
| 指定区分 | 国指定史跡(平成5年〈1993年〉11月29日指定) |
| 時代 | 中世。伝承では平安末期に起源をさかのぼり、天正10年(1582年)に大規模な修築 |
| 縄張り | 城山(茶臼山、標高862メートル)の山城。主郭は東西約30メートル・南北約40メートル。東・北・西に土塁で区画したくるわをもつ |
| アクセス | 中央自動車道長坂ICから車で約10分。またはJR小淵沢駅から北杜市民バス「JA大泉支店前」下車、徒歩約6分 |
| 公園 | 史跡公園として年中無休で開放。駐車場約20台・トイレあり。入園無料 |
| 隣接施設 | 北杜市考古資料館(公園に隣接)。開館9:00~17:00(入館は16:30まで)、火・水曜日/祝日の翌日/年末年始休館。観覧料 一般210円、小中学生100円 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース ― 谷戸城跡
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1135
- 北杜市埋蔵文化財情報WEB ― 史跡谷戸城跡
- https://hokuto-maibun.com/?page_id=129
- 北杜市埋蔵文化財情報WEB ― 北杜市考古資料館
- https://hokuto-maibun.com/?page_id=154
- 富士の国やまなし観光ネット ― 谷戸城跡
- https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4108.html
- 北杜市観光協会 ― 谷戸城址
- https://www.hokuto-kanko.jp/spot/yato_jyoshi/
最終更新日: 2026.05.23