姿を変えて生き延びた仏塔
知立神社の鳥居をくぐると、右手に二層の塔が西を向いて立つ。仏塔が神社の境内にあるのは、現代の感覚では奇妙に映るかもしれない。だが、この塔がどうしてここに立ち、どうして危うく失われかけたのか、その経緯こそが見どころである。塔は三間多宝塔、屋根はこけら葺で、高さはおよそ14.5メートル。神社の記録では永正6年(1509年)の再建で、境内で最も古い建物にあたる。
知立神社は古社で、十世紀の『延喜式』神名帳に記され、三河国二宮に位置づけられた。神と仏が並んで祀られた長い時代、当社も神宮寺を構えていた。社伝はその創建と最初の塔を九世紀の僧円仁に帰す。その古い伽藍は十六世紀の兵火に焼け、現在見る塔は永正6年の再建である。
文庫という偽装
塔は戦乱を無事にくぐり抜けたが、明治初年に別の脅威に直面する。新政府は神仏分離を命じ、全国で神社地の仏教建築が取り壊された。仏塔は、その政策が取り壊しの対象とする建物そのものであった。
塔を救ったのは、計算された偽装である。当地を治めた刈谷藩主土井利教はこれを失うに忍びなかった。屋根上の相輪を外し、高欄を取り去り、屋根を葺き替えて、仏塔と見えないようにする。そのうえで、自ら筆をとった「知立文庫」の扁額を掲げた。書物を収める文庫を装うことで、塔は取り壊しを免れたのである。内部に安置されていた愛染明王の像は神宮寺へ移され、現在も近隣の寺に伝わる。塔が本来の姿に戻されたのは、大正9年(1920年)の解体修理においてであった。
今に見る姿
復原された塔は、この形式とこの時代の特徴をよく示す。下層は方三間で、隅の柱は大きく面取りされ、組物が彫刻された木鼻を持つ。その上に白漆喰の亀腹がのり、高欄をめぐらせた上層が重なって、こけら葺の屋根と復した相輪が頂を飾る。神宮寺の遺構として全国でも数少ない例に数えられ、明治40年(1907年)という早い時期に国の重要文化財となった。
塔を囲む神社も、ゆっくり見て回る価値がある。主要社殿は三河ではめずらしい尾張造の配置で、国の登録有形文化財に登録されている。これは多宝塔の重要文化財という区分とは別の指定である。社前の神池には、享保17年(1732年)造の花崗岩の太鼓橋が架かる。当社はまた知立まつりでも知られ、山車の上で演じられる山車文楽とからくりは国の重要無形民俗文化財に指定されている。
Q&A
- なぜ神社に仏塔があるのですか。
- 神と仏を共に祀った時代、当社は神宮寺を構えていました。塔はその神仏習合の遺構で、全国でも珍しく現存するものです。
- 明治の取り壊しをどう免れたのですか。
- 刈谷藩主土井利教が相輪と高欄を外し屋根を改め、「知立文庫」の扁額を掲げて文庫に見せかけました。書庫を装って廃仏毀釈を逃れ、大正9年(1920年)に本来の姿へ復原されました。
- 塔はいつのものですか。
- 現存する塔は永正6年(1509年・室町後期)の再建で、境内で最も古い建物です。社伝では九世紀に最初の塔があったと伝えます。
- 塔の中に入れますか。
- 塔は境内から外観を拝観します。境内は自由に入れます。かつて塔内にあった本尊は、現在近隣の寺に祀られています。
- ほかに見どころはありますか。
- 登録有形文化財の尾張造社殿、享保17年(1732年)の花崗岩の太鼓橋、そして国の重要無形民俗文化財である知立まつりの山車文楽などがあります。
基本情報
| 名称 | 知立神社多宝塔(ちりゅうじんじゃたほうとう) |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県知立市西町 |
| 指定区分 | 国指定重要文化財(明治40年5月27日指定) |
| 年代 | 室町後期・永正6年(1509年) |
| 構造 | 三間多宝塔、こけら葺、高さ約14.5メートル 1基 |
| 所有者 | 知立神社 |
| 公開状況 | 境内は自由に参拝可。塔は外観を拝観。 |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1267
- 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/185416
- みかわこまち 知立神社多宝塔
- https://mikawa-komachi.jp/local/tahouto.html
最終更新日: 2026.06.24