桝田家住宅土蔵 ― 石造に化けた、江戸川河岸の蔵

千葉県野田市の南、今上(いまがみ)の堤防沿いに桝田家の屋敷が建つ。主屋の南側、オクニワ(屋敷内の作業庭)の東寄りに据えられた土蔵を路地から見上げると、少し妙な感じがする。土でできた蔵のはずが、外壁に縦横の目地が深く刻まれ、切石を積み上げた石造建築のように見えるのだ。

この「化粧」は意図したものであり、建てられた時代を語っている。土蔵が完成したのは昭和前期(1926〜1945年)。石やレンガを思わせる外観が、近代的で堅牢な印象を与えた頃である。仕上げの下は昔ながらの造りで、木組みに厚い土壁を塗り込めた土蔵造二階建。屋根は飾り気のない切妻造で桟瓦を葺き、建築面積はわずか30平方メートルほど。西面の戸口にはモルタルを塗った鉄扉が吊られ、低い下屋(げや)が数歩先の主屋へとつながる。内部を見上げれば屋根を支えるのは二重梁の和小屋で、近代的な外皮の下に伝統の大工仕事が隠れている。

この一棟は、より大きな物語の片隅にあたる。桝田仁左衛門家は正徳2年(1712年)以来、ここ野田下河岸 ― 地元で今上河岸と呼ばれた江戸川沿いの荷揚げ場 ― で廻船問屋を営んでいた。鉄道が通る前、川は物流の幹線だった。野田で仕込まれ、江戸(現在の東京)の台所へ下っていく醤油の樽も、こうした河岸を経由した。桝田家はその輸送を担って栄えた家である。

なぜ守られているのか ― 消えた舟運の証人として

この土蔵が持つのは、登録有形文化財という位置づけである。国宝や重要文化財のような「指定」とは別に、おおむね築50年以上を経て歴史的景観に寄与する建造物を対象として、1996年に始まった制度だ。指定の網からこぼれがちだった明治・大正・昭和の近代建築を救う狙いが大きかった。桝田家住宅土蔵が登録されたのは平成25年(2013年)6月21日。登録基準は、国土の歴史的景観に寄与しているもの。この制度の趣旨をそのまま体現した一棟だといえる。

屋敷一帯の価値は、何を生き延びたかにある。この家を支えた江戸川の舟運は長く続かなかった。明治44年(1911年)に県営の軽便鉄道(現在の東武鉄道の前身)が野田へ達し、関東大震災(1923年)の後には自動車輸送が広がる。桝田家は昭和13年(1938年)に廻船問屋の営業を終えた。野田の河岸商いを伝える建物は、ほとんど残っていない。主屋・脇門・小さな不動尊祠・煉瓦塀、そしてこの土蔵からなる桝田家の屋敷は、水運の時代を伝える数少ない生き証人のひとつだ。

屋敷の中心は主屋だ。明治4年(1871年)の建築で、登録は土蔵より早く平成19年(2007年)。西を流れる江戸川の堤防に正面を向け、桁行9間・梁間7間(およそ16メートル×13メートル)、木造の二階建てに平屋部分を持つ。一階の前半は帳場や台所といった商いの場、後半は私的な部屋、二階には舟宿(ふなやど)の客室が三室あった。川を行き交う旅人や船乗りを泊めた宿である。土蔵・脇門・不動尊祠・煉瓦塀の四件は、まとめて2013年に登録された。

見どころ

桝田家は今も人が暮らす住居であり、内部の見学はできない。以下に挙げるのは、いずれも公道や堤防から目にできる範囲のものだ。そもそもこの屋敷は、通りからも川からも眺められることを前提に建てられている。

まず土蔵の壁そのものに目を向けたい。目地を刻んだモルタルがこの建物の眼目である。商家建築のなかでも最も伝統的な土の蔵を、あえて西洋の石造らしく装っている。窓にも注目したい。一階南面に一つ、二階の南北にもう二つ、それぞれ鉄板葺の小さな庇が掛けられている。西面の鉄扉をモルタルで覆ったのは、洒落であると同時に実用でもあった。水害の起こりやすい川沿いの町で、火にも水にも強い蔵は欠かせなかったからである。

次に屋敷全体をひと組みとして読み解いてみる。西から南の正面を囲む煉瓦塀は、装飾ではない。川側で高さ約1メートル、主屋の玄関前を横切るあたりには溝が仕込まれ、江戸川が増水したときに堰板(せきいた)を落とし込めるようになっていた。水防のための塀である。西面に開く脇門は薬医門(やくいもん)で、間口は1.5メートルほどと小ぶり。木造の切妻造桟瓦葺で、明治前期にさかのぼる。オクニワの南東隅には、明治32年(1899年)頃に建てられた不動尊祠が控える。一家の守り本尊を祀る、本格的な切妻造の祠だ。これらを並べて見れば、川商人がどう暮らしを組み立てたかが見えてくる。表に商い、奥に家族、そして川は常に警戒すべきものとして。

蔵のまわり ― 醤油の町・野田

桝田家の屋敷は、はるかに大きな産業の「輸送の端」として理解すると腑に落ちる。野田は日本の醤油の故郷のひとつだ。良質な大豆と小麦、豊かな水、そして利根川と江戸川という都へ通じる二つの川に恵まれ、この町は何百年も醤油を醸し、江戸へ送り出してきた。大正6年(1917年)には醸造家八家が合同して野田醤油株式会社が生まれる。のちのキッコーマンである。

少し北へ足を延ばして野田の中心部に入ると、その産業の表玄関に近づける。キッコーマン野田工場に併設された「もの知りしょうゆ館」では醤油づくりの工程を学び、製造の一部を見学できる。入館は無料だが予約制なので、訪問前に開館状況を確認しておきたい。近くには千葉県で最初の登録博物館である野田市郷土博物館があり、町の醸造の歴史をたどれる。高梨家の上花輪歴史館は、有力な醤油醸造家の庭と建物を残している。趣を変えたいなら、明治27年(1894年)開園の清水公園へ。日本有数のフィールドアスレチック、広大なフラワーガーデン、春の桜で知られる。

土蔵までのアクセスは次の通り。今上は野田の南部、江戸川のほとりに位置する。まめバスなら「中野台入口」バス停から徒歩約10分、茨急バスなら「上河岸」バス停から徒歩約5分。多くの人は、東武アーバンパークライン野田市駅周辺の醤油関連スポットと合わせて、桝田家の外観を眺めていく。

Q&A

Q桝田家の土蔵は内部を見学できますか。
Aできません。屋敷は現在も人が暮らす私邸のため、内部は非公開です。土蔵やほかの建物は、公道や川の堤防から外観を眺めることができます。
Q何が「登録」されていて、いつの建物ですか。
A土蔵は単独で登録有形文化財となっており、登録は平成25年(2013年)6月21日です。建てられたのは昭和前期(1926〜1945年)。屋敷の主屋は一足早く2007年に登録され、明治4年(1871年)の建築です。
Q土の蔵なのに、なぜ石造のように見えるのですか。
A外壁を覆うモルタルに、切石を積んだような目地を刻んでいるためです。伝統的な木と土の構造の上に、建設当時に流行した西洋風で近代的な仕上げを施しています。
Q桝田家はどんな家だったのですか。
A正徳2年(1712年)以来、野田下河岸で廻船問屋を営み、地域の醤油などの荷を江戸川経由で江戸へ送り出していました。鉄道や自動車輸送に押され、昭和13年(1938年)に営業を終えています。
Q周辺で他に見ておきたい場所は。
Aキッコーマンもの知りしょうゆ館(予約制)、野田市郷土博物館、高梨家の上花輪歴史館、清水公園などが野田市内にあり、多くは野田市駅の周辺に集まっています。

基本情報

名称桝田家住宅土蔵(ますだけじゅうたくどぞう)
所在地千葉県野田市今上2574-1
区分登録有形文化財(建造物)/平成25年(2013年)6月21日登録/登録基準「国土の歴史的景観に寄与しているもの」
員数1棟
時代昭和前期(1926〜1945年)
構造・形式土蔵造二階建/切妻造桟瓦葺/外壁はモルタルを石造風に目地切り/モルタル塗鉄扉/建築面積約30平方メートル
所有個人(桝田家)
公開状況内部非公開(現役の住居)。外観は公道から見学可。まめバス「中野台入口」より徒歩約10分、または茨急バス「上河岸」より徒歩約5分
屋敷の構成桝田家住宅一帯=主屋(1871年)・不動尊祠・土蔵・脇門・煉瓦塀(4棟1基)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):桝田家住宅土蔵
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00009588
千葉県:桝田家住宅主屋ほか
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/q111-018.html
野田市:桝田家住宅(ますだけじゅうたく)
https://www.city.noda.chiba.jp/kurashi/kyoiku/bunka/1000585/1000588.html
キッコーマングループ:キッコーマンしょうゆの歴史
https://www.kikkoman.com/jp/corporate/brand/story/kikkoman/history.html

最終更新日: 2026.06.20