裏山に穿たれた一軒のための水道
井谷家住宅給水用隧道は、愛媛県北宇和郡鬼北町大字下鍵山にある大正期(1912年から1926年)の取水施設で、平成24年(2012年)8月13日に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
場所は主屋の東端の背後、屋敷の裏山である。地番も主屋とは別で、下鍵山955に置かれている。山の斜面に横穴を掘り、最奥部に湧く水を屋敷へ引くための施設で、井谷家住宅を構成する五件の登録物件のうち、唯一の設備系にあたる。
入口は半円アーチで、高さ2.4メートル、幅2.3メートル。切石積で築かれ、アーチの両側には袖が設けられている。切石を用いてアーチを組むのは相応の手間と費用を要する仕事で、単に穴を掘って板でふさぐという発想ではない。
ところが内部は一転して素堀りである。岩盤をそのまま掘り抜いただけで、覆工はない。文化庁の解説文は奥行を21.8メートルと記し、同じデータベースの構造欄は22メートルと記す。入口だけを石で整え、奥は掘りっぱなしにするという配分に、この井谷家住宅給水用隧道の性格がよく出ている。
登録の理由と、独特な形式
井谷家住宅給水用隧道に適用された登録基準は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」である。文化庁の解説文は、これを独特な形式をもつ取水施設と評している。「独特」という語が公的な解説文に用いられるのは多くない。
何が独特なのか。まず規模である。人が立って歩ける高さの隧道を、一軒の家の給水のために掘っている。集落全体の簡易水道であればこの規模も理解できるが、ここでは屋敷への給水施設として登録されている。
次に構成である。仕上げの水準が入口と内部で大きく違う。半円アーチと切石積と袖という、土木構造物としての正装を入口に与えながら、その奥は素掘りのまま。見える部分に手を入れ、見えない部分は機能だけで足りるという判断がはたらいている。
年代も考えたい。主屋が明治26年(1893年)頃であるのに対し、隧道は大正期。20年から30年ほど遅れて、屋敷に水を引く仕組みが加えられたことになる。近代の上水道が山あいの村へ届くよりはるか前に、湧水を自前で確保する手段が用意されたわけである。
見どころ
入口のアーチの積み方をまず見たい。切石を放射状に並べて半円をつくる楔石の組み方は、明治から大正の土木構造物、とくに鉄道や道路のトンネル坑口で用いられた技法である。屋敷の給水施設にそれが持ち込まれている点が面白い。
両側の袖にも注目したい。袖は坑口の左右に張り出す壁で、開口部まわりの土圧を受け、法面が崩れて口をふさぐのを防ぐ。高さ2.4メートル、幅2.3メートルという開口に対して袖を設けているのは、地山がそれなりに動く場所だと見込まれたためだろう。
データベースの構造欄には幅員0.9メートルという数字もある。入口の幅2.3メートルに対してかなり狭い。坑口を広く構え、通水路そのものは細いという断面が想像されるが、両方の値がそれぞれ何を測ったものかを明記した資料は確認できなかった。実見の際は、坑口の見かけの大きさと内部の水路の幅が違うことを念頭に置きたい。
井谷家住宅給水用隧道は屋敷の裏手にあり、玄関前からは見えない。主屋、蔵、石垣及び土塀、南面石垣が屋敷の表と土台をつくるのに対し、この隧道だけが山の側を向いている。
見学方法とアクセス
井谷家住宅給水用隧道は、常時公開されている施設ではない。拝観料や開館時間の設定はなく、案内表示も整えられていない。
内部に立ち入ることはできないと考えてほしい。素掘りの坑内は落石や滑落の危険があり、湧水があるため足元も安定しない。文化財としての保存の観点からも、坑口から先へ進むべきではない。
鬼北町は平成29年度(2017年度)に井谷家住宅の土地と建物を取得し、令和5年度(2023年度)に「井谷家住宅保存活用計画」を策定した。令和7年度(2025年度)には周囲の安全確保のための外構工事が予定されている。隧道に近づけるかどうかを含め、見学の可否は鬼北町教育課(電話0895-45-1111)に事前確認するのが確実である。なお、文化庁データベースの所有者欄は空欄のままである。
アクセスは、JR予土線の近永駅から宇和島自動車のバスで約35分、鬼北町役場日吉支所前が最寄りの停留所である。便数は多くないため時刻表の確認が要る。車では国道197号が下鍵山を通る。
Q&A
- 井谷家住宅給水用隧道はいつのもので、いつ文化財になりましたか?
- 大正期、西暦では1912年から1926年の築造と推定されています。平成24年(2012年)8月13日に国の登録有形文化財(建造物)として登録されました。指定ではなく登録の制度による保護です。
- 井谷家住宅給水用隧道はどんな構造ですか?
- 入口は高さ2.4メートル、幅2.3メートルの半円アーチを切石積で築き、両側に袖を設けます。内部は素堀りで、奥行は21.8メートル(構造欄の記載は22メートル)。最奥部の湧水を利用します。
- 井谷家住宅給水用隧道は何のために掘られたのですか?
- 屋敷へ水を引くためです。主屋が明治26年(1893年)頃であるのに対し隧道は大正期で、近代の上水道が届くより前に、裏山の湧水を自前で確保する仕組みが加えられたことになります。
- 井谷家住宅給水用隧道の中に入れますか?
- 入れません。素掘りの坑内は落石や滑落の危険があり、湧水で足元も不安定です。文化財の保存の面からも坑口より先へ進むべきではありません。見学の可否は鬼北町教育課(電話0895-45-1111)へご確認ください。
- 井谷家住宅給水用隧道は屋敷のどこにありますか?
- 主屋東端の背後、屋敷の裏山です。地番も主屋とは別で、大字下鍵山955に所在します。玄関前からは見えず、屋敷の五件の登録物件のうち唯一、山の側を向いています。
基本情報
| 名称 | 井谷家住宅給水用隧道(いたにけじゅうたくきゅうすいようずいどう) |
|---|---|
| 所在地 | 愛媛県北宇和郡鬼北町大字下鍵山955 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物)/登録基準「国土の歴史的景観に寄与しているもの」 |
| 指定年 | 平成24年(2012年)8月13日登録 |
| 員数 | 1基 |
| 寸法 | 石造、幅員0.9メートル、奥行22メートル(解説文は21.8メートル)、入口は高さ2.4メートル・幅2.3メートルの半円アーチ |
| 所有者 | 文化庁データベースの所有者欄は空欄。鬼北町は平成29年度(2017年度)に井谷家住宅の土地・建物を取得したと説明 |
| 公開状況 | 常時公開なし。坑内への立ち入り不可。見学の可否は鬼北町教育課(電話0895-45-1111)へ要確認 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース「井谷家住宅給水用隧道」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00009401
- 文化遺産オンライン「井谷家住宅給水用隧道」
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/206084
- 文化庁 国指定文化財等データベース「井谷家住宅主屋」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00009397
- 鬼北町「文化財」(指定文化財目録)
- https://www.town.kihoku.ehime.jp/site/kanko-e/961.html
- 鬼北町「広報きほく(2026年2月号)」鬼北町議会12月定例会
- https://www.town.kihoku.ehime.jp/site/koho/33164.html
最終更新日: 2026.09.03