鴻臚館跡 附女原瓦窯跡 ― 古代日本の対外交流の窓口
福岡市の中心、舞鶴公園の芝生の下に、唐や新羅の使節、そしてペルシア湾岸から運ばれた品々を扱う商人たちを迎え入れた建物の基礎が眠っている。鴻臚館である。古代日本が外国の賓客のために設けた三つの客館のうち、遺構が実際に発見・発掘された唯一の例で、福岡城跡の城内一丁目に位置する。平成16年(2004年)に国の史跡に指定された。
7世紀後半から11世紀半ばまでの約400年間、ここは大陸からの人と物と情報が日本列島へ入る最初の地点だった。都へ向かう外国の使節、帰国する遣唐使、来航した商客、いずれもまずこの地を踏んだ。
筑紫館から鴻臚館へ
平安時代の朝廷は、平安京・難波・筑紫の三か所に鴻臚館を置いた。宿泊と饗応のための施設である。なかでも筑紫の鴻臚館はもっとも古い来歴をもつ。7世紀末から奈良時代にかけて大宰府で客館として機能した筑紫館にさかのぼり、中国風の用語が広まるなかで、平安期に「鴻臚館」と呼ばれるようになったといわれる。
その所在地は長らく定まらなかった。記録は博多のどこかとするものの、地点を特定できずにいた。大正15年(1926年)、医師で考古学者でもあった中山平次郎が福岡城内説を提起する。説は次第に支持を集めたが、難点も残った。同じ土地は近世の福岡城築城と、近代の陸軍施設建設によって大きく削られており、古代の遺構は失われたと考えられていたのである。
転機は偶然に訪れた。昭和62年(1987年)12月、平和台野球場外野席の改修工事が布掘りの柱穴列を断ち割り、大量の輸入陶磁器を掘り当てた。福岡市教育委員会は翌年度から本格調査を開始し、やがて福岡城跡の全域で発掘を進める。その結果、鴻臚館の中心施設が旧球場とその南側のテニスコート一帯に広がることが確認された。
発掘が明らかにしたもの
遺構は、共伴する土器によっておおむね五期に区分された。最も古い第1期は7世紀後半で、南北両側に掘立柱建物が立ち、一群は柱穴列と石垣に囲まれていた。
今日もっとも読み取りやすいのは第2期、8世紀前半の遺構である。南側には門をもつ方形の区画があり、布掘りの上に建ち、その南西に便所遺構が三基。広い濠を挟んだ北側にも、同じく方形で東に門をもつ区画があり、濠に面して大規模な石垣が築かれていた。この南北の対は、史料にみえる「鴻臚北館」の記述とよく合い、遺跡の比定を裏づけている。
後の時期は判読が難しい。第3期の8世紀後半から9世紀前半には礎石建物が数棟と土坑が残る。第4期から第5期、9世紀後半から11世紀前半にかけては、後世の削平により建物そのものはほとんど痕跡をとどめていない。
遺物の語る情報は明快だ。多量の瓦類とともに、中国の越州窯系青磁、長沙窯系の磁器、イスラム陶器、朝鮮半島の新羅陶器が出土した。挂甲の小札、鏃の形をした金製品、砂金といった意外な品も含まれる。とりわけ注目されるのが、南側の便所遺構から出た木簡である。多くは荷札で、「肥後国天草郡」「京都郡」など大宰府管内の地名を記すが、一点だけ「讃岐国三木郡」のものがある。記されるのは米・魚・鹿などの食料が中心で、賓客をもてなす饗応のための物資とみられる。11世紀半ばの焼土層が白磁碗を封じ込めており、施設の終焉の時期を示している。
女原瓦窯跡
平成26年(2014年)、指定範囲が拡大され、正式名称は「鴻臚館跡 附女原瓦窯跡」へと改められた。その理由は、西へおよそ15キロ、西区の今宿平野を見下ろす低い丘陵の斜面にある。
区画整理事業に先立つ試掘調査が平成22年度(2010年)に窯を確認し、平成23・24年度の発掘で、遺存状態の良い五基の窯跡と、これに付随する二か所の灰原が姿を現した。いずれも斜面に掘り込まれた地下式の登窯である。1~3号窯と5号窯は有階の構造をとり、最も新しい4号窯だけが異なる造りで、瓦と土師器を兼ねて焼いた窯とも考えられている。最終操業床の下に炭化層と還元層が互層に堆積していることから、複数回の操業がうかがえる。操業時期は3・5号窯が9世紀後半、1・2・4号窯が10世紀前半と推定される。
決め手は技術的な照合にあった。女原の軒丸瓦・軒平瓦は、鴻臚館跡出土の瓦と同じ笵で作られており、笵傷まで一致する。平瓦凸面の叩き目の種類も共通する。窯はいわば鴻臚館の屋根を供給する生産施設だったのである。この生産地が良好な状態で見つかったことが追加指定の意義であり、消費地と生産地の双方がそろうことで、一連の供給の実態が具体的に把握できるようになった。
現地を訪ねる
第2期の区画の遺構は、発見されたそのままの位置で、舞鶴公園内の鴻臚館跡展示館の屋根の下に保存されている。来館者は布掘りや礎石の上を歩いて見学でき、すぐ近くには平安時代の建築資料にもとづく原寸大の復元建物が組まれ、軸組や仕口の構造がわかるようになっている。展示ケースには輸入青磁やイスラム陶器、西アジアのガラス器が並び、交易網の広がりを示す。古代の便所や、紙の代わりに使われた木片についても詳しく解説されており、初めて訪れる人を驚かせる。
遺跡は福岡城跡と同じ公園内にある。石垣、現存する櫓、そして季節の桜が自然な散策路をつくり、福岡城むかし探訪館も徒歩圏内にある。にぎやかな天神地区や大濠公園の池も近く、半日の行程に組み込みやすい。
Q&A
- 鴻臚館は何のための施設だったのですか。
- 古代日本の朝廷が外国の使節や商客を宿泊させ、もてなした客館です。主に唐や新羅からの賓客を迎え、また遣唐使らが出発・帰着する場でもありました。大陸への対外交流の玄関口として機能しました。
- 遺跡はどのように見つかったのですか。
- 昭和62年(1987年)12月の平和台野球場の改修工事で、布掘りの柱穴列と大量の輸入陶磁器が出土したことがきっかけです。翌年度から福岡市教育委員会による本格調査が始まり、長く推定されていた福岡城内という所在地が確認されました。
- なぜ女原瓦窯跡が含まれているのですか。
- 西区の女原瓦窯跡で焼かれた瓦は、鴻臚館跡出土の瓦と同じ笵で作られ、笵傷や叩き目まで一致します。鴻臚館へ瓦を供給した窯であることから、平成26年(2014年)に生産地と消費地を一体として保護するため追加指定されました。
- 見学に費用はかかりますか。
- かかりません。鴻臚館跡展示館の入館は無料です。開館は9時から17時まで(入館は16時30分まで)で、年末年始(12月29日~1月3日)は休館します。
- どうやって行けばよいですか。
- 福岡市営地下鉄空港線の赤坂駅から、舞鶴公園へ徒歩10~15分ほどです。展示館は福岡城の三の丸跡にあたる場所にあります。
基本情報
| 名称 | 鴻臚館跡 附女原瓦窯跡(こうろかんあと つけたりみょうばるかわらがまあと) |
|---|---|
| 所在地 | 福岡県福岡市中央区城内一丁目(鴻臚館)/福岡市西区今宿一帯(女原瓦窯跡) |
| 指定区分 | 国の史跡 |
| 指定年月日 | 平成16年(2004年)9月30日指定/平成26年(2014年)3月18日に女原瓦窯跡を追加指定し名称変更 |
| 時代 | 平安時代(起源は7世紀後半、11世紀半ばまで使用) |
| 指定面積 | 約49,181平方メートル |
| 開館時間 | 9時~17時(入館は16時30分まで)/鴻臚館跡展示館 |
| 休館日 | 12月29日~1月3日 |
| 入館料 | 無料 |
| アクセス | 福岡市営地下鉄空港線・赤坂駅から徒歩約10~15分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/3407
- 文化遺産オンライン ― 鴻臚館跡 附女原瓦窯跡
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163088
- 福岡城・鴻臚館 公式サイト ― 鴻臚館跡展示館
- https://fukuokajyo.com/facility/kourokan-ato-tenjikan/
最終更新日: 2026.05.28