白川城跡
白河市の中心部から南東へ約2キロ、阿武隈川の右岸に、樹枝状に張り出した丘陵がある。比高はおよそ60メートルにすぎない。それでも、この尾根筋には、鎌倉時代後期から戦国期にかけて陸奥国南部を治めた白河結城氏の居城が置かれていた。天守も石垣も残らない。あるのは斜面に削り出された平場、長くのびる土塁、そして堀の跡である。搦目城という別名でも呼ばれてきた。
平成28年(2016)10月3日、国の史跡に指定された。指定範囲は約366,597平方メートル、東西約950メートル、南北約550メートルにおよぶ。それ以前、昭和28年(1953)には福島県の史跡となっていた。
白河結城氏と築城
はじまりは一通の所領安堵にさかのぼる。文治5年(1189)、鎌倉武士の結城朝光が、奥州合戦の恩賞として白河荘を与えられた。下総結城氏の一族はやがて北へ移り、荘園の開発を進める。朝光の孫にあたる結城祐広は13世紀後半に白河へ下向し、後世の地誌『白河風土記』はこの祐広を白川城のはじまりと記している。
一族が中央の政局に深く関わるのは次の世代である。祐広の子・宗広は後醍醐天皇の挙兵に応じ、新田義貞らとともに鎌倉幕府を倒した。宗広とその次男・親光は、南北朝の動乱において南朝方を支える存在となる。一方、嫡男の親朝は時勢を見て足利尊氏の北朝・武家政権側へ転じ、その後の白河結城氏の繁栄の足場を固めた。
室町期には、福島県中通り一帯の軍事警察権を握る検断職に任じられ、その勢力は奥州南部から北関東にまでおよんだ。
史跡指定の理由
盛衰の後半も、この城の歴史を語るうえで欠かせない。永正7年(1510)、惣領の政朝が一族の小峰氏によって追放される永正の変が起きる。小峰氏の血を引く新たな白河結城氏が成立し、この時期に本拠も白川城から町に近い小峰城へ移ったと推定されている。やがて佐竹、葦名、そして伊達と、周辺の有力大名のもとに従属していった。天正18年(1590)の奥羽仕置で白河結城氏は改易となり、約400年におよんだ南奥支配は終わりを告げた。
平成22年度から27年度(2010〜2015)にかけて、白河市教育委員会が範囲・内容確認のための発掘調査を実施した。その結果、城域全体に平場・土塁・堀が良好に残ることが確認された。御本城山地区では、14世紀代と16世紀代という二つの遺構面が把握され、城がどのように姿を変えたかを読み取れるようになった。14世紀代の層からは中国製青磁の酒海壺や水盤が出土している。この規模の城館で南北朝期の遺構がこれほど良好に残る例は少ない。陸奥南部における鎌倉武士の政治的発展と、その変容の過程を知るうえで貴重な遺跡として、国の史跡に指定された。
現地で見るべきもの
遺構は谷を挟んで二群に分かれる。西側の中心は、主郭とされる御本城山である。発掘では盛土による造成面、柱列、竪穴遺構、溝などが検出された。南北朝期にはここが城の中心だったが、その後、城館の重心はしだいに東へ移っていく。
東側は、搦目山と、その西に派生する鐘撞堂山という二本の尾根に展開する。鐘撞堂山では、尾根の南半分を二条の長大な堀が断ち切り、頂部からは桁行4間・梁行3間とみられる総柱の建物跡が見つかった。搦目山では、桁行4間・梁行2間の東西棟に三方の庇または縁が付く建物が確認され、15〜16世紀代のものと位置づけられている。尾根道を歩けば、木立の間から土塁が少しずつ姿をあらわす。現地の縄張図を見ると、平場の連なりがいかに広範囲におよんでいたかがわかる。
城跡北側の搦目には、岩塊に文字を刻んだ磨崖碑「感忠銘」がある。文化4年(1807)、地元の大庄屋・内山重濃が、宗広・親光親子の後醍醐天皇への忠節を後世に伝えようとして彫らせたものである。題字を書いたのは、寛政の改革で知られる白河藩主・松平定信。顕彰された人物から五百年近くを経て刻まれたこの碑が、城跡にもう一層の歴史を重ねている。
アクセスと周辺
最寄りはJR東北本線の白河駅で、城跡へは東へ徒歩約30分。車であれば、主郭に近い御本城山の山頂直下まで上がることができ、総合運動公園に近い駐車場が利用できる。主郭やその土塁へは歩いて巡れるが、外側の郭は藪に覆われた箇所もあり、足元の備えがあると安心だ。
多くの人は、白河結城氏の後の居城である小峰城とあわせて訪れる。中世の城を近世城郭として改修したのは丹羽長重で、寛永9年(1632)に完成した。白河駅から徒歩5分で、復元された三重櫓が建つ。少し足をのばせば、享和元年(1801)に松平定信が造営し、日本最古の公園とも称される南湖公園がある。国の名勝で、春は桜、秋は紅葉が湖畔を彩る。古代に北の玄関口を画した白河関も、この地域のさらに古い歴史をたどる人には手の届く範囲にある。
Q&A
- 白川城跡には建物が残っていますか。
- 建物は残っていません。山城の跡なので、見られるのは平場・土塁・空堀などの遺構と、磨崖碑「感忠銘」です。建造物ではなく、中世の防御の地形そのものを見に行く場所です。
- 同じ白河市の小峰城とはどう違うのですか。
- 白川城は白河結城氏の中世の山城です。駅に近い小峰城は、永正7年(1510)頃に一族の本拠が移った城で、のちに近世城郭へと改修されました。読みが同じため、表記の漢字で区別されています。
- 城はいつ築かれたのですか。
- 正確な築城時期はわかっていません。白河結城氏は13世紀後半からこの地に拠点を構えており、近年の研究では、山城という形態や文献から、南北朝時代初頭の1330年代頃に築かれたとする見解が示されています。
- 見学にはどのくらい時間がかかりますか。
- 主郭の御本城山に上がり、土塁などを巡るだけなら1時間ほどです。搦目山・鐘撞堂山の東側の尾根までたどると、さらに時間がかかり、道もやや険しくなります。
- 「感忠銘」はなぜ重要なのですか。
- 文化4年(1807)に、結城宗広・親光親子の後醍醐天皇への忠節を、約五百年後に記念して刻んだ碑です。題字を白河藩主・松平定信が書いており、中世の一族と江戸期の名臣を結ぶ点でも見どころとなっています。
基本情報
| 名称 | 白川城跡(しらかわじょうあと)/別名・搦目城跡 |
|---|---|
| 所在地 | 福島県白河市 |
| 指定区分 | 国指定史跡(平成28年〈2016〉10月3日指定。昭和28年〈1953〉に福島県史跡) |
| 時代 | 鎌倉時代後期〜戦国時代 |
| 面積 | 約366,597平方メートル(東西約950メートル×南北約550メートル) |
| 関連氏族 | 白河結城氏 |
| アクセス | JR白河駅から東へ徒歩約30分。御本城山の主郭付近に駐車場あり |
| 公開状況 | 常時見学可・無料 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁):白川城跡
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00003945
- 文化遺産オンライン:白川城跡
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/273872
- 白河市公式ホームページ:白川城跡
- https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001348.html
最終更新日: 2026.05.28