多胡碑 ― 和銅四年、ひとつの郡が生まれた記録

多胡碑は、牛伏砂岩に六行八十字の漢字を刻んだ石碑である。群馬県高崎市の南部、吉井町池に建つ。碑文が伝えるのは、和銅四年(七一一年)に上野国へ多胡郡という新しい郡が置かれた、その一事である。郡の成立を記念して建てられた碑が、いまも当時の場所に残っている。

碑身は高さ百二十九センチ、幅六十九センチ、厚さ六十二センチの方柱で、上部に低いホゾがある。素材は牛伏砂岩、別名を多胡石といい、周辺の丘陵で採れる花崗岩質の砂岩である。碑身の頭には方形の笠石が別石として載る。笠石は幅九十五センチ、下面をくぼませてホゾにかぶせる造りになっている。現在は碑を覆屋が守り、すぐ隣に多胡碑記念館が建つ。

日本に残る七世紀から十一世紀の古代石碑はわずか十八例にすぎない。多胡碑はその中でも最古級にあたる三基のうちのひとつである。

多胡郡という郡の成り立ち

多胡郡は、上野国で十四番目に置かれた郡である。碑文はその手続きを簡潔に記す。朝廷の弁官局から命令が下り、片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を割いて、新たに郡を立て、その名を多胡郡とせよ、というのである。

命令の日付は和銅四年三月九日。碑文の後段は、当時の中央政府の首脳を名指しで挙げていく。太政官の二品穂積親王、左大臣正二位の石上麻呂、右大臣正二位の藤原不比等、そして命令を伝えた左中弁正五位下の多治比真人(三宅麻呂とみられる)。これらの名を連ねることで、新しい郡には朝廷の権威がはっきりと刻みつけられた。

碑文の中で長く注目されてきた一字がある。新郡の支配を任された人物は、ただ「羊」とのみ記される。羊は渡来系の人物と考えられ、多胡郡の初代郡長官になったとみられている。碑そのものも、おそらくこの羊が中心となって建てたものであり、政府首脳の名を添えたのは、自らの立場を裏付けるためであったと推測される。

この一帯が選ばれたのには理由がある。多胡郡となった土地は、もともと先進的な手工業の集積地であった。かつてヤマト政権の直轄地であった屯倉の領域と重なり、渡来系の技術が早くから根づいて、窯業、布の生産、石材や木材の産出が盛んだった。ひとつの郡にまとめることは、こうした生産拠点を行政的に再編する意味をもっていた。多胡郡の建郡は『続日本紀』にも記され、書かれた歴史と刻まれた石が、三百戸という数字まで含めて一致している。文献と碑がこれほど明瞭に符合する例は、この時代には珍しい。

特別史跡としての価値

多胡碑は大正十年(一九二一年)三月三日に史跡に指定され、昭和二十九年(一九五四年)三月二十日に特別史跡へと格上げされた。高崎市内に残る山上碑(六八一年)、金井沢碑(七二六年)とあわせて上野三碑と総称される。三碑はいずれも直径三キロほどの範囲に収まっている。

書道史の上では、多胡碑は別の位置づけをもつ。栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑とともに日本三古碑のひとつに数えられるのである。八十字は端正な楷書で刻まれ、その規律ある字姿は江戸時代から多くの書家に重んじられてきた。

その評価は国外にも及んだ。十八世紀以降、多胡碑の拓本が朝鮮通信使を介して中国へ渡り、書風が高く評価された。やがてその評価は日本に還流し、後世の書家にも影響を与えている。古代国家の東のはずれで行われたひとつの建郡が、東アジアの書の文化に痕跡を残したことになる。

平成二十九年(二〇一七年)、上野三碑はユネスコ「世界の記憶」に登録された。三基をまとめて評価する根拠となったのは、文字の早期受容、朝鮮半島の石碑文化の影響、碑文にうかがえる仏教信仰など、先進的な大陸文化を早くから取り込んだ地域の姿である。

訪れて見るべきところ

碑は一目で全体を見渡せる大きさである。だからこそ細部に目を凝らす値打ちがある。まず気づきたいのが笠石の造りである。下面をくぼませて碑身のホゾにかぶせる構造は、中国の石碑の形式をなぞったもので、造立にあたって大陸の手本がいかに強く意識されていたかを物語る。

文字そのものも、近づいて見たい。八十字は丸底彫りという技法で刻まれている。一画一画の溝の底が鋭いV字ではなく、なめらかなU字をなす彫り方である。これが字姿をやわらげ、碑面に静かな質感を与えている。碑は覆屋の中にあるため、実物を間近で観察するには、隣接する多胡碑記念館を訪ねるのがよい。

多胡碑記念館は平成八年(一九九六年)四月に開館した。多胡碑の歴史的価値を広く伝えるための施設である。館内には、古代多胡郡をしのばせる考古資料、上野三碑の実物大レプリカ三基、そして多胡碑の書風の系譜をたどる中国の刻石拓本(北魏のものを含む)が並ぶ。建郡碑に名を残す「羊」をめぐる後世の伝承、羊太夫伝説についても紹介され、近年に発掘調査が進んだ多胡郡正倉跡の出土資料も見ることができる。

周辺をめぐる

碑と記念館は、吉井いしぶみの里公園という緑地の中に並んで建つ。地域の人々の憩いの場でもあり、園内には古代蓮として知られる大賀蓮が植えられ、夏に花をつける。発掘調査によって確認され、令和二年(二〇二〇年)に国の史跡に指定された上野国多胡郡正倉跡も同じ一帯にあり、碑が断片的に示す行政の姿を補ってくれる。

碑文の背景にもっと触れたい人は、同じ行程で残る二碑も訪ねられる。墓誌である山上碑、地元の一族が血縁者のために建てた金井沢碑は、いずれも近い距離にある。三碑を結ぶ「上野三碑めぐりバス」が運行しており、車を使わずに三か所をめぐるなら、これが最も便利である。

多胡碑記念館は、上信電鉄の吉井駅から車でおよそ五分、徒歩なら約三十分。上信越自動車道の吉井インターチェンジからは車で約七分である。記念館の開館は午前九時三十分から午後五時まで(入館は午後四時三十分まで)。月曜日と年末年始は休館となる。ユネスコ登録を記念して、令和九年(二〇二七年)三月三十一日までは観覧無料、それ以降の通常の大人料金は二百円である。

Q&A

Q見られるのは本物ですか、それともレプリカですか。
A本物の多胡碑が、建立されたその場所に覆屋に守られて残っており、見学できます。彫りを間近で確かめたい場合は、隣の多胡碑記念館に実物大レプリカと詳しい展示があります。
Q碑文には何が書かれているのですか。
A和銅四年(七一一年)に、近隣三郡から三百戸を割いて多胡郡という新しい郡を立てよという朝廷の命令が記されています。あわせて、その郡を任された人物と、命令を出した政府首脳の名が刻まれています。
Q碑文の「羊」とはどんな人物ですか。
A新しい郡の支配を任された人物で、渡来系とみられ、多胡郡の初代郡長官になったと考えられています。この名をめぐって、後世に羊太夫伝説と呼ばれる伝承が生まれました。
Q上野三碑を一日でめぐれますか。
Aめぐれます。多胡碑・山上碑・金井沢碑は直径三キロほどの範囲にあり、三碑を結ぶ専用の周遊バスが運行しているため、一日での見学は十分に可能です。
Q観覧料はかかりますか。
Aユネスコ「世界の記憶」登録を記念し、多胡碑記念館は令和九年(二〇二七年)三月三十一日まで観覧無料です。その後の通常料金は大人二百円で、学生割引や六十五歳以上の無料制度があります。

基本情報

名称多胡碑(たごひ)
所在地群馬県高崎市吉井町池1095
指定区分特別史跡(大正10年〈1921年〉3月3日に史跡指定、昭和29年〈1954年〉3月20日に特別史跡へ)
建立年代和銅4年(711年)ごろ
碑文漢字80字、縦書き6行
材質・寸法牛伏砂岩。碑身は高さ129cm・幅69cm・厚さ62cm、別石の笠石は幅95cm
ユネスコ登録2017年、上野三碑のひとつとして「世界の記憶」に登録
隣接施設多胡碑記念館(吉井いしぶみの里公園内)
記念館開館時間9:30〜17:00(入館は16:30まで)、月曜日・年末年始は休館
アクセス上信電鉄吉井駅から車で約5分・徒歩約30分、上信越自動車道吉井ICから車で約7分

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「多胡碑」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/519
文化遺産オンライン「多胡碑」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137884
高崎市 高崎市文化財情報「上野三碑:多胡碑」
https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/cultural-assets/4463.html
高崎市「多胡碑記念館 利用案内」
https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/cultural-assets/5009.html
群馬県「上野三碑」
https://www.pref.gunma.jp/page/5155.html

最終更新日: 2026.05.25