久山田貯水池堰堤:百年を超えて現役で活躍する大正の土木遺産

広島県尾道市の南西部、緑豊かな山間に静かに佇む久山田貯水池堰堤は、大正時代の優れた土木技術を今に伝える貴重な登録有形文化財です。1924年(大正13年)に竣工したこの美しい石張りのダムは、百年を超えた現在もなお尾道市唯一の自己水源として現役で稼働し続けています。重力式とアーチ式を複合した独特の構造形式、精緻な粗石モルタル積の工法、そして建設の背景にある感動的な篤志家の物語——久山田貯水池堰堤は、土木遺産としての技術的価値と、まちの歴史を物語る社会的価値の両面を持つ、尾道ならではの文化財です。

水に恵まれなかった港町・尾道

久山田貯水池堰堤の意義を理解するには、まず大正時代の尾道が直面していた深刻な水問題を知る必要があります。瀬戸内海に面した尾道は、古くから海運の要衝として栄えた商都でしたが、市街地の大部分が埋め立て地であったため地下水には塩分が多く含まれ、大きな河川もないことから、飲み水の確保は市民にとって切実な課題でした。当時は街中を水売りの商人が行き来していたとも伝えられています。

当初は井戸を水源とする計画が検討されましたが、適切な候補が見つからず断念。その後、貯水池方式による上水道布設案が立案され、1920年(大正9年)、神戸市の水道を設計した実績で知られる工学博士・佐野藤次郎を顧問に、元神戸市水道課長の水野広之進を主任技師に迎えて調査が進められました。1921年(大正10年)9月に尾道市会で上水道布設が議決、翌年3月に国の認可を受け、いよいよ久山田水源地の建設が始まることとなりました。

山口玄洞翁の大いなる寄付

久山田貯水池堰堤の建設において最も特筆すべきは、一人の篤志家による前例のない規模の寄付です。長江浄水場を含む上水道事業の総工費は約139万円。当時の大学卒の初任給が約60円という時代にあって、これは途方もない金額でした。

この窮状を知った尾道出身の実業家・山口玄洞は、総工費の約4分の3にあたる約103万5千円を寄付しました。現在の貨幣価値に換算すると数百億円とも言われるこの寄付は、一個人による公共水道事業への支援として全国に例を見ないものでした。玄洞は文久3年(1863年)に尾道で生まれ、16歳で大阪に出て丁稚奉公から身を起こし、刻苦精励の末に成功を収めた人物です。篤い仏教信仰を持ち、「喜捨の心」でこの大金を差し出しました。

大正14年に上水道が完成した際、市が玄洞の胸像を制作したいと申し出たところ、「そのようなもの欲しさの寄贈ではない」と一喝したとも伝えられています。唯一の望みは「水道料を日本一安くしてほしい」ということだけでした。昭和42年(1967年)、山口玄洞は尾道市名誉市民に選定され、その偉業は現在も語り継がれています。

構造の特徴:重力式とアーチ式の複合

久山田貯水池堰堤の最大の技術的特徴は、重力式とアーチ式を複合した構造形式にあります。堰堤は直線ではなく優美な弧を描いており、下流に設けられた副堰堤と同心円の平面形状を持っています。アーチ構造によって水圧を左右の岩盤に分散させると同時に、堤体自体の重量で水圧に抵抗する重力式の安定性も確保するという、二つの構造原理を巧みに組み合わせた設計です。

構造材料も注目に値します。堤体は現代的なコンクリート打設ではなく、「粗石モルタル積石張」と呼ばれる工法で築造されています。粗石の間にモルタルを詰め込んで堤体を構築し、その表面を花崗岩などの間知石で丁寧に布積みして仕上げています。この工法により、コンクリートに匹敵する強度と、まるで古城のような重厚かつ美しい外観が両立されています。

堤体の中央には越流部が設けられ、大雨時には余剰水が堤頂を越えて流下します。また、堤体右岸寄りには半円状の取水塔が張り出しており、ダムの威厳ある外観に独特のアクセントを加えています。堤高22メートル、堤頂長75メートル、総貯水容量72万立方メートルの規模を誇ります。

登録有形文化財としての価値

久山田貯水池堰堤は、2004年(平成16年)11月8日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。登録にあたっては、重力式とアーチ式を複合した大正期のダムとして構造上の技術的意義が高いこと、粗石モルタル積石張という現代ではほとんど見られなくなった工法の実例として貴重であること、さらに尾道市の近代上水道創設という歴史的背景を物語る施設であることなどが評価されました。

また、土木学会による「日本の近代土木遺産〜現存する重要な土木構造物2000選」にもCランクとして選定されており、日本の近代化を支えたインフラストラクチャーとしての価値が広く認められています。佐野藤次郎博士が関わった水道施設は、神戸市の布引水源池堰堤(重要文化財)や香川県の豊年池など著名なものが多く、久山田貯水池堰堤もその系譜に連なる重要な土木遺産です。

見どころと楽しみ方

久山田貯水池堰堤を訪れると、まず目に飛び込んでくるのは、緑の山肌に映える優雅な弧を描いた石積みの堰堤です。百年の歳月を経て落ち着いた灰褐色の風合いを帯びた石張りの表面は、周囲の自然と見事に調和しています。堰堤の天端(てんば)を歩くことができ、上流側には穏やかな貯水池の水面が、下流側には深い谷の景観が広がります。右岸から張り出す半円状の取水塔は、まるで城郭の櫓のような趣があり、写真撮影のスポットとしてもおすすめです。

貯水池の周囲には遊歩道が整備されており、森林浴を楽しみながら湖畔を散策できます。対岸には尾道市立大学のキャンパスが見え、静かなアカデミックな雰囲気を湖畔の景観に添えています。春には桜が貯水池を彩り、秋には周囲の山々が鮮やかに紅葉します。毎年梅雨入り前の5月頃には、貯水池近くの天之水分神社で水神祭が執り行われ、山口玄洞翁への感謝と水の恵みへの祈りが捧げられます。この伝統は大正14年の竣工以来、途切れることなく続いています。

周辺情報

久山田貯水池堰堤は、JR尾道駅から車で約15分の場所にあります。近くにはびんご運動公園があり、陸上競技場や野球場などスポーツ施設が整っています。堰堤見学の後は、尾道市街地に足を延ばして、この港町ならではの多彩な魅力を楽しむことができます。

尾道といえば、まず外せないのが「寺巡りの道」です。山の斜面に点在する25の寺院を結ぶこの散策ルートは、細い路地や住宅地の間を縫うように続き、尾道ならではの風情を満喫できます。千光寺とその山頂公園からは、尾道水道と瀬戸内海の島々を一望するパノラマビューが楽しめます。山頂へはロープウェイでアクセス可能です。全長1.6キロメートルの尾道本通り商店街には、カフェやラーメン店、手作り雑貨の店が軒を連ね、レトロな雰囲気の中で買い物や食べ歩きが楽しめます。

サイクリング愛好家にとっては、尾道は世界的に有名なしまなみ海道の起点でもあります。全長約60キロメートルのこのサイクリングルートは、6つの島を橋で渡りながら愛媛県今治市へと続き、瀬戸内海の絶景を存分に堪能できる世界屈指のサイクリングコースです。

また、2025年5月に尾道市上下水道局内の長江浄水場に開館した「尾道市水道記念館」では、尾道の水道事業百年の歩みが展示されており、山口玄洞翁の生涯を紹介するアニメーション上映なども行われています。久山田貯水池堰堤の見学と合わせて訪れると、尾道の水の歴史をより深く理解できるでしょう。

Q&A

Q久山田貯水池堰堤は一般に公開されていますか?
A堰堤の天端や周囲の遊歩道は一般の方も利用できます。ただし、現役の上水道施設であるため、一部立ち入りが制限されている区域があります。貯水池での遊泳や釣りは禁止されていますので、案内表示に従ってご見学ください。
QJR尾道駅からのアクセス方法を教えてください。
A車の場合、JR尾道駅から約15分です。バスの場合は、JR尾道駅から「尾道市立大学」行きに乗車し、「水源地」バス停で下車してください。所要時間は約25分です。車でお越しの場合は、国道2号線尾道バイパスの平原インターチェンジから門田トンネルを抜けて北西に進みます。
Q入場料はかかりますか?
A入場料は無料です。いつでも自由にご覧いただけます。
Qおすすめの訪問時期はいつですか?
A四季を通じて美しい景観を楽しめますが、特に春(3月下旬〜4月中旬)は貯水池周辺の桜が見事で、秋(11月頃)は紅葉が美しい時期です。毎年5月頃に行われる水神祭の時期に訪れると、伝統的な神事を見学できる特別な体験ができます。
Q駐車場はありますか?
A堰堤直近には専用の駐車スペースが限られています。近隣のびんご運動公園や尾道市立大学周辺の駐車場をご利用ください。アクセス路は走りやすい二車線道路です。

基本情報

正式名称 久山田貯水池堰堤(ひさやまだちょすいちえんてい)
文化財指定 登録有形文化財(建造物)登録番号 34-0058
登録年月日 2004年(平成16年)11月8日
竣工 1924年(大正13年)3月
設計監修 佐野藤次郎(顧問)、水野広之進(主任技師)
構造 重力式・アーチ式複合型、粗石モルタル積石張
規模 堤高22m、堤頂長75m
総貯水容量 720,000立方メートル
所有者 尾道市
所在地 広島県尾道市久山田町
アクセス JR尾道駅から車で約15分、またはバス「水源地」下車(約25分)
入場料 無料

参考文献

文化遺産オンライン — 久山田貯水池堰堤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/117487
尾道観光協会「おのなび」— 久山田水源地【登録有形文化財】
https://www.ononavi.jp/sightseeing/showplace/detail.html?detail_id=746
尾道市水道創設100周年記念ホームページ
https://water-onomichi-anniv100th.jp/
Wikipedia — 久山田ダム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%B1%B1%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0
Wikipedia — 山口玄洞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%8E%84%E6%B4%9E
一般財団法人日本ダム協会「ダム便覧」— 久山田ダム
http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0965

最終更新日: 2026.03.07