四年に一度、牛とともに営まれる田植

五月の下旬、四年に一度だけ、塩原の石神社前の水田に太鼓と田植歌が響く。集まるのは早乙女や囃子方だけではない。頭に赤い太紐を巻き、背に飾鞍を付けた牛が、十五頭から二十頭ほど列をつくる。塩原の大山供養田植は、太鼓と歌に合わせて共同で行う田植でありながら、その田植に牛馬の供養を組み入れた行事である。平成十四年(二〇〇二年)二月十二日、国の重要無形民俗文化財に指定された。

舞台となる塩原は、広島県庄原市東城町の北部、岡山県との県境に近い山あいの集落である。毎年見られる祭りではない。訪れた者は、田植という日々の農作業が、牛馬への祈りをともなう一日がかりの儀礼として営まれる姿に出会うことになる。

牛馬を供養した山里の信仰

行事の名は、その由来を簡潔に語っている。「大山」とは、県境を越えた鳥取県にそびえる伯耆大山を指す。伯耆・出雲・美作・備中北部・備後北部にかけての一帯では、牛馬の安全を守る神として大山智明大権現への信仰が篤かった。東城町内の高い山の頂にはおおむね大仙社が勧請され、塩原の東南にある多飯が辻山の山頂近くにも大仙神社が鎮座する。

この信仰には現実の裏付けがあった。塩原の周辺は、農耕とともに砂鉄を用いたたたら製鉄が行われた土地である。牛馬は田を耕すだけでなく、木炭や鉄の運搬にも欠かせなかった。一軒の家の暮らしが牛馬の働きに支えられており、不慮の死をとげた牛馬の喪失は、ひとごとでは済まされなかった。

田植もまた、機械化以前は大勢の手を要する共同作業であった。東城町では何軒かの農家が一緒に田植を行い、その列には太鼓を打ち田植歌を歌って作業を先導する役の者が必ず加わった。こうした太鼓囃子の田植を、この地域ではタイコタウエ、シゴトダなどと呼び、昭和二十年(一九四五年)ころまで続けていた。さらに田植の季節の締めくくりには、大地主の田などで祝祭的で大規模なオオタウエが営まれた。大山供養田植は、このオオタウエに牛馬供養の大山信仰が結びついて生まれた特別な田植である。中世に描かれた「大山寺縁起絵巻」には供養田植の絵図が見え、習わしそのものは古くさかのぼると考えられている。

記録から指定へ

戦後、田植の機械化が進むと、太鼓で囃す田植は日常の農作業から姿を消した。昭和五十年(一九七五年)、この行事は記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択される。翌五十一年(一九七六年)と同五十五年(一九八〇年)に行われ、昭和六十年(一九八五年)からは四年目ごとに、石神社前の田で公開されるようになった。国の重要無形民俗文化財への指定は平成十四年(二〇〇二年)である。

評価されたのは、ここに残るものの完結性である。塩原の行事は、目印の綱から掛け合いの歌まで、機械化以前の共同田植の作業構造をそのまま伝え、その労働を神事と仏事の重なる儀礼に結びつけている。豊作を祝う安芸地方の花田植とは目的が異なる点に注意したい。塩原の主旨は、不慮の死をとげた牛馬の霊を供養し、飼育中の牛馬の安全と五穀豊穣・家内安全を祈ることにある。平成二十六年(二〇一四年)には、地域伝統芸能の保存と継承に対する全国規模の賞も受けている。

牛を中心に運ぶ一日

準備は前日から始まる。田の近くに、丸太で供養棚を組む。中央に通路を設けた門のような形で、幅およそ八メートル、奥行三メートル、床の高さは二メートルほどである。左右の意味は異なり、田に向かって通路の左側が仏事の席、右側が神事の席となる。男性たちはまた、田の畦の一端に土を盛って塚を築き、フクラシ(そよご)の枝と薄十二本をさす。田の神を迎える場所で、サンバイヤシロと呼ばれる。

当日の朝、午前九時を過ぎると、塩原や周辺から牛が公民館に引かれてくる。牛の頭部に赤い太紐を巻き、飾鞍などで飾り付けたうえで、行列の順を決める。

昼を過ぎると、田植踊が一日の幕を開ける。天狗面の露払、御幣持ち、拍子木を手にした音頭取、滑稽な仮面を付けササラを持つササラスリ、白い法被に菅笠をかぶり締太鼓を腰に付けたサゲ、そろいの浴衣をまとった早乙女たちが列をつくって進む。途中で早乙女たちは輪になり、田植歌とサゲの太鼓に合わせ、田植の所作を取り入れた踊りを舞う。

踊りが終わると、飾り牛が列をなして供養棚に向かう。棚では神職が大祓を、僧侶が回向を行っている。棚をくぐるとき、牛主は神職から小さな御幣を、僧侶から供養札と大般若経一巻を授かり、それを牛に付けて田へ入る。田に入った牛の列は、複雑に定められた経路を歩いて代かきを行い、苗を植えるための滑らかな床をつくる。

田植そのものが行事の山場である。絣の着物に手拭をかぶった早乙女たちが、サゲとともに、新たに加わった少女三名を伴って再び列を組む。供養棚で少女たちはサンバイナエと呼ばれる最初の苗束を授かり、早乙女の頭取三名は小さな御幣を受け取る。田の最初のひと植えは、この苗で行うと定められている。苗を等間隔に植える見当として、目印を付けた綱が田の幅いっぱいに張られ、三名の男性が綱を引きながら水面に押しつける。音頭取の拍子木を合図に、サゲの太鼓にのせて音頭取が歌の前半を歌い、早乙女たちが後半を歌いながら苗を植える。一つの歌で一列が終わると綱を一幅分下げ、早乙女が一歩退いて次の歌に移る。その間、ササラスリは早乙女の腰をササラの棒で突き、見物の笑いを誘う。翌日、行事は多飯が辻山の大仙神社へのお札納めをもって静かに締めくくられる。

訪れるにあたって

気軽な旅の途中で出会える行事ではない。公開は四年に一度、五月下旬の日曜日に限られ、当日の進行はおおむね午前の遅い時刻から午後三時ごろまでである。年や日付は回ごとに変わるため、訪問を考える際は庄原市の観光情報であらかじめ確認しておきたい。

会場は塩原の石神社前の田である。公開日は周辺の道路が通行止めとなり、会場に駐車場はない。車は旧小奴可中学校に停め、そこから運行されるシャトルバスで会場へ向かうことになる。車でのアクセスは中国自動車道の東城インターチェンジが起点となるが、東城は三県の接する山間に位置するため、広島市内からの道のりは長い。

塩原と東城の周辺

東城の一帯は、腰を据えて巡るだけの見どころがある。よく知られるのは帝釈峡で、庄原市と神石高原町にまたがって全長およそ十八キロメートルにわたる石灰岩の渓谷である。中心となるのは雄橋。全長約九十メートル、高さ約四十メートルの天然の石橋で、この種の造形としては国内最大級にあたる。渓谷には鍾乳洞の白雲洞があり、下流には人造湖の神龍湖が広がって、春と秋には遊覧船から色づく断崖を眺められる。

東城の中心部は、レトロな町並みの残る旧城下町である。古くからたたら製鉄や酒・酢の醸造、石灰石の生産で栄えた土地で、明治期の上質な商家建築である三楽荘は内部を見学でき、往時のにぎわいを伝えている。行事の主題にちなめば、土地の名物として比婆牛も挙げておきたい。同じ牛馬の里で育てられてきた和牛である。

Q&A

Q塩原の大山供養田植はいつ見られますか。
A公開は四年に一度、五月下旬の日曜日に限られます。年が変わるため、訪問前に庄原市の観光情報で日程を確認してください。
Q花田植とはどう違うのですか。
Aどちらも太鼓や歌、飾り牛を用いるため似て見えます。安芸地方の花田植は豊作を祝う行事ですが、塩原の行事は牛馬の供養を中心とし、牛が供養棚をくぐる場面が眼目となります。
Qなぜ田植の行事に牛が登場するのですか。
Aこの地域では農耕とともにたたら製鉄が行われ、牛馬は田を耕すだけでなく木炭や鉄の運搬にも用いられました。暮らしを支えた牛馬を供養し、飼育中の牛馬の安全を祈るのがこの行事です。
Q「大山」とは何を指しますか。
A隣接する鳥取県の伯耆大山を指します。牛馬の守護神への信仰にちなむ名称で、行事は翌日、多飯が辻山の大仙神社へのお札納めをもって終わります。
Q会場に駐車場はありますか。
Aありません。公開日は石神社周辺が通行止めとなり、会場に駐車場はありません。旧小奴可中学校に駐車し、シャトルバスで会場へ向かってください。

基本情報

名称塩原の大山供養田植(しおはらのだいせんくようたうえ)
所在地広島県庄原市東城町塩原(石神社前の水田)
指定区分重要無形民俗文化財(民俗芸能・田楽) 平成十四年(二〇〇二年)二月十二日指定
選択昭和五十年(一九七五年) 記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択
保護団体小奴可地区芸能保存会
公開四年に一度、五月下旬の日曜日に現地公開
主な構成田植踊、牛馬供養、牛による代かき、太鼓と歌にあわせた田植、翌日の大仙神社へのお札納め
アクセス中国自動車道・東城インターチェンジが起点。公開日は旧小奴可中学校に駐車し、シャトルバスを利用

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/302/761
文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/204113
庄原観光ナビ(広島県庄原市観光情報サイト)
https://www.shobara-info.com/1492
小奴可の里自治振興区
http://onukanosato.jp/bunkazai/kuyoutau/
日本伝統文化振興機構(JTCO)
https://jtco.or.jp/bunkakan/?act=detail&c=19&id=31&p=0

最終更新日: 2026.05.23