大館跡 ― 蠣崎氏が蝦夷地を治めた台地の城

北海道最南端の松前町、字神明から字福山にかけての丘陵に、舌状に突き出した台地がある。標高は45メートルから55メートルほど。東をバッコ沢、西を小館沢に挟まれ、前面を大松前川が流れる。攻めにくく守りやすいこの台地に築かれたのが大館跡で、昭和52年(1977)4月5日に国の史跡に指定された。中世から近世にかけて、蝦夷地を治める政庁が置かれた場所である。

「大館」という名は、城の構造そのものを指している。台地の先端側に幅30メートル・長さ100メートルほどの「小館」、堀割を挟んで北側に幅200メートル・長さ300メートルほどの「大館」が置かれた。南の小館沢口に橋を架けて入口とし、大館の後背には柵をめぐらせ、さらにその奥に堀割を設けて防御を固めている。居館は大館に建てられたと考えられ、その北東部からは焼けた材などが見つかる地点がある。

道南十二館のひとつとして

15世紀、本州北部の和人が津軽海峡を越えて渡島半島へと進出し、先住のアイヌと交易しながら勢力を広げていった。その過程で築かれた拠点の城館群が「道南十二館」である。大館はそのひとつであり、のちに最も重い役割を担うことになる。

起源は室町時代にさかのぼる。嘉吉年間(1441〜1444)に南部氏との戦いに敗れて蝦夷地へ逃れた安東氏が居館としたのが始まりと伝えられる。蝦夷地を治める立場にあった安東氏は、同族の下国定季を館主として配し、代官としてこの地を治めさせた。

康正2年(1456)、和人の進出に対するアイヌの蜂起、コシャマインの戦いが起こる。十二館のうち持ちこたえたのは茂別館と花沢館のみであった。このとき、花沢(上ノ国)の館主・蠣崎季繁の客将であった武田信廣がコシャマイン父子を討ち、のちの松前家初代として名を残すことになる。なお、この戦いの発端を長禄元年(1457)とする記録もあるが、文化庁の指定では康正2年とされている。

その後の大館の館主は安定しなかった。定季の子・恒季は行状が粗暴で、明応5年(1496)に同族によって自害させられ、代わって相原季胤が守りに就いた。永正10年(1513)、再びアイヌとの戦い(大館合戦)が起こり、相原氏は滅びる。翌永正11年(1514)、上ノ国にいた蠣崎氏2世・光廣が小舟180余隻を率いて大館へ移り、館名を徳山館と改めた。

なぜ史跡に指定されたのか

光廣以降、蠣崎氏は義廣、季廣、慶廣と4代にわたってこの台地を本拠とした。5世慶廣の代に、豊臣秀吉・徳川家康から大名として認められ、姓を松前と改める。そして慶長11年(1606)、南方の福山台地に新たな城(福山館)を築いて移り、徳山館は廃絶した。

この一連の流れこそ、大館跡が国史跡として守られている理由である。15世紀に点在した交易の城館と、江戸時代を通じて蝦夷地を治めた松前藩。その両者を結ぶ実物の証拠が、この台地に残る。松前氏が最終的に築いた福山城は、安政元年(1854)竣工の、日本式城郭としては最北・最後のものとして知られるが、その出発点がここにある。本格的な発掘調査はほとんど行われておらず、土の下に何が眠るかは多くがなお謎のままで、それがかえって研究の関心を引き続けている。

いま現地で見られるもの

復元天守も入場券売り場もない。大館跡は大きく手を加えられないまま残されているため、見どころは地形そのものである。長く伸びる土塁、二つの郭を分けていた空堀のくぼみ、そして台地を守る天然の崖。これらの起伏を読み解くには少し時間がかかるが、その分だけ報われる。高みに立てば、両側に沢を抱え、前面を川に守られたこの尾根を、なぜ城主が選んだのかが体で分かる。

跡地の一角には現在、徳山大神宮が鎮座し、登り口はその近くから始まる。ただし登城口は非常に分かりにくく、案内もほとんどない。出かける前に、松前町郷土資料館で散策マップを手に入れておくとよい。そして松前町自身が注意を促しているとおり、周辺はヒグマが出没する恐れがある。音を立てて歩き、早朝・夕暮れの時間帯は避けるなど、十分な備えを。

松前のまわりを歩く

大館跡は松前城の北東およそ1キロに位置し、両者をあわせて巡るのが自然だ。松前城(福山城)は、台地の城から発展したその後の姿であり、蠣崎氏が1606年に移った先でもある。松前は北海道で唯一の城下町で、松前公園は数千本・多品種の桜が長く咲き継ぐ名所として全国に知られる。

近くには松前藩主松前家墓所、龍雲院や法源寺山門があり、地域に伝わる松前神楽も受け継がれている。鉄道路線が廃止されて久しいため、松前を訪れるには計画が要る。多くの場合、北海道新幹線の木古内駅から車かバスで向かうことになり、函館からおよそ1時間半の道のりである。

Q&A

Q大館跡には建物や天守はありますか。
Aありません。1606年に廃絶し、その後再建もされていません。残るのは土塁、二つの郭を分ける空堀、台地の天然の崖といった遺構です。建物を見るというより、地形を読んで楽しむ史跡です。
Q「大館」と「徳山館」、二つの名があるのはなぜですか。
A大館がもとの呼び名で、二つの郭のうち大きい方に由来します。永正11年(1514)に蠣崎光廣が入って徳山館と改名しました。どちらも同じ場所を指します。
Q松前城とはどう関係していますか。
A直接つながっています。蠣崎氏(のちの松前氏)は4代にわたり大館を本拠とし、慶長11年(1606)に福山館(現在の松前城)を築いて移りました。大館は同じ一族の、より古い拠点です。
Q気軽に訪ねられますか。
A自由に立ち入れて入場料もありませんが、観光地として整備はされていません。徳山大神宮近くの登城口は分かりにくく、道標もほぼないため、先に松前町郷土資料館でマップを入手してください。ヒグマの出没にも注意が必要です。
Q道南十二館とは何ですか。
A15世紀に蝦夷地南部の海岸沿いへ進出した和人が築いた、12の城館の総称です。大館はそのひとつで、のちに松前藩を興す一族の本拠となりました。

基本情報

名称大館跡(おおだてあと)/別称 徳山館
所在地北海道松前郡松前町字神明等
指定区分国指定史跡
指定年月日昭和52年(1977)4月5日
時代中世〜近世(室町〜江戸初期)
立地標高45〜55mの舌状台地。堀割を挟み小館・大館の二郭に区画
管理松前町
アクセス松前城の北東約1km。木古内駅から車・バス、函館からおよそ1時間半
注意未整備の史跡。登城口が分かりにくく、周辺はヒグマ出没の恐れあり

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/53
文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137544
大館跡|まつまえの文化財(松前町)
https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/bunkazai/detail/00001634.html
松前氏城跡福山城跡|まつまえの文化財(松前町)
https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/bunkazai/detail/00001681.html

最終更新日: 2026.05.29