日本海を見下ろす三つの館跡

北海道南西部、渡島半島の日本海側にある檜山郡上ノ国町。その丘陵に、花沢館・洲崎館・勝山館という三つの中世の館跡が、互いに近い距離で並んでいる。三つをまとめて「上之国館跡」と呼び、国の史跡に指定されている。石垣の城ではなく、丘の斜面に土塁と空堀をめぐらせ、平坦地を段々に削り出した土の城。本州とは異なるこの北の砦を築いたのは、十五世紀に津軽海峡を渡ってきた和人たちだった。

当時、本州から渡ってきた人々は「渡党(わたりとう)」と呼ばれた。彼らは先住民であるアイヌの人々と隣り合い、交易し、ときに争いながら暮らしていた。三つの館跡は、その接触がやがて松前藩へとつながる政治秩序へ固まっていく、その出発点に立っている。

三つの守護が置かれた土地

十五世紀半ば、渡島半島の南部は津軽の安藤(安東)氏の支配下にあった。海岸は三つの地域に分けられ、それぞれに守護が置かれていた。東の「下之国」、中央の「松前」、そして天の川河口を中心とする西の「上之国」である。上之国は箱館・松前と並ぶ港を持ち、日本海をのぼる交易の足がかりとなっていた。

和人の進出は摩擦を生む。長禄元年(1457)、積もった対立はコシャマインの戦いとして噴き出した。コシャマインを首領とするアイヌの蜂起で、いくつかの和人の館が落ちた。だが蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の守る花沢館は陥落しなかった。記録は、若い家臣の武田信広(たけだのぶひろ)がコシャマインを討って蜂起を鎮めたと伝える。信広は季繁の養女を妻に迎えて蠣崎氏を継ぎ、この一族が一世紀半のちに松前氏を名乗ることになる。

三つの館を読み解く

三館は古い順に読むことができ、後のものほど規模が大きい。最も古い花沢館は、南北に約200メートル、最大幅80メートルほど、麓から頂上までの比高は約50メートルで、南から北へ大小六段の平坦部に分かれる丘の城だ。館の後方からは幅11メートル・深さ3.9メートルの大きな堀が確認され、十五世紀の中国製青磁・白磁、珠洲焼の擂鉢、釘や鋸などの鉄製品、頂上付近の約2,000枚の銭が見つかっている。出土した陶磁器はすべて十五世紀のもので、隣の勝山館が本格化する前に廃城になっていたとわかる。松前藩の記録『福山秘府』も、寛正三年(1462)に季繁が没したと記し、文献とほぼ符合する。

洲崎館は、北海道で唯一、築かれた年がはっきりしている館である。北海道最古の記録『新羅之記録(しんらのきろく)』によれば、武田信広がコシャマインの戦いで功をあげた長禄元年(1457)に築いたもので、このとき盛大な儀式を行ったと伝わる。発掘では十四〜十五世紀の青磁・白磁・珠洲焼や約2,500枚の銭、建物の柱穴が出ているが、遺物は砂丘の高所ではなく旧目名川沿いの低地、砂館神社の参道付近に集中する。さらに古い層もあり、十世紀頃の擦文(さつもん)土器、青森・五所川原産の須恵器、本州産の土師器が見つかった。信広が来るより五百年も前から、この河口に人が住み、交易の場があったことを示している。

勝山館は三館で最も大きく、最もよく調べられている。夷王山(いおうざん)の斜面に約35万平方メートルの広がりを持つ山城で、信広が日本海側を掌握したのちに築いた。館神の八幡宮が文明五年(1473)に祀られたことから、築城はこの頃と考えられる。以後およそ130年、十六世紀末まで、武田・蠣崎氏の日本海側における政治・軍事・交易の中心であり続けた。

なぜ貴重なのか

勝山館では二十年を超える発掘により、十万点をゆうに超える出土品が得られた。うち陶磁器は約五万点。中国産の青磁・白磁・染付に、国産の美濃焼・越前焼が並ぶ顔ぶれは、遠隔地交易につながった集落の姿をよく示している。建物・井戸・空壕・橋の跡がたどられ、館の直下には町場の輪郭も見えてきた。これらを合わせると、十五世紀の北海道にあって「中世都市」と呼ぶにふさわしい景観が立ち上がる。

とりわけ重い意味を持つ出土品がある。館内からはアイヌのつくった骨角器が五百点あまり出ている。中世史研究の網野善彦は、これをアイヌと本州系の人々が同じ館内で共に暮らしていたことのほぼ確実な証と読んだ。勝山館跡は教科書でいう「北の中世」を考えるうえでの基準となる遺跡であり、日々の暮らしの層が、その議論を伝説ではなく実物の上に立たせている。

いま訪ねるなら

見学の中心は勝山館である。柵・空壕・橋は立体的に復元され、建物や井戸の跡は地表に平面表示されている。園路沿いには説明板が立ち、歩きながら館の構造を追える。勝山館跡は「続日本100名城」にも選ばれている。

まず斜面の麓にある勝山館跡ガイダンス施設から始めたい。中央に置かれた200分の1の復元模型は、ガラス越しに外の現地と見比べられるよう据えられている。映像コーナーでは、発掘データから起こしたコンピューターグラフィックスによる復元を交え、北の中世史を解説する。建物の地下には、夷王山の墓のうち七基が発掘時のまま型取りされて元の位置に再現されており、館の人々が同じ丘に眠っていることを静かに示す。武田信広自身も明応三年(1494)に没し、夷王山の山頂に葬られた。山頂からは日本海が広く見渡せる。

三館をつなぐ尾根を歩けば、古い上之国のほかの文化財にも足を延ばせる。重要文化財の上國寺本堂と旧笹浪家住宅、北海道指定の上ノ國八幡宮本殿などである。毎年七月初めには、勝山館跡の隣接地でコシャマイン慰霊祭が営まれている。

Q&A

Q「館(たて)」とは何ですか。
A石垣を積んだ城ではなく、土を用いた防御施設をともなう居館です。丘の自然地形と土塁、空堀で守りを固め、内部の平坦部に建物や柵を構えました。北海道南部の中世にはこうした館が数多く築かれました。
Q三つの館すべてを歩けますか。
A整備されているのは勝山館で、復元や平面表示、説明板、ガイダンス施設があります。花沢館と洲崎館はおおむね自然のままで、発掘も部分的なため、土塁や堀の読み取りはやや難しくなります。
Q松前藩とのつながりは。
A洲崎館・勝山館を築いた武田信広は蠣崎氏を継ぎました。その子孫が永正十一年(1514)に本拠を松前へ移し、のちに松前を名乗って、約三百年にわたり北海道南部を治めました。
Qアイヌについて何がわかりますか。
Aアイヌは北海道の先住民です。勝山館の内部からアイヌの骨角器が五百点あまり見つかったことは、アイヌと和人が別々の集落ではなく同じ館内で共に暮らしていたことを示すと読まれています。
Qいつ訪れるのがよいですか。
Aガイダンス施設は暖候期、おおむね四月中旬から十一月初旬まで、10時から16時の開館で、月曜は休館です。丘の上は晩春から秋が歩きやすく、来訪前に最新の開館日を確認してください。

基本情報

名称上之国館跡 花沢館跡 洲崎館跡 勝山館跡
所在地北海道檜山郡上ノ国町
指定区分国指定史跡
指定年月日昭和52年(1977)4月12日指定。昭和62年(1987)・平成18年(2006)に追加、平成18年に統合・改称
面積(概数)花沢館 約29,000平方メートル/洲崎館 約67,000平方メートル/勝山館 約350,000平方メートル
時代15〜16世紀(中世)
ガイダンス施設勝山館跡ガイダンス施設(上ノ国町字勝山427番地)。開館はおおむね4月中旬〜11月初旬、10:00〜16:00、月曜休館。入館料 大人200円
アクセス渡島半島日本海側。函館から車またはバス

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/54
史跡上之国館跡 勝山館跡(北海道上ノ国町)
https://www.town.kaminokuni.lg.jp/hotnews/detail/00000285.html
史跡上之国館跡 花沢館跡(北海道上ノ国町)
https://www.town.kaminokuni.lg.jp/hotnews/detail/00000283.html
史跡上之国館跡 洲崎館跡(北海道上ノ国町)
https://www.town.kaminokuni.lg.jp/hotnews/detail/00000282.html
勝山館跡ガイダンス施設(北海道上ノ国町)
https://www.town.kaminokuni.lg.jp/hotnews/detail/00000391.html

最終更新日: 2026.05.29