ヒノキアスナロおよびアオトドマツ自生地
北海道の南、渡島半島の西海岸に位置する江差町。日本海に面したこの町の内陸には、椴川(とどがわ)が深い谷を刻み、その上流域に約500ヘクタールにおよぶ針葉樹の原生林が残されている。ここは二つの樹種が偶然出会う場所だ。本州北部から北上してきたヒノキアスナロが、ちょうど自生の北端に達する。一方、北海道全域を覆うトドマツの一変種であるアオトドマツは、ここを南限とする。北からの森と南からの森がせめぎあい、重なりあう一帯——それがこの天然記念物の正体である。
大正11年(1922年)10月12日、内務省告示により国の天然記念物に指定された。指定から100年を超える歳月、この森はおおむね人の手を入れずに保たれてきた。
北限と南限が重なる、稀有な森
ヒノキアスナロ(学名 Thujopsis dolabrata var. hondae)はヒノキ科アスナロ属の常緑高木で、青森県では「ヒバ」、石川県では「あて(能登ヒバ)」と呼ばれる。アスナロの北方変種にあたり、太平洋側は栃木県、日本海側は能登半島以北、そして渡島半島南部までを分布の範囲とする。江差町から隣接する上ノ国町、厚沢部町にかけての一帯が、その自生地の北限と認められている。
もう一方の主役、アオトドマツはマツ科モミ属のトドマツ(Abies sachalinensis)の一型である。トドマツは球果のかたちの違いからアカトドマツとアオトドマツに分けられ、両者の分布は連続的だが、アオトドマツは北海道南西部に多い。江差町の椴川一帯はその南限地帯にあたる。
二つの樹種の生育適地は本来ずれている。冷温帯のブナ林帯に位置するこの場所は、ヒノキアスナロにとっては北のぎりぎりの寒さ、アオトドマツにとっては南のぎりぎりの暖かさにあたる。両者が交わる森林は日本でもごく限られた地域にしか存在せず、そこに固有の生物群集が育まれている。
指定の理由——原始林と分布の限界
文化財保護法に基づく天然記念物の指定基準のうち、この自生地は二つの基準に該当する。「代表的原始林、稀有の森林植物相」と「著しい植物分布の限界地」である。前者は森そのものの貴重さを、後者は北限・南限という地理的な意義を指す。一つの森林が二つの基準で評価されているところに、この場所のかけがえのなさがある。
近年の遺伝子解析からは、もうひとつの価値が浮かび上がってきた。江差のヒノキアスナロは、氷河期を耐え抜いた祖先集団に最も近い遺伝的特徴を示すという。北海道に隔離されたまま生き延びた、いわば氷河期の生き証人ともいえる集団なのである。本州のヒバ林とは異なる遺伝資源として、学術的にも注目されている。
昭和18年(1943年)8月17日には名称の整理と一部区域の解除が行われた。その後、昭和63年(1988年)に林野庁が「椴川植物群落保護林」を設定し、平成30年(2018年)の保護林再編で「椴川生物群集保護林」に改められて、現在に至っている。面積は498.60ヘクタール。鳥獣保護区特別保護地区、土砂流出防備保安林にも指定され、何重もの法的な網がかぶせられている。
森の表情を読む
林野庁の現況調査によれば、この森の高木層はヒノキアスナロとアオトドマツの二種が優占する。樹高はおよそ16メートル、胸高直径は24〜26センチメートル前後。屋久杉のような巨木林ではなく、北方系針葉樹らしい、引き締まった中庸の樹形が並ぶ。ブナ、ミズナラ、ハリギリといった広葉樹が少数まじり、季節の変化に応じて森にわずかな色を添える。
亜高木層にもヒノキアスナロが多い。低木層になるとアオダモが顔を出し、林床にはシダ類を中心とした草本が広がる。倒木のあとに生まれた林冠のすきまには、ブナやシナノキの幼樹とともにトドマツの実生が顔を出している。森が次の世代へ静かに更新されつつある証だ。
地形は急峻で、ヒノキアスナロは斜面下部の湿った場所を好む。雪の重みで根元が大きく曲がった樹も多い。匍匐した枝から根を出して新たな株となる「伏条更新」も、この森でしばしば観察される。垂直方向だけでなく水平方向にも広がっていく、北方の針葉樹ならではの戦略である。
「檜山」という地名が語ること
江差町を含むこの一帯の旧称は「檜山」。地域行政の区割りにも「檜山振興局」「檜山郡」の名が残る。この「檜山」とは、ヒバの茂る山を地元の人々が「ヒノキ山」と呼んだことに由来する。ヒノキは本州中部以南の樹種で、北海道には自生しない。しかしヒバの材質や姿がヒノキを思わせたため、この呼び名が定着した。
ヒバ材は耐朽性と芳香性に優れ、建築用材として珍重された。慶長元年(1596年)には、伐採地に近い上ノ国に「檜山番所」が設置され、ヒバの伐り出しと流通が組織化される。江戸期に入ると伐採地は江差・厚沢部へと広がり、番所も江差に移った。松前藩は江戸城や寺社の用材としてヒバ材を本州に送り、その収益で藩の財政を支えたという。
その結果、道南のヒバ天然林はほとんど姿を消した。今日、椴川上流のこの森が残されているのは、早くから国の天然記念物に指定され、伐採の手が及ばなかったからにほかならない。江差の町に建つ江戸〜明治期のヒバ建築——重要文化財の旧中村家住宅などは、いわばこの森と血のつながった建物といえる。
訪れる前に知っておきたいこと
自生地の核心部は深い谷の中にあり、一般の観光客が容易に立ち入れる場所ではない。かつては林道が通じ、見学のためのルートも整備されていたが、現在その林道は廃道化し、自然に還りつつある。学術調査や森林管理の関係者を除き、立ち入りは控えるべきである。
町は隣接する国有林内に「檜山古事の森(ひばモデル林)」を設定し、ヒバを4百年かけて育てる長期的な森林事業を進めてきた。歴史的木造建造物の修復用材を将来にわたって供給することを目的とした、林野庁の全国事業の一環である。ただしモデル林も2025年現在は立入が制限されており、訪問の可否は事前に江差町および檜山森林管理署へ問い合わせるのが確実だ。
森そのものに足を踏み入れることが難しい以上、ヒバと江差の関わりを知るには、町なかに残る「いにしえ街道」沿いの歴史的建造物を訪ねるのがよい。中歌町から姥神町にかけて続くこの通りには、北前船交易で栄えた商家・蔵・社寺が今も建ち並び、その多くが地元のヒバ材で建てられている。森の樹齢と、町の樹齢が呼応する場所である。
江差で過ごす一日のための周辺情報
江差町は、北海道で最も早く和人文化が根づいた港町のひとつ。江戸期から明治初期にかけてニシン漁とヒバ材交易で繁栄し、「江差の五月は江戸にもない」と謳われた。函館から車で約1時間半、もしくは函館バスで約2時間でアクセスできる。
- かもめ島——江差港に浮かぶ周囲約2.6キロメートルの島。堤防で陸続きとなっており、徒歩で渡れる。日本海に沈む夕陽の名所で、北前船時代の船繋ぎ岩や瓶子岩などの奇景も見られる。
- 旧中村家住宅——いにしえ街道沿いに建つ、近江商人の建てた重要文化財。主屋・文庫倉・下ノ倉・ハネダシの4棟が一列に並ぶ独特の構成で、地元のヒバ材がふんだんに使われている。
- 開陽丸記念館——榎本武揚が率いて江差沖に座礁・沈没した幕末の軍艦「開陽丸」の実物大復元船。海中から引き揚げられた遺物約3,000点が展示されている。
- 姥神大神宮——北海道最古の歴史を持つ神社。毎年8月9〜11日の渡御祭では13台のヤマ(山車)が町を巡行する。
- 江差追分会館——民謡「江差追分」の保存と継承を担う施設。実演や歴史展示があり、伝統芸能に触れられる。
Q&A
- 自生地そのものを見学することはできますか。
- 核心部への一般立入はできません。林道は廃道化し、保護林として人手を加えずに自然の推移に委ねる方針が取られています。学術研究や森林管理上の必要がある場合のみ、所定の手続きを経て入林が認められます。
- ヒノキアスナロは「ヒノキ」と「アスナロ」のどちらに近い樹ですか。
- 分類上はアスナロ属の樹で、ヒノキ属とは別属です。ただしヒノキ科に属し、葉の形や材の性質がヒノキに似ているため、青森や北海道南部では古くから「ヒバ」あるいは「ヒノキ」と呼ばれてきました。
- アオトドマツは普通のトドマツとどう違うのですか。
- 植物学上は球果(松ぼっくり)の形態のちがいによる区分で、アカトドマツとアオトドマツに分けられます。アオトドマツは北海道南西部、アカトドマツは北東部に多いとされますが、両者の変異は連続的で明確な境界はありません。
- 江差を訪れた際、この天然記念物に最も近い形でヒバに触れられる場所はどこですか。
- いにしえ街道沿いの旧中村家住宅をはじめとする歴史的木造建築群がおすすめです。地元のヒバ材で建てられており、独特の香りや木肌に触れることで、椴川の森との文化的な繋がりを実感できます。
- いつ訪れるのがよいですか。
- 江差町全体としては、姥神大神宮渡御祭が行われる8月、江差追分全国大会の9月第3週末、新緑の5〜6月が見ごろです。冬は積雪が深くアクセスが制限されるため、初めての訪問は雪のない季節をおすすめします。
基本情報
| 名称 | ヒノキアスナロおよびアオトドマツ自生地 |
|---|---|
| ふりがな | ひのきあすなろおよびあおととまつじせいち |
| 指定区分 | 国指定天然記念物 |
| 指定年月日 | 大正11年(1922年)10月12日 |
| 異動 | 昭和18年(1943年)8月17日 名称変更・一部解除 |
| 告示番号 | 270 |
| 指定基準 | (二)代表的原始林、稀有の森林植物相 / (十)著しい植物分布の限界地 |
| 所在地 | 北海道檜山郡江差町 |
| 面積 | 椴川生物群集保護林として498.60ヘクタール |
| 主な植生 | ヒノキアスナロ(Thujopsis dolabrata var. hondae)、アオトドマツ(Abies sachalinensis)が高木層を優占。ブナ、ミズナラ、ハリギリ等が少数混交 |
| 管理 | 檜山森林管理署(林野庁) |
| 関連法指定 | 椴川生物群集保護林、土砂流出防備保安林、鳥獣保護区特別保護地区 |
| 公開状況 | 核心部は原則非公開(学術調査等を除く) |
| 江差町へのアクセス | 函館空港から車で約1時間30分/JR新函館北斗駅から函館バス江差行で約2時間 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「ヒノキアスナロおよびアオトドマツ自生地」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/8
- 文化遺産オンライン「ヒノキアスナロおよびアオトドマツ自生地」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215619
- 林野庁北海道森林管理局「椴川生物群集保護林」
- https://www.rinya.maff.go.jp/hokkaido/hokkaido/policy/conservation/hogorin/syokubutugunraku_197.html
- 江差町公式ホームページ「町民の森」
- https://www.hokkaido-esashi.jp/modules/towninfo/content0017.html
- 江差町観光情報「檜山古事の森(北限のヒバ)」
- https://esashi.town/tourism/page.php?id=216
- 北海道立総合研究機構 林業試験場「ヒノキアスナロ」
- https://www.hro.or.jp/forest/research/fri/database/zukanf/kitanoki/a07asunaro.html
最終更新日: 2026.05.16