商いの場でもあった主屋

稲岡家住宅主屋は、兵庫県加西市三口町813-2に建つ明治末期の造り酒屋の住宅で、平成17年(2005年)7月12日に国の登録有形文化財(建造物)となった。

文化庁の解説文は、この建物を「造り酒屋の事務所兼用住宅主屋」と記す。短い一句だが、間取りの成り立ちはほぼここに尽きる。帳面をあらためる場と、家族が食事をとる場が、ひとつ屋根の下で隣り合っていた。秋に米が入り、寒の内に仕込みが進む。その季節の巡りが、暮らしと同じ土間口を通っていたわけである。

加西市は姫路の北東、播州平野のただ中に位置する。米どころに酒造が根づくのは自然な成り行きで、稲岡家の構えも、町場の商家というより在郷の造り酒屋の姿をとどめている。

屋根は東西に棟を通した入母屋造、桟瓦葺。南・北・東の三面に下屋を廻すため、建物の輪郭は一枚の壁として立ち上がらず、段を踏むように低くなっていく。東方の土間部では棟そのものを落としてあり、どこが仕事の場だったかは、玄関を探すより先に屋根の高さが教えてくれる。

登録の理由と位置づけ

登録有形文化財の制度は平成8年(1996年)に始まった。国宝・重要文化財を生む指定制度に比べると保護の網目はゆるく、近代の建物を使いながら残すことに主眼が置かれている。所有者は大きな改変の前に届け出を行い、その代わりに技術的な助言や税制上の措置を受けられる。

稲岡家住宅主屋は、登録基準のうち「造形の規範となっているもの」に該当するとして、第46回の登録で取り上げられた。登録番号は28-0192。28は兵庫県を示す。登録年月日は平成17年7月12日、告示は同年8月2日である。

年代について、文化庁は「明治末期」とし、西暦の幅を1868年から1911年で示す。一方、兵庫県教育委員会の一覧は「明治末~大正」と少し広くとる。竣工年を一年単位で確定する材料は公開資料に見当たらないため、おおよその時期として受け取るのが妥当だろう。

古さだけが評価されたのではない。この家は伝統的な外観と近代的な平面を同時に抱えており、しかもそれが無理なく収まっている。

つし二階と中廊下

虫籠窓のある低い二階

一階の上には、屋根の勾配のなかに押し込むようにつし二階が設けられている。立って歩くには低く、もっぱら物置に使われる階だ。日本の建築登録では完全な階だけを階数に数えるため、構造は「木造平屋建、瓦葺、建築面積170㎡」と記録される。約51坪。実際には二層分の内部空間がありながら平屋と書かれるのは、そうした数え方の約束事による。

つし二階の壁面には虫籠窓が開く。木の下地に漆喰を厚く塗り重ねた縦格子で、名の由来は虫かごの形に似ることにある。物置階の通風を確保し、隣家からの延焼を防ぎ、そして壁面に光と影の縞を刻む。午後遅く、道を隔てて眺めると、格子の影が背後の壁に落ちて縞が二重になる。

一間幅の中廊下

床上部には、幅一間、およそ1.8メートルの中廊下が通る。専門家がこの家を語るとき、真っ先に挙げるのがこの一本だ。この規模の在郷住宅は、本来なら座敷を数珠つなぎに並べる。奥の間に行くには手前の部屋を横切るほかなく、来客があれば家族の動きは止まる。廊下が独立すれば、通り道と居場所が分かれる。各室が自分の建具を持ち、そこにわずかな私秘性が生まれる。

中廊下形式が日本の住宅に入ったのは明治期、西洋住宅の影響下でのことで、大正期に広く行きわたった。漆喰の虫籠窓を掲げた顔の裏側に、その新しい平面が仕込まれている。建築の変化が外からではなく内から進んだことを、一棟で示す例といえる。

訪ねる前に知っておきたいこと

この建物は個人の所有である。兵庫県教育委員会の一覧も所有者を「個人」と記載しており、一般公開や見学会、拝観料といった制度は設けられていない。現に人が住まう家であって、観光施設ではない。内部に入ることはできない。

したがって見られるのは公道からの外観に限られる。もっとも、東西棟の構え、段をなす下屋、つし二階の虫籠窓は、いずれも外から十分に読み取れる。この家の面白さの多くは建物の量感にあるから、外観だけでも得るものは少なくない。公道からの撮影は妨げられないが、住まいである以上、敷地に立ち入らない、開口部から内部を撮らない、話し声を落とす、といった配慮は欠かせない。

加西市へは北条鉄道が通じる。粟生駅から北へ向かう短い路線で、最寄りは法華口駅。大正4年(1915年)建設の木造駅舎そのものが平成26年(2014年)に登録有形文化財となっており、いまは駅舎内にパン工房が入る。三口町までは徒歩でおよそ20分、タクシーなら5分前後。姫路駅から社方面へ向かう神姫バスも周辺を通る。車では山陽自動車道の加古川北インターチェンジが近い。

足を延ばすなら、駅名の由来となった法華山一乗寺を組み合わせたい。承安元年(1171年)建立の三重塔は国宝で、建立年の判明する塔として日本有数の古例にあたる。寛永5年(1628年)再建の本堂は重要文化財。坂本町にあり、法華口駅から西へ5キロほど、拝観料は500円である。

Q&A

Q稲岡家住宅主屋の内部は見学できますか。公開日や拝観料はありますか。
A内部見学はできません。個人所有の現役の住宅であり、公開日・見学会・拝観料のいずれも設定されていません。登録有形文化財になっても公開義務は生じないためです。見学は公道からの外観に限られます。
Q稲岡家住宅主屋はなぜ「平屋建」と記録されているのですか。二階があるように見えます。
A上階が居住用の階ではなく、屋根裏に設けた低い物置階(つし二階)だからです。登録上は完全な階のみを数えるため、構造は「木造平屋建、瓦葺、建築面積170㎡」と記されます。壁の高い位置に見える虫籠窓が、この物置階に光と風を入れています。
Q稲岡家住宅主屋の「登録」と、重要文化財の「指定」はどう違うのですか。
A登録は平成8年に始まった比較的ゆるやかな制度で、近代の建物を使い続けながら守ることを目的とします。所有者は大きな改変の前に届け出を行い、技術的助言や税制措置を受けられます。重要文化財の指定は規制がはるかに強く、対象数も限られます。
Q稲岡家住宅主屋へはどう行けばよいですか。最寄り駅からの所要時間は。
A北条鉄道の法華口駅が最寄りで、粟生駅から北へ乗ります。駅から三口町までは徒歩20分ほど、タクシーで5分前後。姫路駅発の神姫バス社方面も周辺を通ります。車なら山陽自動車道の加古川北インターチェンジから。住所は加西市三口町813-2です。
Q稲岡家住宅主屋の周辺に、あわせて訪ねたい文化財はありますか。
A同じ敷地の西に接して昭和初期の稲岡家住宅離れが建ち、こちらも別個に登録されています。大正4年築の法華口駅舎は平成26年の登録有形文化財。西へ5キロほどの法華山一乗寺には承安元年の国宝三重塔があり、拝観料500円です。

基本データ

名称稲岡家住宅主屋(いなおかけじゅうたくしゅおく)
所在地兵庫県加西市三口町813-2
指定区分登録有形文化財(建造物)/登録番号 28-0192/第46回登録/登録基準「造形の規範となっているもの」
指定年登録 平成17年(2005年)7月12日/告示 同年8月2日
員数1棟
寸法木造平屋建(つし二階付)、瓦葺、建築面積170㎡
所有者個人
公開状況非公開。公道からの外観見学のみ

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「稲岡家住宅主屋」
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00004809
文化遺産オンライン「稲岡家住宅主屋」
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/195809
兵庫県教育委員会「国登録文化財(建造物)一覧」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~shabun-bo/gyouseisituhp/top/31kunitouroku.pdf
文化庁 国指定文化財等データベース「稲岡家住宅離れ」
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00004810
加西市「国宝 一乗寺三重塔」
https://www.city.kasai.hyogo.jp/soshiki/34/1685.html

最終更新日: 2026.08.26