上和野馬頭観世音旧堂:雫石に息づく江戸時代の馬神信仰

岩手県雫石町の静かな森の中に佇む上和野馬頭観世音旧堂(かみわのばとうかんぜおんきゅうどう)は、江戸時代中期から後期にかけて建立されたと推定される木造のお堂です。かつて馬頭観音を祀る本堂として地域の信仰を集め、現在は奉納された絵馬を多数収蔵する「絵馬堂」として親しまれています。2016年(平成28年)8月1日に国登録有形文化財(建造物)に登録されたこの旧堂は、南部馬の名産地として栄えた雫石の歴史と、人々と馬との深い絆を今に伝える貴重な建造物です。

馬頭観音(バトウカンノン)とは

馬頭観音は、仏教における観音菩薩の変化身の一つで、「六観音」にも数えられる尊格です。他の観音様が穏やかで女性的な表情をしているのに対し、馬頭観音だけは目を吊り上げ牙を剥いた憤怒の相をとるのが特徴です。頭上に馬の頭を戴き、衆生の無智や煩悩を打ち破る力を象徴しています。日本の民間信仰では、その名の通り馬の守護仏として広く信仰され、特に馬の飼育が盛んだった地域では、馬の無病息災を祈り、亡くなった馬の霊を慰めるために馬頭観音が数多く祀られてきました。

名馬の里・雫石と馬神信仰

上和野馬頭観世音旧堂の意義を理解するためには、雫石町と馬との深い関わりを知ることが欠かせません。江戸時代、南部藩(現在の岩手県一帯)は日本屈指の馬産地として知られ、「南部馬」は幕府の御馬買衆が仙岩峠を越えて買い付けに訪れるほど高い評価を得ていました。その玄関口に位置する雫石もまた、名馬産出の地でした。

雫石の人々は「曲り家(まがりや)」と呼ばれるL字型の伝統的民家で馬と共に暮らし、馬は家族同然の存在でした。こうした生活様式から、馬神への信仰は自然と篤いものとなり、馬の霊を慰める馬頭観世音の碑が各所に建てられ、馬頭観世音の仏像を安置して崇拝しました。

上和野馬頭観世音は、渋民村の芋田、滝沢村の蒼前社とともに「岩手郡三所の馬神」として広く信仰を集めていました。また、明治維新の頃まで雫石では毎年4月17日の早朝から七カ所を巡る「七観音詣」の風習があり、上和野の観音様はその一つに数えられていました。

旧堂の歴史と建築的特徴

旧堂は正面を北に向けて建てられた方3間(ほうさんげん)平面の建物で、入母屋造(いりもやづくり)の屋根を持ち、平入りの構成をとっています。屋根は鉄板一文字葺きで、正面に1間の向拝(こうはい)が設けられています。建築面積は32平方メートルです。

明治14年(1881年)の棟札には「再興」と記されていますが、これは新築ではなく、屋根の架け替えや縁周りの大修理を行ったと考えられています。虹梁(こうりょう)の絵様などの細部意匠や、柱などの軸部部材の風食(ふうしょく)状態から、当初の建築は江戸時代中期から後期にかけて(概ね1660年代〜1750年代)と推定されています。

明治3年(1870年)に一度廃堂となりましたが、明治14年に再興されました。その後、大正3年(1914年)に現在の本堂が建立された際に曳家(ひきや)によって現在の位置に移設され、以来、奉納された馬の絵馬を数多く収蔵する「絵馬堂」として用いられています。堂内には、かつて奥に3間通しの仏壇が設けられていた痕跡が残されており、本堂として使われていた当時の姿を偲ぶことができます。

なぜ国登録有形文化財に登録されたのか

上和野馬頭観世音旧堂が2016年に国登録有形文化財(建造物)に登録された背景には、以下のような文化的・歴史的価値があります。

  • 東北地方に残る江戸時代の仏教堂宇として、250年以上前の建築技法と意匠を今に伝える貴重な遺構であること。
  • 名馬の産地として知られた雫石における馬神信仰の様相を具体的に示す建造物であり、地域の文化的・精神的歴史を知る上で欠かすことのできない存在であること。
  • 堂内に残る仏壇の痕跡などから、本堂として使われていた当時の宗教空間の在り方を推察できること。
  • 収蔵されている馬の絵馬が、地域の人々と馬との親密な関係を視覚的に記録する貴重な資料であること。

現在の本堂と芸術的な見どころ

旧堂に隣接して建つ現在の本堂も、同じく国登録有形文化財に登録されています。大正初期(1914年頃)に総欅(けやき)造りで建立されたこの堂宇は、地元の有力な馬産家であった岩持祐助によって寄進されました。伝承によると、祐助は大切にしていた馬が行方不明になった際、「無事に帰ってきたら当代一流の宮大工の手で観音堂を改築して寄進する」と祈願しました。やがて馬が無事に戻り、祐助は当時の1,000円(現在の価値で相当な大金)を寄進してこの見事な観音堂を建立したのです。

本堂の正面を飾る彫刻は、「東北の左甚五郎」と讃えられた名工・円満造(えんまんぞう)こと高橋市蔵(秋田県中仙町、現大仙市出身)の手によるものです。円満造は卓越した技を持つ名人肌でありながら奇行でも知られ、大変な歌好きでもありました。秋田の有名な民謡「ドンパン節」は、彼にまつわる「円満造甚句」が元唄とされています。

また、本堂に掲額されている「馬頭観世音」の書は、盛岡出身の著名な教育者・新渡戸仙岳(にとべせんがく)の染筆です。仙岳は石川啄木の恩師として知られる人物で、啄木自身も小説の中で師について敬意をもって記しています。馬町(うままち)出身の先生に馬頭観音の書を依頼するという祐助のユーモアあふれる人柄も、この場所に息づく物語の一つです。

魅力・見どころ

上和野馬頭観世音を訪れると、有名観光地とは一線を画す、静謐で本物の文化体験が待っています。上和野公民館の脇から続く砂利道を300メートルほど進むと鳥居が現れ、その先に威容のある佇まいの堂宇が姿を見せます。

旧堂では、年月を重ねた木造建築の風格と、馬をモチーフにした絵馬の数々が、かつてこの地で人と馬がいかに深い絆で結ばれていたかを物語ります。隣接する本堂では、円満造の見事な彫刻と総欅造りの風格ある建築を間近に鑑賞できます。二棟の建物が一体となって、江戸時代から大正時代に至る馬神信仰の連綿たる歴史を伝えています。

毎年9月17日は縁日で、雫石町内の曹洞宗寺院(廣養寺・永昌寺)によるお勤めが行われます。生きた信仰の伝統に触れることのできる貴重な機会です。

周辺情報

雫石町は豊かな自然と文化に恵まれた町で、上和野馬頭観世音と合わせて訪れたい魅力的なスポットが数多くあります。

  • 小岩井農場(こいわいのうじょう) — 明治24年(1891年)創業、日本最大級の民間総合農場。岩手山を背景に広がる牧草地で動物とのふれあいや農場グルメを楽しめます。春には「一本桜」が岩手山と残雪のコントラストを見せる絶景スポットとして有名です。
  • 岩手山(いわてさん) — 標高2,038メートルの雄大な成層火山で、日本百名山の一つ。夏のハイキングはもちろん、四季折々の雄姿が楽しめます。
  • つなぎ温泉・網張温泉(あみはりおんせん) — 周辺に点在する天然温泉で、観光の後にゆったりと疲れを癒すことができます。
  • 道の駅 雫石あねっこ — 地元の農産物や特産品、郷土料理を楽しめる道の駅。日帰り温泉施設も併設されており、地域の味覚と文化に触れる休憩スポットとして人気です。

Q&A

Q上和野馬頭観世音旧堂へのアクセス方法は?
AJR田沢湖線・雫石駅から車で約20分です。カーナビやGoogleマップでは「上和野公民館」を目的地に設定してください。公民館の脇の砂利道を約300メートル進むと境内に到着します。なお、住所で検索すると正確な場所が表示されない場合がありますのでご注意ください。
Q拝観料はかかりますか?
A拝観料は無料です。年間を通じて自由に参拝いただけます。ただし、信仰の場ですので、マナーを守ってお参りください。
Qおすすめの訪問時期はいつですか?
A春から秋(4月〜11月)が快適に参拝できる季節です。特に毎年9月17日の縁日は、お勤めが行われる特別な日です。春の桜、秋の紅葉の時期は境内の自然も美しく、おすすめです。
Q駐車場はありますか?
A専用の大型駐車場はありませんが、上和野公民館付近に駐車スペースがあります。砂利道を車で進むことも可能ですが、道幅が狭い箇所がありますのでご注意ください。
Q小岩井農場と一緒に訪問できますか?
Aはい。小岩井農場は同じ雫石町内にあり、車で約15〜20分の距離です。馬産の歴史を伝える旧堂と、牧場の風景を楽しむ小岩井農場を合わせて訪れると、雫石の「人と動物の共生」の歴史をより深く感じることができます。

基本情報

名称 上和野馬頭観世音旧堂(かみわのばとうかんぜおんきゅうどう)
文化財指定 国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 平成28年(2016年)8月1日
建築年代 江戸時代中期〜後期建立(推定1661〜1751年)、明治14年(1881年)改修、大正3年(1914年)移築
構造 木造平屋建、入母屋造、平入り
屋根 鉄板一文字葺
建築面積 32㎡
所在地 〒020-0583 岩手県岩手郡雫石町上野下沢田105
所有者 宗教法人上和野馬頭観世音
アクセス JR田沢湖線・雫石駅から車で約20分。カーナビでは「上和野公民館」で検索。
拝観料 無料
お問い合わせ 雫石町 生涯文化スポーツ課 TEL: 019-692-4181

参考文献

国登録有形文化財(建造物) 上和野馬頭観世音旧堂 | 岩手県雫石町役場
https://www.town.shizukuishi.iwate.jp/docs/2020031900054/
上和野馬頭観世音旧堂 | 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/295149
上和野馬頭観世音旧堂 | いわての文化情報大事典
http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/hist591
ご存知ですか?雫石の新名所♪「上和野馬頭観世音本堂・旧堂」| ゆこたんの森ブログ
https://blog.yu-kotan.jp/2016/06/blog-post.html
馬頭観音 | Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3

最終更新日: 2026.03.22