殖林事業の事務所として生まれた洋館

旧島津家吉野殖林所は、鹿児島県鹿児島市吉野町9688-24にある明治42年(1909年)建築の木造平屋建の洋風建築で、平成11年(1999年)8月23日に国の登録有形文化財に登録された。もとは吉田村(現在の鹿児島市吉田町)に建てられ、昭和61年(1986年)に磯街道沿いの現在地へ移築され、現在は磯工芸館の名で島津薩摩切子のギャラリーショップとして使われている。

寄棟造、瓦葺、建築面積は約178平方メートル。正面にはベランダが通る。ここまでなら、明治の洋風事務所建築として珍しくはない。

目を引くのは玄関ポーチである。

洋風建築なら平屋根か普通の切妻を載せるところに、この建物はムクリ屋根の切妻を置いている。ムクリは、社寺の軒に見られる反り(そり)とは逆に、断面がゆるやかに凸へ張り出す曲線のことだ。破風の下には懸魚が下がる。社寺の破風板を飾るあの部材である。二本の柱をつなぐ虹梁の上には蟇股が載り、そこに丸十紋、円の中に十字を組んだ島津家の家紋が彫り込まれている。玄関先に三十秒立ち止まれば、明治期の鹿児島における和洋の折衷が、そのまま目に入る。

設計者と施工者の名前が判明している点も、この規模の実務用建築としては珍しい。設計は隈元長栄、施工は丸田十兵衛。

内部は店舗として手が入っている。右手に倉庫部屋が残るほかは一室に改造され、白を基調とした空間にカットガラスが並ぶ。ベランダ側の窓から入る光が、切子の断面を照らす。

登録の経緯と背景にある事業

登録は平成11年8月23日、登録番号46-0006。官報告示は同年9月7日である。登録有形文化財の制度が始まったのは平成8年(1996年)だから、鹿児島県からの登録としては最初期の一件にあたる。適用された登録基準は「造形の規範となっているもの」。

評価の焦点は外観に置かれている。独特の意匠になるベランダと玄関ポーチが、移築を経てなお当初の姿をよく保っていること。移築された建造物は、本来あった場所と切り離される以上、文化財としては扱いの難しい存在だ。この建物の場合、部材の残りのよさと意匠の希少性が、所在地の変更を上回る価値と判断されたことになる。

本来の用途にも触れておきたい。殖林とは植林、すなわち造林事業のことである。島津家は吉野村から吉田村にかけての一帯で植林を行っており、この建物はその管理事務所として建てられた。薩摩は石炭を産しない土地だった。反射炉も、窯も、ガラス工場も、燃料は木に頼るほかない。計画的に木を育てることは、幕末以来この地の産業を支える基盤であり続けた。事務所建築とはいえ、装飾のためではなく事業のために建てられている。

移築後の役割は、同じ産業史の反対側の端につながる。薩摩切子は、島津家28代・斉彬のもとで安政年間ごろに完成した色被せの厚いカットガラスだが、およそ二十年ほどで製造が途絶えた。昭和60年(1985年)前後、株式会社島津興業が文献をもとに復元に着手し、磯の地に工場とショップを設けた。翌昭和61年、販売と展示の場としてこの建物が海沿いへ移されている。藩の木材を管理していた建物が、藩の生み出したガラスを扱う場所になったわけである。

訪ねかたと周辺

磯工芸館の営業時間は9時から17時。悪天候などによる臨時休業を除き年中無休で、ギャラリーショップとして入るのに入館料はかからない。周囲の有料施設とは、この点が異なる。電話番号は099-247-8490。

隣接する薩摩切子の工場は見学ができる。色被せの層を刃が削り、下の透明ガラスが現れる瞬間を見れば、技法の説明を読むより早く理解できるだろう。ぼかしと呼ばれる階調は染料ではなく、カットの深さの違いから生まれる。ただし工場見学は月曜日、第3日曜日、年末年始は行われないのが通例なので、これを目当てにするなら事前に確認しておきたい。

周辺の見どころは徒歩数分の圏内にまとまっている。慶応元年(1865年)建築の石造機械工場を用いた尚古集成館は重要文化財であり、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産でもある。万治元年(1658年)に島津家19代・光久が築いた別邸庭園、仙巌園も隣接する。仙巌園・尚古集成館・御殿の観覧は別途有料である。

鹿児島中央駅からは観光周遊バス「カゴシマシティビュー」で仙巌園前まで約30分。海沿いを走る一般の路線バスも同じ地区に停まる。車の場合は仙巌園の有料駐車場が利用できる。

入る前に、いちど道の向かい側から眺めてみてほしい。国道の交通量のなかに白い洋館が置かれた光景には、どこか収まりの悪さがある。それもそのはずで、この建物はもともとここにあったものではない。

Q&A

Q旧島津家吉野殖林所は見学できますか。入館料はかかりますか。
A見学できます。現在は磯工芸館として島津薩摩切子のギャラリーショップになっており、営業時間は9時から17時、年中無休です。ショップに入るのに入館料はかかりません。隣接する仙巌園・尚古集成館は別途観覧料が必要です。
Q旧島津家吉野殖林所はもともとどこにあった建物ですか。
A明治42年(1909年)に吉田村(現在の鹿児島市吉田町)に、島津家の殖林事業を管理する事務所として建てられました。昭和61年(1986年)に解体・移築され、現在の吉野町の敷地に建っています。
Q旧島津家吉野殖林所の見どころはどこですか。
A玄関ポーチです。切妻のムクリ屋根に破風下の懸魚、二本の柱をつなぐ虹梁の上には島津家の丸十紋を彫った蟇股が載ります。寄棟造の本屋正面を通るベランダとあわせ、和と洋の要素が同居する意匠が登録の評価点になっています。
Q旧島津家吉野殖林所の設計者と施工者はわかっていますか。
A設計は隈元長栄、施工は丸田十兵衛と記録されています。この規模・用途の実務用建築で設計者と施工者の双方が判明している例は多くありません。
Q旧島津家吉野殖林所の隣で薩摩切子の製作は見られますか。
A隣接する工場で製作工程を見学できます。ただし月曜日、第3日曜日、年末年始は見学を行わないのが通例です。工場見学が主目的の場合は099-247-8490へ事前に確認することをおすすめします。
Q旧島津家吉野殖林所へは公共交通でどう行けますか。
A鹿児島中央駅から観光周遊バス「カゴシマシティビュー」で仙巌園前まで約30分です。海沿いを走る一般路線バスも同じ地区に停車します。建物は尚古集成館と国道のあいだ、磯街道に面して建っています。

基本情報

名称旧島津家吉野殖林所(きゅうしまづけよしのしょくりんじょ)/現称・磯工芸館
所在地鹿児島県鹿児島市吉野町9688-24
指定区分登録有形文化財(建造物)/登録番号46-0006/登録基準「造形の規範となっているもの」
指定年平成11年(1999年)8月23日登録・同年9月7日告示
員数1棟
寸法木造平屋建、瓦葺、建築面積約178平方メートル(178.26平方メートルとする資料もある)
所有者株式会社島津興業
公開状況磯工芸館として9時〜17時に営業、年中無休。ショップの入館は無料。電話099-247-8490

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース — 旧島津家吉野殖林所
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00001322
文化遺産オンライン — 旧島津家吉野殖林所
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/166632
島津薩摩切子 — 磯工芸館
https://satsumakiriko.co.jp/pages/isokougeikan
かごしま文化財事典プラス — 旧島津家吉野殖林所
https://k-bunkazai.com/cultural/f-q-60005/
鹿児島県観光サイト — 島津薩摩切子ギャラリーショップ 磯工芸館
https://www.kagoshima-kankou.com/guide/12252

最終更新日: 2026.08.12